第5章 戦争編
第39話 王国からの使者
ダンジョン最上階。コアルーム。
ここは世界から最も隔絶された場所でもある。街の喧騒は、何層もの石と闇に遮られ、ここまで届くことはない。
俺とシノンは、街の騒ぎから逃げるように、この静謐な聖域に避難していた。
シノンが呼び出したソファに身を沈める。柔らかい。いや、柔らかすぎる。まるで、堕落を誘うかのような心地よさだ。
ダンジョンマスター権限で出した家具は、どんな高級品よりも完璧に、俺の身体に馴染む。
「そんで、神様への嫌がらせ考えた?」
わざと軽い口調で言った。意図せず得てしまった、肩書の重さから目を逸らすように。
「まずダンジョンの構造から、神の思惑を推測してみよう」
「まず、なぜ最上階に召喚陣があるか」
シノンの声は、いつもの分析モードだ。感情を排し、ただ論理だけで世界を読み解こうとしている。
「これは到達者に対する報酬と同時に、神の目的に沿うものでもあるはず」
召喚陣。
俺たちをこの世界に連れてきた、あの忌まわしい魔法陣。
そのオリジナルが、なぜかダンジョンの最深部に存在していた。
「そう考えると、神の目的は人間に試練を与えて、成長を促すか……」
シノンが一瞬、言葉を区切った。
「あるいは、単なる娯楽目的か」
その「娯楽」という言葉に、氷のような冷たさが滲んでいた。
俺たちは——玩具だったのかもしれない。
強制的に連れてこられ、戦わされ、死にかけて、それでも生き延びて。誰かの「娯楽」のために。
「召喚陣を与えたのは、停滞を避けるためじゃないかな」
シノンは続けた。彼の声は、相変わらず冷静だ。だが、その冷静さの下に、怒りが渦巻いているように感じられた。
「定期的に勇者を呼び出せば、攻略が進む。誰も攻略できないダンジョンじゃ、いずれ廃れるかもしれないからね」
そう。
神々は、このダンジョンが——この「ゲーム」が続くことを望んでいる。
だから、定期的に新しい駒を投入する。
故郷から引き剥がされた、何も知らない人間を。
シノンが一息ついた。魔法陣の光が、ゆらりと揺れる。
「まずは、この仮定を元に神の意図の逆をやってみよう」
「逆? つまりどういうこと」
「人に試練を与えるダンジョンじゃなくて」
シノンは、そこで初めて——微笑んだ。
それは、美しい笑みだった。
そして同時に、どこまでも、どこまでも——邪悪な笑みだった。
「人を堕落させるダンジョンにするってこと」
堕落。
その言葉が、コアルームに静かに響いた。
「堕落って……」
「とりあえず、低階層を住心地のいい街に変えちゃうってのはどうかな?」
シノンは、まるで明日の献立を相談するような口調で言った。
「評議会も納得しやすい変更だと思うけど」
ああ、なるほど。
神々が望むのは、試練だ。困難だ。人間が苦しみながら成長する姿だ。
だったら——
その真逆を。
試練のないダンジョン。
危険のない冒険。
苦しみのない、ただ快楽だけがある場所。
「そうだな」
俺は立ち上がった。身体がソファから離れることを、ほんの少しだけ惜しんだ。あまりにも心地よすぎる。
これが、堕落の第一歩なのかもしれない。
「じゃあ一旦、評議会に共有するか。面倒だけど」
面倒だ。
本当に、面倒だ。
だが——それでも。
俺たちは、神々の描いたシナリオを、ひっくり返してやる。
この世界が、俺たちに試練を与えたいなら。
俺たちは、この世界に——安寧を与えてやる。
それが、神々にとって最大の「試練」になることを願いながら。
*
評議会の建物に足を踏み入れた瞬間、異様な空気を感じた。
いつもなら静謐なロビーが、ざわめきに満ちている。職員たちが早足で行き交い、書類を抱え、小声で何かを囁き合っている。まるで、巣に外敵が侵入した蟻の群れのような——統制された混乱。
受付で、議長への取り次ぎを頼んだ。ついでに、この慌ただしさの理由を聞いてみた。
「何かあった? やけに慌ただしいけど」
受付嬢は、一瞬だけ——本当に一瞬だけ、俺たちの顔を見た。その視線には、同情のようなものが混じっていた気がした。
「何でも、急遽アルカディア王国の使節団がいらっしゃったとかで」
王国。
その単語を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
だが、俺は顔には出さなかった。こっちへ来てから、俺は嘘をつくことに——いや、正確には、真実を隠すことに——随分と慣れてしまった。
「そうすると、議長は今、立て込んでいるのかな?」
「ええ、申し訳ありませんが、応接室でお待ちいただけないでしょうか」
受付嬢は、本当に申し訳なさそうに頭を下げた。彼女は何も知らない。
知らないまま、丁寧に、俺たちを——もしかしたら、この都市の破滅をもたらすかもしれない存在を——もてなそうとしている。
「わかった。じゃあ、応接室で待たせてもらうよ」
*
応接室は、やけに広かった。
