第26話 荷物持ちの屈辱とイレギュラーボス
翌朝。
太陽が地平線から顔を出す頃、俺とシノンは約束通りダンジョンの入り口に向かった。
黒曜石の塔は、朝日を浴びてもなお、その不気味な威圧感を失わない。むしろ、光を吸い込むかのように、より一層暗く見えた。まるで、これから入る者たちを飲み込もうと、口を開けて待っているかのように。
その入り口には、すでに赤牙連の連中が集まっていた。
昨日の男――リーダー格らしき筋骨隆々の男と、その仲間たち。剣士が二人、斧使いが一人、弓使いが一人、そして後衛の魔術師が一人。全員で六人。
俺とシノンを含めれば、八人パーティだ。
「よう、来たか」
リーダーの男が、偉そうに腕を組んだ。
「遅刻しなかっただけマシだな。新人のくせに、時間だけは守りやがる」
嫌味たっぷりの言い方だった。だが、俺は反応しなかった。どうせ、今日一日の我慢だ。
「それじゃあ、最初に言っておくぜ」
男は、値踏みするような目で俺たちを見た。
「お前ら、戦闘には参加すんな」
「……は?」
俺は、思わず聞き返した。
「お前らはFランクの新人だ。足手まといになるだけだ」
「だったら、何のために俺たちを――」
「荷物持ちだよ」
男は、ニヤリと笑った。獲物を前にした獣の笑みだ。
「お前の便利なアイテムボックスで、俺たちの荷物を全部運んでもらう。それだけだ。戦利品も、消耗品も、全部お前のボックスに入れる。お前らは、大人しく後ろで見てりゃいいんだよ」
「……荷物持ち、だと?」
俺の声が、低くなる。拳が、自然と握りしめられた。
「そうだ。それ以外に、お前らに何ができる?」
男は、まるでゴミを見るような目で俺を見た。
「文句があるなら、別のパーティ探せば?」
男は、鼻で笑った。
「でも、お前らを受け入れるパーティなんて、他にいないぜ。この街じゃ、赤牙連に目をつけられた新人に手を出すバカはいねえからな」
――最悪だ。
俺は、怒りで拳を握りしめた。だが、男の言う通りだった。他に選択肢はない。ダンジョンに入るには、彼らの力を借りるしかない。
「……健太」
シノンが、俺の肩に手を置いた。
「いいよ、受けよう」
「シノン!?」
「僕は、ダンジョンの中を観察したいんだ。戦闘に参加しなくても、中に入れるなら、それでいい」
シノンは、いつもの飄々とした笑みを浮かべている。
「それに、面白そうじゃないか。彼らがどんな戦い方をするのか、どこで失敗するのか――観察できる」
「……っ」
俺は、歯噛みした。
シノンがそう言うなら、従うしかない。彼がいなければ、俺は帰還方法すら探せないのだから。
「……分かった。荷物持ち、やりますよ」
「へへ、話が早いな」
男は、満足そうに頷いた。まるで、安く仕入れた家畜を手に入れたかのような顔だ。
「じゃあ、さっそく行くぜ。ついて来い。遅れんなよ」
*
赤牙連のリーダーが、門番にギルドカードを見せる。門番は一瞥して頷き、俺たちも後に続いた。
ダンジョンの入り口をくぐった瞬間――世界が変わった。
外の喧騒が、まるで嘘のように消える。代わりに、静寂と冷気が肌を刺す。
石造りの廊下が、奥へ奥へと延々と続いている。天井は高く、壁には薄暗く光る魔石が埋め込まれ、不気味な青白い光を放っていた。その光は、まるで死者の目のように、じっとこちらを見つめているようだった。
空気が、重い。
息を吸うたび、肺に冷たい何かが入り込んでくる。
「気をつけろ。魔物が出るぞ」
リーダーの言葉と同時に、廊下の奥から影が蠢いた。
異形の影。
醜悪な顔をした、子供くらいの大きさの人型の魔物。緑色の肌、鋭い爪、黄色く濁った目。
「ゴブリンだ。数は五体」
「任せろ!」
赤牙連の戦士たちが、一斉に駆け出した。
剣が閃き、斧が唸り、矢が放たれる。ゴブリンたちは、なすすべもなく次々と切り裂かれていく。後方から魔術師が放った炎の矢が、残ったゴブリンの頭を貫いた。
