第30話 黄金の環の申し出
冒険者ギルドの重厚な扉を開けると、賑わっているはずのロビーが、波が引くように静まり返った。
がやがやとした喧騒が、一瞬で消える。
視線が、一斉に俺たちに集まった。
剣を磨いていた冒険者の手が止まる。酒を飲んでいた男がグラスを持ったまま固まる。依頼書を眺めていた女性冒険者が、こちらを凝視している。
空気が、凍りついたようだった。
「おい、あいつ……」
「ドルガを倒した新人だ……」
「今日、二十階まで行ったって本当か?」
ひそひそと囁く声が、ロビー中に広がっていく。
だが、俺たちが受付に向かうと、冒険者たちは左右にさっと分かれ、自然と道を開けた。
誰も、俺たちの前に立とうとしない。
「あ、あの……おかえりなさい」
受付嬢が、引きつった笑顔で迎える。
既に顔を覚えられているようだ。若い女性で、今日は青いリボンで髪を結んでいる。昨日よりも、明らかに緊張している様子だった。
「二十階、到達しました」
「もう、二十階……ですか……」
受付嬢が小さく息を呑む。
手元の羽ペンが、かすかに震えていた。
「素材も売却なさいますか?」
「ええ」
「では、素材の査定をするので、裏の広場に回ってください」
案内された裏の広場は、普段は荷馬車の積み下ろしに使われる場所だ。
石畳の地面は広く、モンスターの死体を並べるには十分なスペースがある。周囲は高い壁に囲まれ、一般の目に触れないようになっていた。
俺は、深呼吸をしてから、アイテムボックスを開いた。
スケルトンから始まって、巨大な蛇、カメレオン、類人猿――
そして――
ドスン!
ストーンゴーレムの巨体が地面に落ちる。石畳が砕け、亀裂が走る。
最後に、ヒュドラの四つに切断された巨体が、山のように積み上がった。
十一階から二十階までの、ありとあらゆるモンスターが、広場を埋め尽くしていく。
血の匂い。腐敗臭。魔力の残滓。
それらが混ざり合い、重苦しい空気を作り出す。
「ひっ……!」
受付嬢が、小さく悲鳴を上げた。
周囲で見ていた冒険者たちも、絶句している。
誰かが持っていたジョッキが、地面に落ちて酒がこぼれた。木のジョッキが転がる音が、静寂の中に響く。
「こ、これは……」
「ちょ、ちょっと待ってください! 査定に時間がかかります!」
受付嬢が、慌てて奥へと駆け込む。青いリボンが揺れる。
やがて、ギルドの職員が総出でやってきた。
十人以上はいるだろうか。査定用の道具を抱え、メモ帳を片手に、一体一体を確認し始める。
中には、明らかに怯えた表情を浮かべている者もいた。
「では、査定を始めます……」
職員たちが、真剣な表情で作業を進めていく。
魔石の質を魔力測定器で測り、素材の状態を目視でチェックし、希少性を台帳と照らし合わせる――全てを入念に、しかし迅速に進めている。
その間、俺とシノンは待合席で待っていた。
木製のベンチに座り、シノンは水筒の水を飲んでいる。俺は腕を組んで、査定の様子を眺めていた。
周囲の冒険者たちが、ちらちらとこちらを見ている。
だが、誰も話しかけてこない。
畏怖と、少しの恐怖が混じった視線だ。
まるで、得体の知れない化け物でも見るような目だった。
「相変わらず、変な目で見られるな」
「有名人だからね」
シノンは、気にした様子もなく答える。
彼にとって、これも「興味深いデータ」なのだろう。人間の反応を観察する、絶好の機会。
やがて、一時間ほど経って、査定が終わった。
「お、お待たせしました……」
受付嬢が、査定書を差し出す。
羊皮紙に書かれた数字が、夕日を受けて金色に輝いて見えた。
書かれている金額を見て、俺は思わず目を見開いた。
「……これ、桁間違ってないか?」
「い、いえ……正確です……」
正直、かなりの金額になった。
特に、十五階以上の素材は、一体あたりの単価が跳ね上がっている。希少性の高い素材は、貴族が買い求めるほどの価値があるという。
この金額があれば、しばらくは金銭的な心配をする必要はないだろう。
いや、一生分かもしれない。
「二十階到達により、ランクがCに昇格します。おめでとうございます」
受付嬢が、新しいギルドカードを手渡してくれた。
カードの表面に刻まれた「C」の文字が、魔力を帯びて淡く輝いている。前のカードよりも少し重く、高級感がある。
「ありがとうございます」
俺がカードを受け取ろうと手を伸ばした、その時。
「少々、お待ちいただけますか」
落ち着いた、しかしどこか威圧感のある声が、背後から響いた。
振り返ると、そこには見覚えのある男が立っていた。
フードで顔の半分を隠しているが、胸には金色の輪の紋章が刺繍されている。黒いローブは高級そうな生地で作られており、立ち居振る舞いからは教養が感じられた。
あの時、酒場で俺たちをじっと見ていた男だ。
「あなた方に、お話があります」
男は、丁寧に、しかし形式的な動作で頭を下げた。
「私は、黄金の環の商務担当、ルードヴィッヒと申します」
*
ギルドの会議室に通された俺たちは、ルードヴィッヒという男と、磨かれた木製のテーブルを挟んで向かい合って座っていた。
部屋の窓からは、夕日が差し込んでいる。オレンジ色の光が、室内を暖かく照らしていた。
壁には古い地図が飾られ、本棚には分厚い台帳が並んでいる。商人の部屋らしい、整然とした空間だ。
彼は、ゆっくりとフードを外した。
