第32話 そして最前線へ
翌朝、商業地区に朝陽が差し込む頃――噂は、水のように流れ始めていた。
「なあ、聞いたか。黄金の環が……」
商人の一人が、声を潜める。
「二十階の素材を、大量に放出してるらしい」
「マジかよ……しかも、値段が」
もう一人が繰り返す。言葉は短く、余白は長い。
市場の空気が、ゆっくりと重くなってゆく。
普段なら年に一度見られるかどうかの光景――琥珀色の鱗が、銀色の牙が、麻袋から溢れている。
それは豊穣の象徴のはずだった。なのに、誰もが感じていた。
これは何かの終わりの予兆なんだと。
「この値段で、本当にいいのか?」
買い手の問いに、黄金の環の商人は小さく頷くだけだった。
その目は、どこか虚ろで。
取引は成立する。コインが手を渡る。
だが商人たちの間を、冷たい風が吹き抜けてゆく。
誰も口にしない問いが、石畳の上に薄氷のように広がっていった――黄金の環に、何が起きているのか、と。
*
その頃、俺たちは真っ白な世界にいた。
「溶岩地帯の次は極寒の世界とか……このダンジョン、性格悪すぎだろ」
俺は腕をさすりながら、ぼやいた。
さっきまでの溶岩の熱が嘘みたいに、今度は骨まで凍えそうな寒さだ。
身体って不思議なもんで、熱いのも冷たいのも、結局同じように痛いんだよな。
「サーマルシェル出しといて、良かったね」
シノンの声は、いつも通り穏やかだった。
こいつにとっては、灼熱も極寒も関係ないんだろう。まあ、そのマイペースさに助けられてるのも事実なんだけど。
「この階層、寒さもヤバいけど、吹雪がマジで洒落にならんな」
視界はゼロに等しい。
吹雪と積雪に阻まれ、ゴーグルに映し出されるマップ情報だけが頼りだ。白い世界の中で、青い光の線だけが道を示している。
時折、白い影が襲いかかってくる。
本来なら不意打ちを受けるところだが、シノンのマーキングのおかげで敵の位置は一目瞭然だった。
「お! 懐かしのフロストタイタンじゃん」
かつて五階のイレギュラーボスとして登場した巨人と再会した。
あの時、赤牙連は全滅した。俺は、何も感じなかった。
――今も、何も感じない。
「本来はこんな階層にいるんだね。赤牙連の人たちが全滅したのもしょうがないね」
「あれが、この環境でウロウロしてるって……誰も四十階に到達できないわけだ」
まあ、俺たちにとっては、通過点でしかない。
剣を一閃。巨人が倒れる。
その動作は、もう完全に無意識だった。まるで草を刈るみたいに、敵を倒してゆく。
何も考えず。何も感じず。ただ、前に進むだけ。
「健太! 雪崩だ!」
シノンの鋭い警告が響いた。
咄嗟に氷魔法でドームを形成。次の瞬間――
ゴゴゴゴゴォォォン!!
轟音が全てを飲み込み、白い津波が押し寄せる。視界が完全に闇に沈んだ。
世界が、消えた。
「ふぅ……なんとか助かったが」
暗闇の中、シノンがライトを灯す。
柔らかな光が氷の壁を内側から照らして、青白く透けた。その向こうには、分厚い雪の層。
「完全に埋まっちまったな」
「これなら敵も寄ってこれないでしょ。今日はここで休もうよ。僕かまくらって初めて」
振り返ると、シノンがもう野営の準備を始めていた。
その横顔は、なんだか少し嬉しそうで。
「……ほんとに、お前はマイペースだな」
俺は肩を竦めた。だけど、口元は少しだけ緩んでる。
相棒のこの余裕が、いつも俺を救ってくれる。
それを言葉にしたことは、一度もないけれど。
*
翌朝――
雪を掻き分けて這い出ると、空は、嘘みたいに晴れていた。
昨日の吹雪が嘘のように。まるで全部、夢だったみたいに。
雲一つない青空を、山頂が切り裂いている。
「あそこ、いかにもボスがいそうだね」
「ああ、行こう!」
俺は勇んで一歩踏み出して――ズボッと、腰まで雪に埋まった。
そのまま振り返って、期待のこもった目でシノンを見つめる。
「まったく、健太はしょうがないなあ」
そう言って、シノンが取り出したのは――スコップだった。
何の変哲もないスコップ。
「これは?」
「スコップだよ」
「ただの?」
「うん。雪かき用のスコップ」
「えええー。なんかもっとすごいの無いのかよ!」
「また、雪崩が起きても面倒でしょ。地道に掻き分けて」
それから俺たちは、黙々と雪を掻き分け続けた。
一歩、また一歩。スコップの音だけが、静寂を刻む。
これ、ラッセルって言うんだっけ? どこかで聞いた気がする。
「健太、もうちょっと右のルートに」
ゴーグルの視界に、ルートが緑の線で表示される。
「そのまま進むと雪庇だよ。踏み抜いたら滑落する」
「しかし、一番苦戦するところが雪山登山とか……それでいいのかダンジョン」
ボヤきながらも、手は止めない。
なんとか山頂まで登り切ると――そこには、凍りついた平らな地面が広がっていた。
そして、その中央に――竜がいた。
いや、正確には「封じられていた」。透明な氷の棺の中で、竜が眠っている。
「……デカいな」
「三十メートルはあるね。今までで最大だよ」
俺たちが近づくと、氷が割れ始めた。
パキ、パキ、パキ――
まるで春の訪れを告げる氷解みたいに。
でも、これは春じゃない。目覚めは、破壊の始まりだ。
バリィィィンッ!!
