第27話 赤牙連の崩壊

 ボス部屋を抜けると、薄暗い通路の先に二つの道が見えた。

 一つは、青白く輝く転送魔法陣。もう一つは、さらに奥へと続く螺旋階段。

 階段の先には、六階へと続く未知の領域が広がっているのだろう。より深い闇、より強い敵、そして――帰還への手がかり。


「これで、外に出られるんだな」


「うん。便利だね」


 俺たちは、青白く輝く転送魔法陣の上に立った。

 足元から光が這い上がる。視界が真っ白に染まり、身体が浮遊する感覚。胃が持ち上がるような、奇妙な浮遊感。


 そして――

 一瞬で、一階の入り口に転送された。

 外の空気が、汗ばんだ肌に触れる。ひんやりとした夕暮れの風が心地よい。

 ダンジョンの中の冷気とは違う、生きた空気。人の息づかいが聞こえる街の空気。


「……生きて帰れたな」


 胸の奥から湧き上がる安堵感に、思わず声が漏れた。

 フロストタイタンの巨体。赤牙連の全滅。血の海。そして、何も感じなかった自分。


 ――生き延びた。

 それだけで、今は十分だった。


「うん。お疲れ様」


 シノンは、いつもの飄々とした様子で答える。

 あれだけの死線を潜り抜けたというのに、まるで散歩から帰ってきたかのような落ち着きぶりだ。彼にとって、あれは単なる「観察記録」でしかないのだろう。


 俺は、アイテムボックスから取り出した魔石を握りしめた。

 五階ボスの魔石。表面には複雑な紋様が浮かび、内部で冷たい青い光が脈動している。人の拳ほどの大きさの、美しく、そして禍々しい結晶。

 これが、俺たちの入場資格の証明だ。

 これさえあれば、もう誰にも頼らずにダンジョンに入れる。


「さて、ギルドに行こうか」


「ああ」


 *


 冒険者ギルドに着くと、受付嬢が笑顔で迎えてくれた。

 夕刻のギルドは、冒険から戻った者たちで賑わっている。あちこちで戦利品の査定や報告が行われ、酒を酌み交わす声、大声で笑う声、依頼を吟味する真剣な声――様々な音が混ざり合っている。