戦闘時間、わずか三十秒。
「やるじゃねえか……」
俺は、その連携の良さに少し感心した。確かに、彼らは実力者だ。性格は最悪だが、戦闘能力は本物だった。
だが、戦闘が終わると――
「おい、荷物持ち! こいつらの魔石、回収しろ!」
リーダーが、俺に命令する。まるで、犬に命令するかのような口調だ。
「……はい」
俺は、血まみれのゴブリンの死体に近づき、胸元から魔石を取り出した。ぬるりとした感触。血と体液が手に絡みつく。
吐き気がした。だが、我慢して魔石をアイテムボックスに収納する。
「ついでに、こいつも入れとけ」
戦士の一人が、自分の荷物を俺に押し付けてきた。
「予備の武器、重くて邪魔なんだよ。お前のボックスに入れとけ」
「……」
俺は、無言でそれを受け取った。
それからも、同じことの繰り返しだった。
魔物が現れる。赤牙連が戦う。俺は、戦利品を回収し、荷物を持たされる。
「おい、荷物持ち! 水だ!」
「荷物持ち! ポーション出せ!」
「荷物持ち! こいつの死体も入れとけ!」
何度も何度も、「荷物持ち」と呼ばれる。
俺の名前は、誰も覚えていないようだった。いや、最初から覚える気もないのだろう。俺は、彼らにとって「名前のある人間」ではなく、「便利な道具」でしかない。
「……くそ」
俺は、歯を食いしばった。
屈辱だった。こんなに惨めな思いをしたのは、初めてだった。
だが、シノンは相変わらず平然としている。
ダンジョンの構造を観察し、魔物の動きを記録し、まるで研究者のような目をしている。時折、壁の魔法陣を指でなぞったり、魔物の死体を興味深そうに覗き込んだりしている。
(……こいつ、本当に何も感じてないのか?)
俺は、シノンの横顔を見た。
シノンは、楽しそうに微笑んでいた。
*
やがて、パーティは三階に到達した。
「よし、ここで休憩だ」
リーダーが、広い空間で全員を集める。
天井の高い、大聖堂のような広間。壁には魔石の明かりが灯り、ここだけは不思議と温かい空気が漂っていた。
「三階のセーフゾーンだ。ここなら魔物も来ねえ。ダンジョンの中でも、唯一安全な場所だ」
部屋の隅には、すでに他のパーティが野営の準備をしている。焚き火を囲んで食事をする者、疲れた体を横たえる者、武器の手入れをする者――。
「今日はここで野営する。明日、四階を抜けて、五階のボスに挑む」
「おう!」
赤牙連の連中が、景気よく叫ぶ。
「じゃあ、荷物持ち。今日の戦利品、全部出せ。それと、野営用の道具も出しとけ」
「……はい」
俺は、アイテムボックスから、今日回収した魔石や素材を取り出した。
大量の戦利品が、地面に積み上がる。ゴブリンの魔石、オークの牙、ダイアウルフの毛皮――。
「へへ、今日は大漁だな」
「これ、全部売れば、結構な金になるぜ」
「酒が飲めるな!」
赤牙連の連中が、嬉しそうに戦利品を数えている。まるで、自分たちだけで稼いだかのような顔だ。
「あの……俺たちの取り分は?」
俺が尋ねると、リーダーが鼻で笑った。
「取り分? 何言ってんだ。お前らは荷物持ちだろ?」
「でも、パーティの一員として――」
「戦ってないやつに、報酬はねえよ」
男は、冷たく言い放った。
「五階のボスを倒したら、ダンジョン入場資格を得られる。それで十分だろ? それとも何か? 新人のくせに、報酬まで欲しいのか?」
「……っ」
俺は、怒りで拳を震わせた。
理不尽だ。あまりにも理不尽だ。だが、何も言い返せない。
「まあ、そう怒んなよ」
男は、わざとらしく俺の肩を叩いた。
「お前らみたいな新人を、ここまで連れてきてやったんだ。感謝しろよ。普通なら、一階で死んでるぞ」
そう言って、男たちは笑いながら酒を飲み始めた。
「……くそっ! ふざけやがって!」