四十代くらいの、落ち着いた雰囲気の男だ。
短く整えられた髪、鋭い目つきだが、敵意は感じられない。むしろ、ビジネスパートナーを見定めるような、冷静な視線だった。
「単刀直入に申し上げます」
ルードヴィッヒは、テーブルの上に羊皮紙を広げた。
契約書のようだ。細かい文字がびっしりと書かれている。法律用語らしき難解な言葉が並んでいた。
「あなた方が持ち帰る素材を、我々黄金の環が優先的に買い取らせていただきたい」
「優先的に?」
「はい。指名依頼という形になります。ギルドを通した、正式な取引です」
ルードヴィッヒは、丁寧に説明を始めた。
指を組み、真っ直ぐに俺たちを見つめる。
「我々黄金の環は、独自の流通ルートを持っています。あなた方が持ち帰る素材を、我々が買い取り、それを高値で売りさばく。その利益の一部を、あなた方に還元する、という仕組みです」
「つまり、ギルドより高く買ってくれるってこと?」
「その通りです。市場価格の二割増しでお買い取りします」
「へぇ」
俺は、シノンと顔を見合わせた。
シノンは特に警戒した様子もなく、興味深そうに契約書を眺めている。細かい文字を、目で追っている。
「どう思う?」
「面白そうだね。やってみよう」
シノンは、あっさりと答えた。
彼にとって、金銭は重要ではない。むしろ、組織との取引という「システム」に興味があるのだろう。
「じゃあ、お願いします」
「ありがとうございます」
ルードヴィッヒは、満足そうに頷いた。
口元に、わずかな笑みが浮かぶ。勝利を確信した商人の笑みだ。
契約書にサインをし、ギルドの承認印をもらう。
手続きは、驚くほどスムーズだった。まるで、全てが事前に準備されていたかのように。
「では、今後ともよろしくお願いいたします」
ルードヴィッヒは、深々と頭を下げ、黒いローブを翻して会議室を出て行った。
扉が閉まる音が、静かに響く。
部屋に、俺とシノンだけが残される。
窓の外では、夕日が沈み始めていた。空が、オレンジから紫へと変わっていく。
「……なんか、あっさり決まったな」
「高く買ってくれるなら、別にいいんじゃない?」
「まぁ、そうだけど」
俺は、契約書を眺めた。
細かい文字がびっしりと書かれているが、正直、よく読んでいない。法律用語らしき難しい言葉が並んでいるが、要するに「素材を高く買う」という内容だろう。
――本当に、これでよかったのだろうか。
そんな漠然とした不安が、胸の奥に渦巻く。だが、すぐに振り払った。
考えても仕方ない。前に進むしかないのだから。
「で、次はどうする?」
シノンに尋ねる。
「もちろん、もっと先へ行くよ。三十階目指そう」
「おう!」
俺たちは、再びダンジョンへと向かう決意を固めた。
窓の外の空は、完全に暗くなり始めていた。
*
その頃、黄金の環の本部では――
豪華な会議室に、幹部たちが集まっていた。
大きな円卓を囲み、それぞれが革張りの椅子に座っている。部屋の中央には、巨大なシャンデリアが吊るされ、金色の光を放っていた。
壁には高価な絵画が飾られ、床には深紅の絨毯が敷かれている。
この部屋にいるだけで、金の匂いがする。
「契約、成立しました」
ルードヴィッヒの報告に、幹部たちが一斉に湧き立った。
「よくやった、ルードヴィッヒ!」
「これで、あの二人が持ち帰る素材を独占できる!」
「二十階素材を、我々が独占……! これは大きいぞ!」
ワイングラスを掲げる者、テーブルを叩いて喜ぶ者。
会議室は、祝福ムードに包まれていた。高級なワインが注がれ、乾杯の声が響く。
だが、隅の席に座る経理担当の男だけは、浮かない顔をしている。
眉間に皺を寄せ、手元の計算書を何度も見返していた。青い顔をして、唇を噛んでいる。
「……しかし、あの二人のペースは異常です」
その言葉に、祝杯を上げていた幹部たちの動きが止まった。
ワイングラスを持ったまま、彼を見る。
「どういうことだ?」
「五階到達から、わずか一日で二十階です。この調子だと……」
経理担当は、震える指で計算書を指し示した。
数字が並び、赤い線が引かれている。何度も計算し直した跡が、紙面に残っていた。
「我々の想定を、遥かに超える供給量になる可能性があります」
しばしの沈黙。
シャンデリアの揺らめく光だけが、部屋を照らしていた。
だが、すぐに――
「ふん、心配しすぎだ」
幹部の一人が、鼻で笑った。
太った体をゆすり、ワインを一口飲む。高級なワインが、喉を滑り落ちる。
「所詮、Cランクの冒険者だぞ。どれだけ早くても、三十階までが限界だろう」
「それに、我々には資金力がある。多少の誤算は吸収できる」
「そうだな。問題ない」
幹部たちは、楽観的だった。
再び、乾杯の声が響く。ワインが注がれ、笑い声が広がる。
経理担当は、それ以上何も言わなかった。
ただ、胸の奥に、小さな、しかし消えない不安が渦巻いていた。
この契約は、果たして本当に利益をもたらすのだろうか――
彼は、手元の計算書を再び見つめた。
数字は、嘘をつかない。
そして、その数字が示すのは――破滅だった。
だが、誰もそれに気づいていない。
金色に輝くシャンデリアの下で、幹部たちは祝杯を上げ続けていた。
その光景は、どこか滑稽で、そして哀れだった。
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