「おかえりなさい。五階ボスの討伐報告ですね」


「はい。これが魔石です」


 俺が魔石を差し出すと――

 受付嬢の笑顔が、凍りついた。

 目を見開き、魔石を凝視する。息を呑む音が、微かに聞こえた。


「これは……確かに五階ボスの魔石ですね。しかし――」


 彼女は、魔石を両手で持ち上げ、光にかざした。

 青い光が、彼女の顔を照らす。


「イレギュラー個体のようですが……」


 その声には、明らかな動揺が含まれていた。


「ええ、フロストタイタンでした」


「イレギュラーを……!?」


 受付嬢は、思わず声を上げた。

 その声に、周囲の冒険者たちの視線が一斉に俺たちへと向けられる。ざわめきが、波紋のように広がっていく。


「あの、赤牙連の皆さんは?」


 受付嬢が、恐る恐る尋ねる。


「……全滅しました」


 俺は、淡々と答えた。感情を込めない、事実だけを述べる声。


「イレギュラーボスの攻撃で、全員やられました。俺たちは、後方にいたので、何とか生き延びて……ボスを倒しました」


「そんな……」


 受付嬢が、顔を青ざめさせる。

 手が小刻みに震えていた。カウンターに置かれた魔石が、かすかに揺れる。


「赤牙連のパーティが、全滅……」


 彼女は、深呼吸をして動揺を抑えると、慌てて記録用の羊皮紙を取り出した。羽ペンを走らせながら、何度も俺たちと魔石を見比べている。

 周囲の冒険者たちの視線が、痛いほど突き刺さる。

 好奇心。疑念。そして――畏怖。


「わかりました。報告、受理します」


 受付嬢は、震える手でギルドカードを受け取り、新たな印を刻み始めた。


「お二人は、五階ボス討伐者として登録されます。これで、自由にダンジョンに入場できるようになります」


「ありがとうございます」


 俺は、更新されたギルドカードを受け取った。

 表面に刻まれたダンジョン入場資格を表す印が、かすかに輝いている。まるで、新たな道が開かれたかのように。


 だが、その時。

 ギルドの入り口から、怒号が響いた。


「おい、待てよ!」


 重い扉が乱暴に開け放たれる音。

 賑やかだったギルド内が、一瞬で静まり返った。まるで、冷水を浴びせられたかのように。

 振り返ると、そこには筋骨隆々とした、見覚えのない男が立っていた。

 二メートル近い巨躯。傷だらけの腕。岩のように隆起した筋肉。そして、胸には血塗られた牙の紋章。

 赤牙連だ。


「お前らが、グレンたちのパーティと一緒にダンジョンに行った奴らか?」


 男は、重い足音を立てながら俺たちに詰め寄ってくる。

 一歩、また一歩。石畳を踏みしめる音が、ギルド内に響く。


 周囲の冒険者たちが、蜘蛛の子を散らすように道を開けた。誰も、この男の前に立とうとしない。


「……グレン? 赤牙連の連中とは潜ったけど……」


「グレンたちが全滅したって、本当か?」


 低く唸るような声。明らかな威圧感を孕んでいる。

 男の目には、怒りと、そして悲しみが混ざっていた。


「俺達と潜った連中のことなら本当だ。イレギュラーボスに――」


「ふざけんな!」


 男が、怒鳴った。

 その声量に、窓ガラスが小さく震える。カウンターの上の書類が、風に煽られて舞い上がる。


「グレンは、赤牙連でも期待の若手だった! そんな奴が全滅して、お前らみたいなFランクの新人が生き残るわけがねえだろ!」


 周囲の冒険者たちが、ざわつき始める。

 ひそひそと囁き合う声が、波紋のように広がっていく。


「確かに、おかしいよな」

「Fランクが、イレギュラーを倒せるのか?」

「何か、裏があるんじゃないか?」

「仲間を裏切ったんじゃねえの?」


 疑念の視線が、俺たちに突き刺さる。

 男は、大股でカウンターに近づき、俺の胸倉を掴んだ。

 鉄のような指が服に食い込む。引き寄せられ、男の顔が目の前に迫る。


「お前ら、消耗したグレン達を殺して魔石を奪ったな!?」


「言いがかりだ」


 俺は、冷たい声で言った。

 男の目を、真っ直ぐに見据える。怯まない。逸らさない。


「俺たちは、戦って、生き延びただけだ」


「嘘つけ! お前ら、絶対に何かやったはずだ!」


 男の目には、明らかな敵意が浮かんでいた。憎悪すら感じられる視線だ。


 だが、その奥に――恐怖も見えた。

 部下を失った恐怖。自分の組織が崩壊するかもしれない恐怖。


「ドルガ様、落ち着いてください」


 受付嬢が、慌てて仲裁に入る。

 震える声で、しかし毅然と告げた。


「お二人は、正式に五階ボスの魔石を持ち帰っています。これは、事実です。ギルドとして、彼らの実力を認めます」


「だからって、信用できるか!」


 ドルガと呼ばれた男は、舌打ちをして俺から手を離した。

 俺は、乱れた服を直す。胸元に、男の指の跡が残っていた。


「いいか、新人」


 ドルガは、鋭い目で俺を睨む。

 獲物を見定める肉食獣のような眼差し。だが、その奥には焦りも滲んでいる。


「お前らの実力が本物かどうか、証明してもらうぜ」


「証明?」


「ああ。俺と、決闘だ」


 ギルド内に、再びざわめきが広がる。


「マジかよ」

「ドルガ自らが?」

「あの新人、終わったな」


 ドルガは、その反応を満足そうに聞きながら続けた。