俺は、小さく呟いた。
「まあまあ、健太。落ち着いて」
シノンが、なだめるように言う。
「落ち着いてられるか! あいつら、完全に俺たちをバカにしてる!」
「うん、そうだね」
シノンは、あっさりと認めた。
「完全にバカにしてるよ。でも、まあ、もう少しの我慢だよ。五階のボスを倒せば、入場資格が手に入る。そうすれば、もう彼らとは関わらなくていい」
「……っ」
俺は、深く息を吐いた。
(……そうだ。あと少しだ)
帰還方法を見つけるためだ。こんなことで、諦めるわけにはいかない。こんな屈辱、元の世界に帰れるなら安いものだ。
「……わかったよ。もう少しだけ、我慢する」
「うん。それがいいよ」
シノンは、満足そうに頷いた。
俺は、焚き火の光を見つめた。炎が揺れている。その向こうで、赤牙連の連中が笑い声を上げている。
――いつか、見返してやる。
そう、心の中で誓った。
*
翌朝。
簡単な朝食――乾燥肉と硬いパン、そして水――を済ませ、パーティは再び進軍を開始した。
四階は、三階までとは明らかに雰囲気が違っていた。
壁には複雑な魔法陣が刻まれ、廊下の構造も入り組んでいる。天井からは、鍾乳石のような氷柱が垂れ下がり、床は薄く氷が張っている。
空気が、さらに冷たくなった。
「気をつけろ。四階からは、罠も増える」
リーダーが、慎重に前を進む。
案の定、床に仕掛けられた罠が何度も作動した。矢が飛び出し、床が崩れ、炎が噴き出す。
だが、赤牙連の連中は、それらを巧みに回避していく。弓使いが罠を見つけ、魔術師が解除する。剣士が先頭で安全を確認しながら進む。
「さすがに、慣れてるな……」
俺は、その手際の良さに感心した。彼らは、何度もこのダンジョンを攻略しているのだろう。その経験が、動きに表れている。
やがて、四階を抜け、五階への階段が見えてくる。
石でできた、螺旋階段。その先に、何があるのか。
「よし、ここまで来た。五階のボス部屋は、すぐそこだ」
リーダーが、全員を集める。
「いいか、お前ら。ボス戦は気を抜くなよ。五階のボスは、ゴブリンジェネラルだ。知能が高く、配下のゴブリンを指揮する。だが、俺たちなら余裕で倒せる」
「おう!」
「荷物持ちは、後ろで見てろ。ちょろちょろして、邪魔すんじゃねえぞ」
「……ああ」
俺は、もう何も言わなかった。今更、何を言っても無駄だ。
階段を上り、五階に到達する。
目の前には、巨大な石の扉が立ちはだかっていた。表面には、古代文字のような文様が刻まれている。
「さあ、行くぞ」
リーダーが、扉に手をかける。
重々しい音を立てて、扉が開いた。
その向こうには――
広大な石の部屋が広がっていた。
天井は高く、まるで大聖堂のよう。壁には無数の氷柱が垂れ下がり、床は完全に氷で覆われている。
そして、その中央に。
巨大な氷の塊が、鎮座していた。
「……あれがボスか?」
戦士の一人が、警戒しながら前に進む。
その時。
ゴゴゴゴゴゴ――
低い振動音が、部屋全体に響いた。
氷の塊が、音を立てて動き出した。表面にひびが入り、氷が砕け散る。
中から現れたのは――
巨大な、人型の魔物。
全身が氷で覆われ、身の丈は優に五メートルを超える。筋肉の一つ一つが、氷の鎧のように硬質で、目は深い青色に光っている。
圧倒的な存在感。
ただそこに立っているだけで、部屋の温度が急激に下がっていく。
「……なんだ、あれ」
弓使いの声が、震えている。
「ゴブリンジェネラルじゃない……フロストタイタン……イレギュラーか!」
リーダーが、顔を青ざめさせた。
「イレギュラー……?」
「稀に、想定と違うボスが出現することがある……くそっ! なんでこんな時に!」
リーダーの声が、裏返っている。
だが、もう遅い。
フロストタイタンは、侵入者を認識した。
ゴオオオオオオ!
