第33話 強欲の果て、正義の仮面が剥がれるとき
朝食を済ませて、ダンジョンへ向かう。
いつもの日課。
空は高く、風は穏やかで――まるで昨日と同じ朝みたいに。
だが、何かが違う。
空気が、重い。
「今日でたどり着けるかな、最上階まで?」
「うん。そして、帰還方法の手がかりを見つけよう」
シノンの声は、相変わらず前向きだった。
前向きすぎるほどに。
街を歩いていると、何人かの冒険者とすれ違う。
彼らは俺たちを見ると――慌てて道を開けた。まるで、何か恐ろしいものを見たみたいに。
その目には、畏怖と、そして――少しの恐怖。
「……相変わらず、変な反応されるな」
「有名人だからね」
シノンは気にした様子もない。
俺も、まあそんなもんかと思って、気にせずダンジョンへと向かった。
気づかなかった。
俺たちの後ろで、街が――崩れ始めていることに。
*
その頃、商業地区では――
「臨時休業のお知らせ」
張り紙が、一軒の店に貼られていた。
黄金の環が運営していた商店。琥珀色の看板が、朝陽を受けて鈍く光っている。
そして、その隣の店も。その隣も。
全ての店の扉が閉ざされていた。
「おい、黄金の環の店、全部閉まってるぞ……」
「マジかよ……一体何があったんだ……」
商人たちが、ざわつき始めていた。
誰もが感じている――これは、終わりの始まりなんだと。
そして、正午過ぎ。
黄金の環の本部から、一枚の布告が掲げられた。
『事業停止のお知らせ』
その短い言葉に、街全体が――静まり返った。
ざわめきが、止まる。
やがて、どこからともなく声が上がり始める。
驚き、困惑、そして――誰かを責める声。
「あの二人のせいだ」
「最前線の冒険者が、素材を売りすぎたんだ」
「黄金の環が破産したのは、あいつらのせいだ」
噂は、風のように街中を駆け巡った。
真実を知る者は、誰もいない。
*
冒険者ギルド、ギルドマスターの執務室。
「黄金の環、正式に破産しましたね」
副ギルドマスターが、報告書を置いた。羊皮紙の束が、机の上で音を立てる。
「……そうか」
ギルドマスターは、窓の外を見つめたまま答えた。
その横顔には、複雑な感情が浮かんでいる。
「あの二人のせいだと、街中で噂になっています」
「彼らのせいではない」
ギルドマスターは、静かに首を振った。
「彼らは、ただダンジョンに潜り、素材を持ち帰っただけだ。それは冒険者として、極めて正当な行為だ」
「ですが……」
「黄金の環が崩壊したのは、自らの経営判断の誤りだ。相手の供給量を見誤り、資金計画を誤った。それだけのことだ」
ギルドマスターは、椅子に深く腰掛けた。
窓の外では、街の喧騒が聞こえる。誰かが叫んでいる。誰かが泣いている。
「むしろ、これで健全化する」
「健全化……ですか?」
副ギルドマスターは、信じられないという顔をした。
「黄金の環は、長年にわたって素材の流通を独占し、価格を操作してきた。冒険者たちは、不当に安い価格で素材を買い叩かれていた」
ギルドマスターの声には、わずかな怒りが――そして、わずかな安堵が含まれていた。
「今回の件で、市場に大量の素材が流れた。相場は下がったが、それは本来の適正価格に近い。そして、独占が崩れた今、冒険者たちは自由に取引相手を選べる」
彼は、ゆっくりと立ち上がった。
「あの二人には、感謝すべきかもしれんな」
ギルドマスターは、苦笑した。
「本人たちは、何も考えていないだろうがな」
*
商業ギルド、会議室。
「黄金の環が倒産した今、あの流通ルートは空いている」
「我々で分割しよう」
「同意だ」
有力商人たちが、次々と手を挙げる。
黄金の環が独占していた流通ルート。それは、莫大な利益を生み出す黄金の道だ。
誰も、その道を手放したくはなかった。
「では、各自の取り分を決めよう」
会議は、粛々と進んでいった。
誰も、黄金の環を悼む者はいなかった。
ビジネスの世界では、倒れた者は踏み台にされる。それが現実だった。
そして――誰もが、次は自分の番かもしれないとは、考えなかった。
*
ダンジョンの入口に着くと、周囲の視線が集まった。
「聞いたか? 黄金の環、完全に潰れたらしいぞ」
「あの三大クランの一つが……信じられねぇ」
「赤牙連に続いて、二つ目だ」
「どっちも、あの二人が関わってる……」
冒険者たちが、俺たちを見ながらひそひそと話し合っている。
まあ、慣れたけど。
そのままダンジョンに入ろうとしたとき――
「少々、お時間をいただけますか」
背後から声がかかった。
振り返ると、白い外套を纏った男たちが立っていた。
胸には、白い盾の紋章。
清潔で、整然としていて――そして、どこか冷たい。
「何? これから、ダンジョン潜るんだけど」
少し不機嫌に答える。朝からこういうの、苦手なんだよな。
「私たちは、シルバーウォードの者です」
リーダーらしき男が、丁寧に頭を下げた。
三十代くらいだろうか。整った顔立ちで、真面目そうな雰囲気を醸し出している。
演技のように完璧な礼儀正しさ。
「シルバーウォード……?」
「この街の秩序を守る組織です」
男は真剣な眼差しで、俺たちを見つめた。
「そして、お二人にお願いがあります。お二人の力を、我々に貸していただけないでしょうか」
あー、こういう展開か。
「我々シルバーウォードは、この街の秩序を守るために活動しています」
リーダーの男――エドガーと名乗った――は、熱心に語り始めた。
「赤牙連のような暴力組織、黄金の環のような搾取組織。そういった悪を正すために、我々は存在しているのです」