天井が高く、壁には古い絵画が飾られている。この都市の歴史を描いたものだろうか。冒険者たちが、ダンジョンに挑み、勝利し、富を得る。何百年も繰り返されてきた、この都市の物語。
俺たちは、案内されたソファに腰を下ろした。
「それでは、御用がありましたら、そちらのベルを鳴らして下さい」
メイドがお茶を淹れ、そう言って退室する。静かに閉まるドアの音が、やけに大きく聞こえた。
「なあ、王国の使節団って、俺たち絡みかな?」
俺は、シノンに問いかけた。
シノンは、カップを手に取り、一口だけ紅茶を飲んだ。それから——
「可能性はあるね」
淡々と答えた。
「隠蔽に失敗したか、あるいは後継者争いで宰相の派閥が負けたか、どちらにしても、予測の範囲内だよ」
シノンの声には、驚きも、恐れも、何の感情も含まれていなかった。
まるで、天気予報を読み上げるように。明日は雨でしょう、と。
時間が、奇妙にゆっくりと流れた。
紅茶は、少しずつ温度を失っていく。湯気が立たなくなり、表面に小さな波紋すら生まれなくなった。
そして——ちょうど、温くなった紅茶に口をつけたところで。
応接室の扉が、ノックされた。
「どうぞ」
シノンが答える。俺ではなく、シノンが。
それが何を意味するのか、俺には分かっていた。
この状況で、冷静でいられるのは——シノンだけだ。
扉が開き、議長が顔を出した。
「お待たせしてしまって、申し訳ありません」
彼の顔は、疲弊していた。額に汗が浮かび、視線が定まらない。まるで、何か重大な決断を迫られ、その重さに押し潰されそうになっている人間の顔だ。
「その、王国の使節団の件で、お二人にも関係がありまして……いえ、事実確認をさせていただければと思いまして……」
しどろもどろだ。
ガルダ=ラグナ評議会の議長——この都市で最も権力を持つ男が、言葉に詰まっている。
嫌な予感が、膨らんだ。
いや、もう「予感」ではない。確信に変わりつつあった。
「王国の使節団が言うには」
議長は、一度深呼吸をした。
「お二人に、国王、王太子の——殺害容疑がかかっているとのことで」
殺害容疑。
ああ、やっぱりそっちか。俺は、内心で小さく溜息をついた。
「引き渡しを要求されているのですが……」
議長は、そこで言葉を区切った。それから、慌てて付け加える。
「もちろん、事実がどうあれ、ダンジョンマスターを引き渡すことなどありませんからご安心下さい」
その言葉に、俺は——なんと答えるべきか、分からなかった。
だが、シノンは違った。
「ああ、あの二人ね」
まるで、昨日見た映画の登場人物を思い出すかのように。
「殺すつもりはなかったけど、結果的には死んだね。因果関係で言えば、僕たちの行動が原因ではあるから、間違ってはいないかな」
その声には、悪意も、罪悪感も、何の感情も含まれていなかった。
シノンが、あっさりと言った。
まるで、昨日の夕飯の献立を報告するかのように。
「おい、おい」
俺は、思わず苦笑した。
「もうちょっと言い方ってもんがあるだろ」
別に、事実を否定するつもりはない。だが、議長の顔色を見ろよ。真っ青じゃないか。
シノンは、俺を見て、不思議そうに首を傾げた。
「何? 事実だよ?」
その目には、本当に——本当に、何の曇りもなかった。
まるで、「りんごは赤い」と言うのと同じ調子で、「二人は死んだ」と言っている。
議長の顔が、蒼白になった。
シノンは、それに気づいて——ああ、と小さく声を上げた。
「大丈夫だよ」
彼は、議長をまっすぐに見つめた。
「この都市は僕らに全面協力をしてくれるんだよね?」
その視線には、交渉の余地など存在していなかった。
これは、問いかけではない。
確認だ。
いや——もっと正確に言えば、これは脅迫だった。
議長の喉が、ゴクリと動いた。
「……もちろん」
彼は、そう答えるしかなかった。
シノンは、満足したように頷いた。それから——
「それから、使節団は王子の名代? それとも国王?」
「王国は現在、第二王子が即位し、国王となっています。使節団も、国王が派遣したものです」
「なるほどね」
シノンは、何かを納得したように頷いた。
「タイミング的には、ごたつく国内をまとめるために外敵を作ったってところかな」
シノンは、まるで将棋盤を眺めるように、冷静に状況を分析していた。
「とりあえず、事実無根っていって突っぱねておいて」
シノンは、軽く言った。
それから——
「おそらく戦争になるだろうけど」
何でもないように。
本当に、何でもないように。
「……戦争、ですか」
議長が、絞り出すように言った。
その声は、震えていた。
そりゃそうだ。この都市は何百年も平和だったんだから。
「ああ、それから」
シノンは、まるで思い出したかのように言った。
「今日はダンジョンの改造案を持ってきたんだけど、ちょうどよかった」
ちょうどよかった。
戦争の話をした直後に、「ちょうどよかった」と。
まあ、確かにタイミングはいい。
「ダンジョンの低階層を丸ごと安全な街に作り変えるよ。モンスターも出ない。そこを避難所にすればいい」