氷が砕け散る。
無数の破片が陽光を反射して、キラキラと舞い散った。まるで祝福みたいだった。
竜が、解放された。
全身を覆う透明な鱗。氷の結晶でできた翼。頭部には氷の角が生え、深い青色に輝く瞳。
「ギャオオオオオオオッ!!」
咆哮が、世界を凍らせる。
気温が急激に下がる。サーマルシェル越しでも、寒気が骨まで染み込んでくる。
「やべぇ……マジで、やばいぞこいつ……」
俺の呟きが、白い息になって消えた。
「健太、気をつけて!」
次の瞬間、無数の氷柱が生成された。それは雨のように降り注ぎ、槍のように突き刺さる。
光刃で迎撃するけど、追いつかない。数が多すぎる。
そして竜は――飛んだ。
巨体がふわりと浮かぶ。その優雅さと、その脅威。
空から吹雪のブレスが、地上の俺たちを襲ってくる。
「クソ、空の王者かよ! 降りてこいっての!」
狩りゲーの、看板モンスターを思い浮かべる。
俺の光刃は、虚しく空を切るばかりだ。飛び続ける竜に、地上からの攻撃は届かない。
「サポートするから、合わせて」
ゴーグルに赤い線が走る。
一本、また一本。軌道予測線が、次々と描かれてゆく。
俺は、それに合わせて剣を振る。
外れる。また外れる。
何度目か――ピタリと一致した。
剣と、予測線と、竜の軌道が。
「やった!」
一閃が、氷竜の片翼を切り落とした。
翼がゆっくりと回転しながら、地面へと落ちてゆく。
竜が墜落する。
地面が砕け、氷の破片が飛び散る。竜の巨体が、重力に引かれて沈んでゆく。
「今だ、健太!」
「おう!」
駆け寄って、剣を振りかぶる。
上段からの一撃が、氷竜の首を断ち切った。
竜の頭部がゆっくりと地面に転がる。青い瞳が、まだ光を宿している。だけどやがて、その光も消えた。
「……やったな」
「おつかれ、健太」
俺たちは竜をアイテムボックスに収めて、一階へと転送した。
転送陣が並ぶ広場。残る転送陣は、あと一つ。
つまり次こそが、最上階。
「行こう、シノン」
「うん」
俺たちは、迷いなく前へ進んだ。
帰還方法を見つけるために。最上階を目指して。ただ、それだけのために――
*
ギルドでは今日も、ルードヴィッヒが待っていた。
だけどその顔は、もう別人みたいだった。青白くて、額には冷や汗。唇は震えて、目は虚ろだ。
まるで、死人のようだった。
「お、お帰りなさい……」
「ああ。四十階、着きましたよ」
「よ、四十階……ですか……」
声が、震えていた。
俺がアイテムボックスを開く。雪山のモンスターがザラザラと現れる。フロストタイタン、雪の巨人、氷の獣――そして、氷竜。
ルードヴィッヒは、小さく呻いた。
「これを……全て……」
彼は震える手で、額を押さえた。まるで何かに耐えているみたいに。
「申し訳ございません……少々、お時間をいただけますでしょうか……」
「? ああ、別に構わないけど」
それから、彼は戻ってこなかった。
一時間、二時間――
俺とシノンは待合席で待った。
窓の外で、陽が傾いてゆく。影が長く伸びて、やがて街を覆う。
日が暮れ始めた頃、ルードヴィッヒがやつれた顔で現れた。
深々と、頭を下げて。
「大変申し上げにくいのですが……」
その声は、絞り出すようだった。
「契約を、解除させていただけないでしょうか……」
「え?」
俺は、思わず聞き返した。
「我々の資金力では……もはや、あなた方の供給量に対応できません……」
ルードヴィッヒは、まだ頭を下げたままだった。その肩が、小刻みに震えている。
「本当に、申し訳ございません……違約金は、必ずお支払いいたしますので……」
「ああ、別にいいですよ」
俺の返答は、あっさりしていた。
「え……?」
「違約金とかいらないんで。別に困ってないし」
