第10話 港町ラスタル、潮騒と次の目的地
翌朝、俺を起こしたのは鳥のさえずりではなく、人のざわめきだった。
寝袋から顔を出すと、夜明けの光の中、巨大な城門がゆっくりと開いていく。
門の前には、すでに入場を待つ人々の長い列。南方の香辛料を山と積んだ荷馬車。東の山岳地帯から来た毛皮商人。褐色の肌をした遠い島国の船乗りたち。
整然としていた王都アルカディアの朝とはまるで違う、異国の匂いと言語が交錯する、むせ返るような熱気がそこにはあった。
「すげえ……これが交易都市か」
俺は思わずゴクリと喉を鳴らす。
門を抜けて街に足を踏み入れると、潮風に混じって魚の匂いが鼻をついた。遠くから市場の威勢のいい呼び声が響き、多様な言語が飛び交っている。
港町ラスタルには、王都とは異なる、生き物そのもののような、猥雑で力強いざわめきが満ちていた。
通りを歩けば、石畳の隙間を絶えず水が流れ、魚のうろこや貝殻がところどころに散らばっている。
陽が昇るにつれて、朝市の喧騒はさらに勢いを増していく。海に近い広場には、簡素な布張りの屋台がずらりと並び、炭火で焼かれる魚や貝の煮込みがたまらなく香ばしい匂いを漂わせていた。
得体の知れない海産物を串刺しにした屋台では、売り手の威勢のいい掛け声に、買い物客の笑い声が重なる。
肩をぶつけ合いながら通り抜ける人波の中には、旅人も地元の漁師もごちゃ混ぜになっていた。
シノンは市場の一角、焼きたての串焼きの前でふと足を止める。
「なんだそれ?」
俺が尋ねると、屋台のオヤジがニカッと笑って答えた。
「おう、兄ちゃん! そいつは海竜の子供だ! たまに網にかかるんだが、これがうめえんだ!」
「海竜って……」
俺は串を凝視する。
確かに、鱗っぽい皮が見える。
「お、おう……子供とはいえ、竜って聞くと、ちょっと躊躇うな……」
「気にしない方がいいよ。絶対うまい」
シノンが断言する。
「なんでわかるんだよ!」
「すごく、うまそうな匂いがしたから。おじさん一本ちょうだい」
俺もつられて、焼き魚と貝のスープを買い、港を望む石段に腰を下ろして朝食にした。
「うわ、このスープうまっ! 貝の出汁か? 潮の香りと独特の甘みが口いっぱいに広がって……あっつ! 舌、火傷した!」
「うん、天然の旨味成分がすごいね。後味の苦味がちょっと独特だけど、悪くない」
「未来でも、こういう屋台とかあんのか?」
「……んー、ないかな。こういうの、ちょっと憧れてた」
シノンの声に、いつもとは違う、少しだけ照れたような温かみが混じっていた。
完全に管理された彼の世界では決して味わえない、この雑多で人間くさい活気への、素直な憧憬が垣間見えた気がした。
露店を見て回っていると、ふと視線を感じた。
振り返ると――人混みの中、フードを深く被った人影がこちらを見ていた。
(……昨夜のヤツ?)
健太が目を凝らした瞬間、人影は人混みに紛れて消えた。
「どうしたの?」
シノンが不思議そうに尋ねる。
「いや……気のせいかもしれない」
(でも、確かに見られてた)
背筋に冷たいものが走る。
「……シノン、俺たち、誰かに尾けられてるかもしれない」
「え?」
シノンが周囲を見渡すが、既に人影は消えている。
「警戒しておこう。念のため」
健太の言葉に、シノンは静かに頷いた。
市場の喧騒を背に、俺たちは港の目抜き通りを歩きながら宿を探す。
「さて、次は宿探しだな。昨夜は地べたで寝たから、今夜はベッドで寝たい」
「水道と個室があればいい」
「水道なんてあるかよ。異世界なめんな」
そんな軽口を叩きながら通りを歩いていると、小さな木製の看板が目に入った。
「お、ここよさそうじゃね? 『湯あり、朝食あり、名物・港鍋』……港鍋ってなんだよ」
「その日に港で揚がった魚介を、ごった煮にした鍋料理……だと予想する」
「やけに具体的な予想だな」
「この街の食文化、昨日のうちに調べておいたから。こういうのが定番らしいよ」
「観光ガチ勢かよ!」
扉を開けると、中は木と石を基調にした、素朴だが清潔な内装だった。海風が心地よく吹き抜けるように設計されており、潮の香りが微かに漂う。
カウンターにいた女将さんらしき女性が、人の良さそうな笑みで俺たちを迎えてくれた。