「俺は、赤牙連のクランマスターだ。お前が本当にイレギュラーを倒せる実力があるか、見定めてやる」


「……断ったら?」


「この街で生きていけなくなるだけだ」


 ドルガは、ニヤリと笑った。

 その笑みには、絶対的な自信が滲んでいる。だが、どこか必死さも感じられた。


「どうだ? 受けるか?」


 俺は、シノンと顔を見合わせた。

 シノンは、小さく頷く。その表情には、何の迷いもなかった。むしろ、興味深そうに目を輝かせている。


「……いいだろう。受けて立つ」


「へっ、いい度胸だ」


 ドルガは、満足そうに頷いた。


「明日の正午、ギルドの訓練場でだ。逃げんなよ」


 そう言い残して、ドルガは重い足音を響かせながらギルドを出て行った。

 その背中を見送る冒険者たちの視線が、今度は同情と好奇心の混じったものに変わっている。


「あの新人、明日には死んでるかもな」

「ドルガ相手じゃ、勝ち目ないだろ」

「でも、イレギュラーを倒したんだぜ?」

「まぐれかもしれないだろ」


 ひそひそ話が、俺たちの周りで渦巻いている。

 だが、俺はもう気にしなかった。


 *


 宿に戻ると、俺は大きく溜息をついた。

 部屋の簡素なベッドに腰を下ろし、頭を抱える。


「……面倒なことになったな」


「まあ、予想はしてたけどね」


 シノンは、相変わらず平然としている。

 窓辺に立ち、夕暮れの街並みを眺めていた。オレンジ色の光が、彼の横顔を照らしている。


「お前、何でもないみたいだな」


「だって、健太が勝つのは分かってるから」


「……そう簡単に言うなよ」


 俺は、ベッドに倒れ込んだ。

 天井の木目を、ぼんやりと眺める。

 ――あのドルガって奴、相当強そうだった。

 あの威圧感、あの自信、あの筋肉。間違いなく、並の冒険者ではない。クランマスターという立場にいるのだから、実力も本物だろう。

 だが、負けるわけにはいかない。

 ここで負けたら、この街にいられなくなる。ダンジョンにも入れなくなる。帰還方法を探すことも、できなくなる。


「……絶対に、勝つ」


 俺は、拳を握りしめた。

 爪が掌に食い込む。痛みが、決意を固めてくれる。


 *


 翌日、正午。

 ギルドの訓練場には、すでに大勢の冒険者が集まっていた。

 闘技場のような円形の広場を、幾重にも人垣が取り囲んでいる。まるで見世物のようだ。祭りのような喧騒。期待に満ちた表情。


「おい、赤牙連のクランマスターが、新人と決闘するらしいぞ」

「マジかよ。新人、殺されるんじゃねえか?」

「いや、でも、あの新人、イレギュラーボスを倒したらしいぜ」

「本当かよ。信じられねえ」

「賭けようぜ。俺はドルガに全財産賭ける」

「俺も俺も」


 ざわめく観客たち。

 野次と期待の入り混じった喧騒が、訓練場を包んでいる。

 俺は、訓練場の中央に立った。


 陽光が眩しい。石畳が熱を持っている。汗が、背中を伝う。

 向かい側には、ドルガが巨大な斧を構えていた。

 刃には無数の刻み傷。血の跡のような錆。多くの命を奪ってきた証だろう。


「来たか、新人」


「……呼び出したのは、そっちだろ」


「へっ、減らず口を。まあいい、すぐに後悔させてやる」


 ドルガは、斧を地面に叩きつけた。

 轟音。

 石畳が蜘蛛の巣状にひび割れ、破片が宙に舞う。砂埃が立ち上る。


 観客たちが、歓声を上げた。

 だが、俺は動じなかった。

 冷静に、相手の動きを観察する。筋肉の動き、呼吸のリズム、視線の先。

 学園都市でユリウスと戦った経験が、活きている。


「準備はいいか?」


 ギルドの職員が、両者に尋ねる。


「ああ」


「いつでもいいぜ」


 職員は、大きく腕を振り上げた。


「では――始め!」


 開始の合図と同時に、ドルガが一気に距離を詰めてきた。

 速い。


 巨体に似合わない、素早い動きだ。地面を蹴る度に、石畳に足跡のような窪みが残る。砂埃が舞い上がる。

 斧が、俺の頭上から振り下ろされる――

 風を切る音が、鼓膜を震わせた。

 俺は、それを紙一重で避けた。

 斧が地面に激突し、轟音と共に石畳が砕け散る。破片が顔をかすめる。


「ほう、やるな」


 ドルガが、ニヤリと笑う。

 戦いを楽しんでいるかのような表情だ。だが、その目は本気だ。


「だが、これで終わりだ!」


 連続攻撃。

 斧が、次々と俺を襲う。縦横無尽に振るわれる刃は、もはや巨大な鉄塊には見えない。まるで生き物のように、俺の急所を狙ってくる。

 首。胴。足。腕。頭。


 だが――

 俺は、全ての攻撃を避け続けた。

 最小限の動きで。無駄なく。まるで踊るように。

 ユリウスとの決闘で学んだ技術。シノンの助言で磨いた感覚。それらが、今、俺の体に染み付いている。


「な……!?」


 ドルガが、驚愕の表情を浮かべる。

 息が上がり始めている。額に汗が浮かんでいる。


「俺の攻撃を、全部避けただと……!?」


 観客たちも、息を呑んでいた。

 歓声が止み、誰もが固唾を呑んで戦いを見守っている。ざわめきすら消えた静寂。


「……悪いが」


 俺は、手を前に突き出した。

 魔力が、掌に収束していく。熱が生まれる。炎の息吹が、空気を震わせる。


「こっちの番だ」


 無詠唱。

 炎の魔法が、ドルガを包み込む。

 ゴオオオオッ!