「はぁ……」
俺は、適当に相槌を打った。
正直、興味がない。秩序とか、正義とか――そういう言葉は、いつも何かを覆い隠している。
「そして、お二人の力は素晴らしい。四十階到達、前人未到の快挙です」
エドガーの声には、敬意と――わずかな羨望が混じっていた。
「その力を、正義のために使っていただきたい。我々シルバーウォードに加入し、共に街の秩序を守っていただけないでしょうか」
来たよ、スカウト。
「いや、別に……」
俺は、首を横に振った。
「僕たち、帰る方法探してるだけなんで」
シノンが、さらりと答える。
「帰る方法……?」
「ああ。ダンジョンの最深部に、きっと手がかりがあるはずなんだ。だから、クランとか興味ないです」
エドガーの表情が、わずかに曇った。
理解されなかった、という顔。
「しかし、強大な力には責任が伴います。お二人ほどの実力者が、野放しでいることは――」
「ごめんなさい、ダンジョン行くんで」
俺は話を遮った。
これ以上長くなるのは、勘弁してほしい。
「あ、ちょっと待ってください……」
「じゃあ」
シノンも、もう歩き出している。
俺たちは足早にダンジョンへ入ると、すぐに四十階の転送陣に乗った。
背後で、エドガーが何か言っている声が聞こえたけど――聞こえないふりをした。
*
シルバーウォードの本部――
「……断られました」
エドガーの報告に、幹部たちは顔を見合わせた。
白い外套を纏った男たちが、円卓を囲んでいる。誰もが、正義を信じた目をしている。
「あの二人、我々に従う気はないようです」
「ふむ……」
クランマスターが腕を組む。白い外套が、揺れた。
「ならば、仕方ない。彼らが我々に従わざるを得ない状況を作るまでだ」
「と、言いますと?」
「彼らを孤立させる」
クランマスターは、冷たく笑った。その笑みには、確信があった。
「この街で、誰も彼らと関わらないようにすればいい。宿屋、飲食店、商店――全てに圧力をかけろ。あの二人と取引する者は、我々の敵だとな」
「了解しました」
幹部たちは、それぞれの担当へと散っていった。
誰も疑わなかった。自分たちの正しさを。
正義の名のもとに、彼らは動き始めた。
*
シルバーウォードのメンバーが、街中を駆け回っていた。
まずは、二人が泊まっている宿屋へ。
「あの二人を、泊めないでいただきたい」
エドガーが、宿主に告げた。
だが――
「……は?」
宿主は、信じられないという顔をした。
「なんで?」
「彼らは、街の秩序を乱す存在です」
「いや、全然そんなことないけど?」
宿主は首を傾げた。
「あの二人、毎日金を落としてくれるし、文句も言わないし、部屋も汚さない。最高の客だよ?」
「しかし――」
「それに」
宿主の目つきが、変わった。
「あの二人が怒ったらどうすんだ? ドルガを秒殺した二人だぞ? あんたらが守ってくれるのか?」
「……」
エドガーは、答えられなかった。
「帰ってくれ。客商売の邪魔だ」
宿主は、ぴしゃりと扉を閉めた。
木製の扉が、バタンと音を立てる。
*
次に、素材を買い取っている商店へ。
「あの二人の素材を買わないでいただきたい」
シルバーウォードのメンバーが告げる。
だが――
「冗談じゃない!」
商人は激怒した。
「四十階の素材だぞ! しかも大量だ! こんなチャンス、逃すわけないだろ!」
「しかし、秩序のためには――」
「秩序? 笑わせるな!」
商人は鼻で笑った。
「黄金の環が消えた今、やっと自由に取引できるようになったんだ。なんでお前らの言うこと聞かなきゃいけないんだ?」
「我々は、街の秩序を――」
「むしろ、あんたらが邪魔してるんだけど?」
別の商人も口を挟んだ。
「取引の自由を侵害してるのは、そっちだろ」
「そうだそうだ!」
商人たちは、口々に抗議した。
シルバーウォードのメンバーは、何も言えず店を出るしかなかった。
*
飲食店でも、同じだった。
「あの二人に、食事を出さないでいただきたい」
「無理」
店主は即答した。
「うちの店、あの二人が来るようになってから評判上がってるんだ」
「評判……?」
「『最前線の冒険者が通う店』って。宣伝になってるんだよ」
店主は誇らしげに笑った。
「あの二人のおかげで、他の冒険者も来るようになった。断る理由がない」
「……」
シルバーウォードのメンバーは、何も言えなかった。
正義を掲げても、誰も従わない。
彼らが信じていた「秩序」は、幻想だった。
*
その夜、シルバーウォードの本部。
「全て……失敗……?」
クランマスターの声が、会議室に響いた。
「はい……誰も我々の言うことを聞いてくれませんでした……」
エドガーは申し訳なさそうに報告した。その肩が、小さく震えている。
「なぜだ! 我々は、この街の秩序を守ってきたのだぞ!」
「ですが……皆、あの二人との取引を優先しています……」
沈黙。
長い、長い沈黙。
誰も、言葉を発しない。ただ、現実を受け入れられないまま、座っている。
「くそっ……!」
クランマスターは、拳で机を叩いた。鈍い音が響く。
「ならば、ダンジョンの転送の間を封鎖しろ! あそこを通らなければ、ダンジョン探索はままならない!」
「了解しました!」
幹部たちが立ち上がる。
正義の名のもとに、彼らは最後の手段を選んだ。
だが、彼らは気づいていなかった。
自分たちが、もう「正義」ではなく「独善」に陥っていることに。
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