部屋に荷物を置くと、俺たちは身軽なまま、再び街の散策へと繰り出した。
朝市の騒がしさがひと段落すると、大通りには観光客や地元の人々が織りなす、にぎやかで穏やかな空気が戻ってきた。
石畳の通りは、両脇に色鮮やかな天幕が連なる露店街へと続いており、香辛料の刺激的な香りや、聞いたことのない弦楽器の陽気な旋律が風に乗って通り抜けていく。
並ぶ品々は、異国の雑貨に珍妙な形の魔道具。飛び交う多様な言語。そこには“忙しさ”ではなく、ゆったりとした好奇心が満ちていた。これこそが、交易都市ラスタルの日常なんだと、俺は静かに実感する。
「このごちゃ混ぜ感、王都とはまた違うな。人種も言葉も文化も、全部ごちゃ混ぜって感じだ」
俺は興味深げに周囲を見渡し、串に刺さった焼き菓子をかじった。
隣を歩くシノンは、露店の一角に展示された、手のひらサイズの魔道具に目を留めている。
「そいつは帝国の学園都市、ヴィセールで作られた最新型だよ。魔力を込めると、水が出せるんだ」
店主の言葉に、俺は首をかしげる。
「学園都市?」
「ああ。世界中から研究者が集まる、魔導研究の最先端都市さ。もちろん、そこで作られた魔道具はどれも一級品だぜ」
シノンは少し考えた後、ふと俺に向き直った。
「……もしかしたら、召喚に関する文献や、手がかりもあるかもしれないね」
その言葉に、俺の心臓が跳ねた。
「帰れる可能性……か」
「まあ、可能性はゼロじゃないってだけだけど」
「それでも十分だ」
俺は拳を握りしめる。
「学園都市、行こうぜ」
「観光も楽しみだしね」
「お前はそっちかよ!」
「まあ、港町の魚も魅力的だけど、次はそこで何か掴めるかもしれないしね」
シノンが小さく頷き、俺たちの次の目的地が、なんとなく定まった。
夕暮れが近づく頃、俺たちは港を見渡せる坂道の高台に立っていた。水平線の向こうに沈みかけた太陽が、海と空を鮮やかなオレンジ色に染め上げる。港に戻ってきた船の白い帆が光を反射し、カモメの鳴き声が潮風に混じって響く。昼間の喧騒が嘘のように静まりつつある港町。
「……綺麗だな」
俺は思わず呟いた。
「うん」
シノンも、珍しく静かに頷く。
異世界に来て、初めて心から「平和だ」と思えた瞬間だった。
「……結局、今日は観光と飯で終わったな」
俺が手すりにもたれかかり、ぽつりと呟く。
「観光が目的だったから、問題ないよ」
シノンは潮風に吹かれながら、こともなげに言った。
「お前はな! でも……まあ、目的地も決まったし、次の学園都市、ちょっと楽しみになってきたわ」
俺の声には、疲れの中にも確かな期待がこもっていた。
「期待しすぎない方がいい。文献があるかは行ってみないと分からないし、手がかり程度しかないかもしれないから」
「それでも、ゼロよりはマシだろ。行く価値はある」
俺の力強い言葉に、シノンは一拍置いて、ふっと微笑んだように見えた。
やがて空が群青色に染まり始めると、俺たちは港を背に宿へと戻っていった。
港町の夜は早い。
夕食を終える頃には、通りの賑わいもすっかり落ち着き、街灯代わりの魔光灯が淡く石畳を照らしていた。宿の部屋は木の香りが落ち着く造りで、窓からはひんやりとした潮風と、遠くに砕ける波の音が聞こえる。
ベッドに腰掛けた俺の横で、シノンが静かに言った。
「……明日、教会に行ってみない? この町の大聖堂、建築様式が独特で有名らしいよ」
「ん? いきなりだな」
シノンの唐突な提案に、俺は首を傾げる。
「もちろん観光が第一だけど、召喚された時に『神の思し召し』がどうとか言ってたし、何か関係があるかもしれないからね」
「なるほどな。観光って言いながらも、案外しっかり考えてるじゃんか」
俺の言葉に、シノンは少しだけ得意げな顔を見せた。
「健太の目的も、ちゃんと手伝うつもりだよ。観光のついでに、ね」
「ついでかよ!」
俺が呆れたように肩をすくめ、ベッドに背中を預ける。
「じゃあ、明日は大聖堂か。朝飯食ったら行ってみようぜ」
「うん。その後は、港でお土産も見て回ろう」
「ほんと、お前はブレないな」
俺たちは顔を見合わせて笑い合い、港町の穏やかな夜は更けていった。
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