「そ、そうなのですか……?」
ルードヴィッヒは、信じられないという顔をしている。
「うん。僕たち、お金あんまり使わないから」
シノンも、無邪気に答えた。まるで天気の話をするみたいに。
「宿代と食費くらいだしね」
「あ、ありがとうございます……ありがとうございます……」
ルードヴィッヒは、何度も何度も頭を下げた。
だけどその顔に浮かんでいたのは、安堵じゃなかった。絶望だった。
契約解除で、当面の出費は免れた。
でも、もう遅い。
市場に流した素材。暴落した相場。遅延した支払い。
全てが、もう手遅れだった。
ルードヴィッヒは、それを知っていた。
そして――俺たちは、知らなかった。
*
「じゃあ、これ全部ギルドで買い取ってもらえますか?」
俺は、受付嬢に尋ねた。
「ぜ、全部……ですか……?」
受付嬢の顔が青ざめる。雪山のモンスター。氷竜。その量は、これまでで最大だ。
「少々お待ちください……」
彼女は、奥へと駆け込んだ。足音が遠ざかって、やがて消える。
しばらくして、ギルドマスター自らが現れた。
初老の男性。鋭い目つきだけど、敵意は感じない。むしろ、何かを諦めたような、達観した表情だ。
「……君たちか」
「全て買い取ろう。ただし、これだけの量だと、あまり高くは買えないが……」
「別に構いません」
俺の即答に、ギルドマスターは少し驚いた様子を見せた。
「そ、そうか……では、査定を始めさせてもらう」
彼は少し間を置いてから、続けた。
「それから――お前ら、Aランクだ。あとでギルドカードを更新しておけ」
査定は、丸一日かかった。
提示された金額は、黄金の環の半分ほど。
だけど俺たちは、全く気にしなかった。
もうすぐ帰れる。
そんな思いが、この世界への執着を無くしていた。
「ありがとうございます」
「……ああ」
ギルドマスターは、複雑な表情で俺たちを見つめていた。
その視線の意味を、俺は理解しなかった。
*
その夜。
黄金の環の本部では、沈黙が支配していた。
誰も、言葉を発しない。誰も、顔を上げない。
金色のシャンデリアが、虚しく輝いていた。
「市場が……崩壊しています……」
経理担当の報告。声は震えていた。
ギルドが三十階以上の素材を大量に放出した。商業ギルドがそれを市場に流した。結果、黄金の環の在庫は全て紙屑になった。
「銀行は……融資を拒否しました……」
「取引先からも……契約解除の通告が……」
次々と告げられる悪報。誰も顔を上げない。
クランマスターは、ただ黙って座っていた。
窓の外では、夜の闇が街を覆っていた。
「……終わったな」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
ただ事実を、述べただけだった。
黄金の環は、その日――崩壊した。
かつて三大クランの一つとして君臨した組織は、たった二人の冒険者によって、破滅へと追い込まれた。
彼らに、その自覚はなかった。
*
宿に戻って、俺たちはベッドに倒れ込んだ。
「疲れたな……」
「うん。でも、最前線に到達できたね」
「ああ。次でおそらく最上階だ」
「うん」
しばらく沈黙。
天井を見上げる。木目が、ゆっくりと視界に馴染んでゆく。
「ねぇ、健太」
「ん?」
「明日も頑張ろう」
「……ああ」
やがて俺たちは、眠りについた。
外では、街の経済が大きく揺れ動いていた。窓の向こうで、誰かの人生が崩れ落ちていた。
だけど俺たちは知らない。
俺たちはただ眠る。
明日へ向かって――
窓の外では、星が輝いていた。
異世界の星座が、見知らぬ形で、静かに瞬いていた。
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