咆哮。
その瞬間、部屋全体の温度が、さらに急激に下がった。
「っ!? 寒っ!」
戦士たちが、凍えて動きを止める。息が白く凍り、武器を持つ手が震える。
巨人の動きは、その巨体からは想像できないほど速かった。
腕を振り上げる。空中に、青白い光が収束する。
次の瞬間、巨大な氷の槍が生成され、戦士たちに向かって次々と放たれた。
「うわああああ!」
氷の槍が、前衛の戦士の一人を貫く。鎧ごと、胸を貫通した。
鮮血が、氷の床に飛び散る。
「くそっ! 誰か、回復を――」
リーダーが叫んだ、その時。
後衛の魔術師も、氷の槍に貫かれて倒れた。
パーティは、瞬く間に壊滅状態に陥った。
「っ……!」
リーダーが、顔を青ざめさせる。
そして――彼は、俺たちを見た。
「……おい、荷物持ち」
「な、なんですか?」
俺は、嫌な予感がした。
「お前ら、あいつを引き付けろ」
「は……?」
「いいか、お前らが囮になれ。その隙に、俺たちが仕留める」
リーダーの声は、冷たかった。恐怖と焦りが混ざった、それでいて非情な声。
「ふざけんな! 俺たちは荷物持ちだろ! 戦闘には参加するなって――」
「うるせえ! 状況が変わったんだよ!」
怒鳴り声が、石壁に反響する。
「お前らが囮になれ! でなきゃ、全員死ぬ!」
――最低だ。
この男たちは、最後の最後まで、俺たちを道具としてしか見ていない。
その直後――
ゴオオオオオオ!
巨人が、再び咆哮した。
振り上げられた巨人の拳。それは、リーダーに向かって振り下ろされた。
「っ!?」
リーダーが、必死に回避しようとする。
だが、遅い。
凍てつく巨拳が振り下ろされ――
地面に、鈍い音が響いた。
リーダーの姿は、砕けた氷と血飛沫とともに消えた。
残った戦士たちも、次々と氷の槍に貫かれ、あるいは巨人の拳で潰され、倒れていく。
悲鳴。断末魔。そして、静寂。
赤牙連は、全滅した。
広間に、俺とシノン、そして巨人だけが残った。
巨人の目が、ゆっくりと俺を捉えた。
青く光る瞳。そこには、明確な殺意がある。
――だが。
俺は、もう恐怖を感じなかった。
肌を焼くような殺気を、サラリと受け流す。
むしろ、心の奥底で何かが冷えていくのを感じた。赤牙連の連中が死んだ。だが、俺の心は揺れない。
俺は、静かに単分子カッターを取り出した。
銀色の刃が、氷の光を反射する。
刹那、空気が張り詰めた。
巨人が、再び腕を振り上げる。氷の槍が生成される。
だが、俺の方が速かった。
剣を、横一文字に振り払う。
ただ一度、斬り払う。
「……終わりだ」
剣先から放たれた光の奔流が、軌跡となって宙を裂いた。
直後。
巨人の動きが止まった。
その巨体に、一直線の閃光が走る。
ゴゥン……
鈍い音とともに、上半身が僅かにずれ――
次の瞬間、巨人は真っ二つに断ち割られた。
上半身と下半身が、別々の方向に倒れる。
驚愕に染まったままの目が、こちらを向いたまま。
音もなく、崩れ落ちる。
氷塊が砕け散るように、その巨体は消えた。青白い光が飛び散り、やがて闇に溶けていく。
残ったのは、ただ一つ。
五階ボスの魔石。
青く輝く、人の拳ほどの大きさの結晶。
これがあれば、自由にダンジョンに入れるようになる。
俺は、魔石を拾い上げた。
振り返ると、赤牙連の戦士たちが倒れていた。血の海の中、氷に覆われた死体。
かつてなら、罪悪感を覚えただろう。人が死んだのだから。
だが、今は何も感じなかった。
もう、以前のように心が揺さぶられることはなかった。
(……ざまあみろ)
そう思ってしまう自分がいた。
俺たちを道具として扱い、囮にしようとした報い。当然の結果だ。
――俺は、変わってしまったのだろうか。
そんな疑問が、一瞬だけ頭をよぎる。だが、すぐに消えた。
考えても仕方ない。生き残るためには、こうするしかなかったのだから。
「行こうぜ、シノン」
「うん」
シノンは、相変わらず何も感じていない様子だった。むしろ、満足そうに頷いている。
俺たちは、死体を残して、ボス部屋を後にした。
冷たい風が、背中を撫でた。
*
ダンジョンを出ると、外の世界は相変わらず喧騒に満ちていた。
陽光が眩しい。空気が温かい。生きている人間の声が聞こえる。
だが、俺の心は、まだ冷たいままだった。
「さて、ギルドに行こうか」
「ああ」
俺は、魔石を握りしめた。
これで、自由にダンジョンに入れる。
帰還方法を探す、次のステップだ。
そのためなら、俺は何でもする。
――たとえ、心が冷えていこうとも。
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