第19話 蔵書の果て、偽りの帰還魔法
決闘大会から数日が過ぎた、ある日の午後。俺は、気分転換も兼ねて、シノンが入り浸っている巨大図書館を訪れた。
そこで俺が見たのは、図書館の最も奥、神学や古代史の書物が並ぶ、最も人気のない書架の最後の一冊を、シノンが手に取る光景だった。
シノンは、いつものように超高速でページをめくり、そして、静かに本を棚に戻す。
パタン、という乾いた音が、やけに大きく響いた。
シノンは、最後の一冊をパタンと閉じた。
「……これで、全部だ」
「は?」
「この図書館の、一般公開されている蔵書。すべて読み終わった」
俺は、思わず周囲を見回す。
天井まで届く書架。何万冊とある蔵書。
それを、全部?
「お前……マジか……」
「うん。だいたい三万五千冊くらいかな」
シノンは、あっさりと答えた。
「三万五千冊って……普通の人間なら一生かかるぞ……」
「まあ、僕も一ヶ月かかったからね」
その感覚が、もう人間じゃない。
呆然とする俺に、シノンはこともなげに告げた。
この巨大な図書館の、一般公開されている蔵書の、最後の一冊を読み終えた、と。
「マジかよ……。で、何か分かったのか? 帰る方法」
「いや、ゼロだ。異世界間の転移なんていう、高度な魔法に関する記述は、一切なかった」
シノンはそう言うと、俺を伴って、迷わず図書館のさらに奥へと歩き始めた。
そこには、他の書架とは明らかに違う、鉄格子がはめられた重々しい扉があった。
扉の上には、プレートが掲げられている。
――『禁書庫』
「残るは、ここだけだ」
シノンが、その扉に手をかけようとした、その瞬間だった。
「そこから先は、聴講生が入ることを許された場所ではない」
背後から、厳格で、冷たい声がかけられる。
振り返ると、そこにいたのは、いかにも気難しそうな、山羊髭をたくわえた老教授だった。
「禁書庫の閲覧は、教授か、特別に推薦された者のみだ」
「推薦……」
シノンが静かに問う。
「我々教授陣を唸らせるほどの、独創的で、革命的な論文でも書けば、考えてやらんこともない」
老教授は、鼻で笑う。
「まあ、君たちのような若輩者には、夢のまた夢だろうが。ここ十年、聴講生で推薦を得た者など、一人もおらん」
「……そうですか」
「せいぜい、基礎から学び直すことだな。禁書庫など、百年早い」
老教授は、俺たちを見下すように言い放つと、禁書庫の扉を開けて中へと消えた。
俺が呆然と立ち尽くす横で、シノンは、静かに、しかし力強く呟いた。
「……論文、か。なるほど、合理的だ」
その目には、絶望ではなく、新たな目標を見つけた者の光が宿っていた。
そして、その夜。寮の部屋は、静かな熱気に包まれていた。
「なあ、それ、何やってんだ?」
俺がベッドの上でゴロゴロしながら声をかけると、机に向かっていたシノンは、こちらを振り返りもせずに答えた。
「召喚魔法陣の解析。ついでに論文の裏付けデータを取っているんだよ」
シノンの目の前には、半透明のウィンドウが投影され、図書館でスキャンした何百という魔法陣が、万華鏡のように映し出されていた。
「まず、収集した魔法陣のデザインを統一し、正規化する」
シノンが言うと、目の前に無数の魔法陣が浮かび上がった。
それらは、まるで生き物のように動き出す。
大きさも形もバラバラだった魔法陣が、次々と同じサイズに揃っていく。
色とりどりだったルーン光が白と黒に塗り分けられ、世界が一瞬モノクロに沈む。
「ここから、魔法を決定づける『特徴』を抽出する」
シノンの言葉と共に、無数の魔法陣が、まるで意思を持ったかのように空間を飛び交い、グループに分かれ、その構造が分解されては再構築されていく。
「さらに、魔法陣の『構文』を解析する」
シノンの瞳に、数式のようなルーン文字が流れ込む。
魔法陣たちは意志を得たかのように動き回り、構成要素が自らを分解しては再構築していく。
それは、まるで言葉が自分自身の文法を理解し始めたかのようだった。
「そして、これが仕上げだ。解析した構文ルールを元に、――魔法陣の生成原理を再構築する」
「……何やってんだ、これ」
「魔法陣の『言語』を解析してるんだよ」
シノンは楽しそうに答える。
「人間の言葉に文法があるように、魔法陣にも構文がある。それを読み解いてるんだ」
やがて、すべての解析が終わると、彼は最後にひとつの陣を呼び出す。
見覚えのある、忌まわしい召喚陣。
「……そして、この召喚魔法陣の“意味”を解析する」
「意味?」
「ああ。構文だけじゃ足りない。これは“目的”を持って作られたものだからな」
光が収束し、複雑な陣形が次々と剥がれていく。
層を失うたび、中心にある“意図”があらわになる。
シノンの表情が徐々に冷たく、硬くなっていった。
俺は、固唾を飲んでその光景を見守った。
数分後。すべての解析を終えたシノンは、静かに、そして冷徹に、結論を告げた。
「健太。残念なお知らせがある」
「……なんだよ」
「これは、一方通行の転送ゲートだ。つまり――送還機能は、組み込まれていない」
その言葉が、俺の脳内でリピートする。
送還機能は、ない。
「……マジか」
俺の声は、震えていた。
「じゃあ、あの宰相が言ってた『魔王の魔石があれば帰れる』ってのは……」
「完全な嘘だね。最初から、俺たちを帰す気なんてなかったんだ」
「そっか。まぁなんとなく……覚悟はしてたけど……」
「後は禁書庫頼みか……」
「ああ」
シノンは、力強く頷く。
「だから、絶対に推薦状を手に入れる」
「でも、十年間誰も成功してないんだろ?」
「だから、やりがいがある」
シノンの目が、キラキラと輝く。
「あの老教授を唸らせる論文。面白そうじゃないか」
「……なあ、シノン」
俺は涙が溢れないように、天井を見上げながら聞いた。
「お前、なんでここまでしてくれるんだ? お前は観光したいだけだろ?」
シノンは少し考えて、静かに答えた。
「最初はそうだったけど、今は……まあ、健太が困ってるから、かな」
「それだけ?」
「それだけじゃないよ。禁書庫も気になるし」
シノンはいつもの調子で言う。
「でも――」
シノンは少しだけ真剣な顔をした。
「僕の世界では、こういう感情を『友情』って呼ぶんだ」
シノンは、少し照れくさそうに笑った。
「だから、絶対に帰還方法を見つける。約束するよ」
俺は、もう一度泣いた。
でも今度は、悲しみだけじゃなかった。
「お前がそう言うなら、信じるよ」
「うん。任せて」
シノンは、そう言って俺の方を振り返った。
その目は、揺るぎない自信に満ちている。
彼は、再び空間にウィンドウを投影した。
そこには、彼が今まさに書き上げようとしている、一枚の論文のタイトルが映し出されていた。
――『魔力伝導におけるボトルネックの解消と、それに伴う魔道具の汎用的な省力化に関する一考察』
俺にはそのタイトルの意味するところは、まだ分からなかった。
ただ、それが、あのいけ好かない老教授の度肝を抜く。そんな予感だけが、胸をざわつかせていた。
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