「ぐあああああ!」


 火だるまになったドルガが、地面を転げ回る。

 必死に炎を消そうともがく姿は、先ほどまでの威圧感が嘘のようだ。

 やがて、炎が消える。

 ドルガは、黒焦げになって倒れていた。呼吸はしている。死んではいない。だが、もう戦える状態ではない。

 勝負は、一瞬で決した。


「……勝負あり」


 職員が、俺の勝利を宣言した。

 静寂。

 観客たちは、水を打ったように静まり返っていた。信じられない、という表情で、倒れたドルガと、無傷の俺を交互に見ている。

 やがて、誰か一人が拍手を始めると、それが伝播し、割れんばかりの歓声が訓練場に響き渡った。


「すげえ……あのドルガを、一撃だと……」

「あいつ、本物だ! イレギュラーを倒したって噂は本当だったんだ!」

「化け物か!?」

「新人じゃねえよ、あれ!」


 俺は、火傷を負って倒れたまま、悔しそうに歯を食いしばるドルガを一瞥する。


「これで、文句はないだろ」


 冷たく言い放ち、俺は踵を返した。

 もう、こいつらに関わっている時間はない。俺たちの目的は、ダンジョンの最深部だ。帰還方法を探すこと。それ以外は、すべて余計なことだ。

 観客たちが、一斉に道を開ける。

 その視線には、畏怖と、少しの恐怖が混じっていた。

 英雄を見る目ではなく、異端者を見る目だ。人間を超えた何かを見る目。


「面倒なことに巻き込まれたけど、これでやっとダンジョンに集中できるな」


「うん。面白かったけど、少し時間の無駄だったね」


 シノンとそんな会話をしながら訓練場を後にする俺たちは、気づいていなかった。

 自分たちが通り過ぎた後、その場の空気――いや、この街のパワーバランスが、決定的に変わってしまったことに。


 *


 健太たちが去った後。

 訓練場に残されたドルガの元に、彼の仲間であるはずの赤牙連のメンバーが駆け寄ることはなかった。

 彼らは、無様に倒れるクランマスターと、熱狂する観衆を交互に見比べ、顔を見合わせる。

 そして、一人、また一人と、誰に言うでもなくその場から静かに立ち去っていく。


 足音すら立てずに。まるで、沈みゆく船から逃げ出す鼠のように。

 暴力という絶対的な力で繋がっていただけの群れは、より大きな暴力の前に、あまりにもあっけなく霧散した。

 誰も、倒れたドルガを助けようとしない。

 かつて恐れられた赤い牙は、もう誰からも恐れられることはなかった。


 *


 その日の夕方。ギルドの酒場。

 あるテーブルでは、数人の冒険者が真剣な顔で話し込んでいた。

 周囲の喧騒とは対照的に、彼らの声は低く、緊張感を帯びている。


「聞いたか? ドルガがFランクの小僧に秒殺されたらしい」

「ああ、もう街中の噂だ。これで赤牙連も終わりだな」


 一人の男が、腕につけていた牙の紋章の腕輪を外し、テーブルに置いた。

 金属が木材に当たる音が、やけに大きく響く。


「俺は抜ける。あいつらに上納金払う意味もなくなった」

「だよな。俺たちのパーティもだ。これからはフリーでやるさ」

「ドルガのいない赤牙連なんて、ただのチンピラの集まりだ」


 赤牙連という巨大な権威の崩壊は、音を立てて、しかし確実に始まっていた。

 そして、その様子を、酒場の隅のテーブルで、一人の男が静かに見ていた。

 フードで顔の半分を隠しているが、胸には金色の輪の紋章が覗いている。黄金の環だ。

 彼は口元に笑みを浮かべると、小さな声で呟いた。


「……嵐が来たな。だが、焦る必要はない。熟した果実は、放っておいても落ちるものだ」

 その言葉は、誰に聞かせるでもなく、夜の闇に溶けていった。


 *


 その頃、俺とシノンは宿屋の一室で、ダンジョンの地図を広げていた。

 羊皮紙に描かれた複雑な通路や部屋の配置を、ランプの灯りで確認する。

 街で起こっている大きな変化など、露知らず。


「これで明日から、誰にも邪魔されずにダンジョンに潜れるな」


「うん。まずは行けるところまで一気に行ってみようか。何か面白い発見があるかもしれない」


「おう! やっと、俺たちの冒険が始まるって感じだな!」


 俺は、これから始まる本当の冒険に、胸を躍らせていた。

 地図の先に広がる未知の領域。そこには、きっと帰還への手がかりがあるはずだ。

 ドルガとの決闘も、赤牙連の崩壊も、もう過去のことだ。

 俺たちは、前に進むしかない。

 窓の外では、満天の星空が広がっている。

 異世界の星座は、地球のものとは全く違っていた。見知らぬ星々が、見知らぬ形で輝いている。

 ――いつか、あの星の下で、元の世界に帰れるのだろうか。

 そんなことを、ふと思った。

 だが、すぐに頭を振って、地図に視線を戻す。

 考えても仕方ない。今は、前に進むだけだ。



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