シノンは、本当に楽しそうだった。
まるで、新しいおもちゃを見つけた子供のように。
「ダンジョンを……避難所に、ですか」
議長が、呆然と繰り返した。
「うん。ダンジョンなら僕の許可無く入れないから、王国が攻めてきても安心でしょ」
シノンは、本当に親切そうに言った。
そして——
「それから、もし攻めてきたら迎撃くらいはするよ。健太が」
「えええ! そこで俺に振るの?」
俺は、思わず声を上げた。
シノンは、俺を見て——少しだけ、申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね。でも、健太の方が戦闘向きだし」
俺は、軽く頷いた。
別に、戦争が嬉しいわけじゃない。
だが——避けられないなら、やるしかない。
神と戦うって決めた時点で、こういうことも覚悟の内だ。
「それに、もしかすると戦争も神の思惑と違うかも知れないしね」
シノンの目が、好奇心に満ちて輝いた。
その光は——純粋だった。
そして同時に、どこまでも、どこまでも——無邪気だった。
「ああ、それは面白いかもな」
俺も、少し笑った。
神の思惑を外す。それが、俺たちの目的だ。
戦争も、その一部なら——むしろ、歓迎すべきかもしれない。
応接室に、沈黙が落ちた。
議長は、何も言えなかった。
いや、何を言えばいいのか、分からなかったのだろう。
目の前にいるのは、二人の少年だ。
だが——彼らは、たった今、戦争を予告した。
いや、予告ではない。
もっと正確に言えば——彼らは、戦争を受け入れた。
まるで、それが避けられない天候のように。
まるで、それが予定されていた行事のように。
「……分かりました」
議長は、ようやく声を絞り出した。
「王国の使節団には、事実無根として突っぱねます。それから、ダンジョンの改造案……避難所の件も、評議会で諮ります」
「よろしく」
シノンは、軽く手を振った。
その仕草は、友達に手を振るのと何も変わらなかった。
議長は、まるで逃げるように、応接室を後にした。
ドアが閉まった。
再び、俺たちだけになった。
「……なあ、シノン」
俺は、カップを置いた。中身は、もう冷めきっていた。
「ん?」
「お前、戦争になるの、楽しみにしてるだろ」
シノンは、少しだけ——本当に少しだけ、バツが悪そうに笑った。
「……ちょっとね」
「だろうな」
俺も笑った。
別に、責めるつもりはない。
シノンにとって、この世界は——たぶん、俺が思うよりもずっと——観察対象なんだろう。
「でもさ、健太は怖くないの?」
シノンが、不思議そうに聞いた。
「戦争になるんだよ? 人が死ぬんだよ?」
「怖くないって言ったら嘘になるな」
俺は、正直に答えた。
「でも、元の世界に帰るって決めた時点で、こういうことも覚悟してた」
「神と戦うんだろ? なら、戦争の一つや二つ、避けて通れるわけがない」
シノンは、俺を——じっと見た。
その目には、何が映っていたのだろう。
「……健太は、強いね」
「強くなんかないよ。ただ、諦めが悪いだけだ」
俺は、立ち上がった。
「行くか。ダンジョンを改造しないと」
「うん!」
シノンは、嬉しそうに笑った。
二人で、応接室を後にする。
廊下を歩きながら、俺は思った。
これから、戦争が起きるかもしれない。
人が死ぬかもしれない。
街が燃えるかもしれない。
でも——
それでも、俺たちは進む。
元の世界に帰るために。
神の思惑を、ひっくり返すために。
「健太」
シノンが、呼んだ。
「なに?」
「僕ね、健太と一緒にいると、楽しいんだ」
その声は——少しだけ、寂しそうだった。
「……急にどうした」
「ん、なんとなく」
シノンは、それ以上何も言わなかった。
俺も、それ以上聞かなかった。
ただ——何となく、分かった気がした。
シノンは、この世界を観察している。
でも、俺のことは——たぶん、違う。
俺は、シノンにとって——観察対象じゃない。
それが、何を意味するのかは、分からない。
でも——
「俺もだよ」
俺は、そう答えた。
「お前と一緒にいると、退屈しない」
シノンは、嬉しそうに笑った。
二人で、評議会の建物を後にした。
外は、まだ明るかった。
シノンは、空を見上げて——
「いい天気だね」
と、無邪気に言った。
「……ああ、そうだな」
俺も、空を見上げた。
青い空。白い雲。
平和な、いい天気だ。
でも——この空の下で、今、戦争の準備が始まっている。
それでも、空は変わらず青い。
「行こうぜ」
「うん」
二人で、ダンジョンへ向かった。
これから、何が起きるのか。
それは、まだ誰にも分からない。
でも——少なくとも、俺たちは。
自分たちで、道を選んでいる。
神が用意したレールじゃない。
俺たちが、自分で決めた道を。
それだけで——十分だ。
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