第13話 鉄屑と王冠
重厚な扉が軋む音を立てて開かれる。
二本の槍を携えた門番が一歩下がり、その先から、絹の衣をまとったロベルト・メルカードが、胸を張って領主の館に足を踏み入れた。
「メルカドール商会、会頭ロベルト。領主ギルバート様に至急お目通りを願いたい」
門番は一瞬、警戒の色を見せたが、この街で知らぬ者のない商人の名を聞くと、すぐに姿勢を正した。
やがて通された謁見室。荘厳な椅子に腰掛けるのは、交易都市ラスタルの領主、ギルバート・アレクサンドル・クレイヴ。壮年の男でありながら、鍛え上げられた体躯と鷲のように鋭い目が、彼がただの貴族ではないことを物語っている。
「ロベルト殿か。こんな夜更けに、一体何用だ?」
領主の声には、確かな威厳と、わずかな苛立ちが滲んでいた。
「恐れながら、閣下。これよりご覧に入れるのは、我が人生最大の発見にして、この街――いえ、王国の未来を左右する品でございます」
「ほう……大きく出たな」
ロベルトは深々と頭を下げ、片膝をつくと、手を上げて部下に合図を送る。
謁見室の外から静かに滑り込んできたのは、大きな布に覆われた台車だった。
布が払われる。そこにあったのは、これまで誰も見たことのない、銀と黒の滑らかな曲線を描く物体だった。
それは台座に置かれているわけでもなく、宙に浮いたまま静止している。
魔導炉の気配はない。浮遊魔法の印もない。
それなのに、それは確かに、そこに浮いている。
あらゆる装飾を排した合理的なデザイン。不可解な素材。
人間の常識の外にある、まさに『異物』。
領主の目が見開かれる。
「……これは?」
「名をホバーバイクと申します。昨日、城門前にて偶然これを操る旅人と出会い、幸運にも譲り受けることが叶いました」
「魔道具か? しかし、魔力の気配が一切せん……浮遊魔法の印も見当たらん……」
領主は玉座から立ち上がり、慎重にその周りを歩き、あらゆる角度から観察する。
「我が目利きによりますと、これは……ダンジョン産のアーティファクトかと存じます」
ロベルトが声を潜めて囁くように言った瞬間、領主の表情が一変した。
その目に、疑念に代わって、燃えるような確信の色が宿った。
これは――ただの玩具ではない。これは、支配の象徴となる「力」そのものだ。
「……第三王子殿下に、献上せねばなるまいな」
領主が静かに呟いた。
「なるほど。これ程のアーティファクトを所持するとなれば、第三王子殿下の名声も、いやが応にも天下に轟きましょうぞ」
「見事だ、ロベルト。後日、十分な褒美を取らせよう」
「ははっ! 光栄の極みにございます!」
領主邸を辞し、背後で扉が閉じる音とともに、ロベルトは静かに息を吐いた。
満足と興奮が胸に満ちる。これで間違いなく、第三王子殿下が玉座に一歩近づく。
そして、メルカドール商会の名は、ラスタル一の商会どころか、王国全土に轟くのだ。
ロベルトは、胸の高鳴りを抑えきれずにいた。
重厚な扉が閉まり、ロベルトの足音が遠ざかっていく。
謁見室には、ギルバートと、彼の背後に控える執事だけが残された。
ギルバートはホバーバイクから目を離さずに命じた。その鋭い眼差しは、獲物を前にした猛禽のようだった。
「ウォルター」
「は、ここに」
「元々予定していた王子の歓迎会で、このアーティファクトを披露する。場所は庭園に変更。夜会ではなく、昼間に催せ。実際に動かしてこそ、あの輝きは真価を発揮するだろうからな」
「かしこまりました」
「招待状も書き換えろ。今回の主役は第三王子ではない。このアーティファクトだ。……ああ、そうだ。招待客は厳選しろ。特に、第二王子派の貴族や、帝国の商会の者どもには、必ず声をかけるのだ」
ギルバートの指示は、ただのパーティーの準備ではなかった。
それは、ホバーバイクという『異物』を最大限に利用し、自らの権勢を誇示するための、周到に練られた政治的な戦略だった。
三日後、ラスタルの港に、第三王子アルフレッドを乗せた巨船がゆるりと停泊した。
王族の来訪とあって、街は祭りのような熱気に包まれている。
港に並ぶ人々の顔は好奇と期 待で輝き、城郭の門前では楽師の笛と太鼓が途切れなく響いていた。
領主ギルバートは応接室で王子を待ち受けていた。
その傍らで、ロベルト・メルカードは胸を張り、勝ち誇った笑みを浮かべている。
「叔父上。報告にあった『ダンジョン産のアーティファクト』とは、一体どのような代物なのですか」
アルフレッド王子は二十代半ば、洗練された顔立ちの青年である。
だが瞳の奥には、どこか頼りなげな影が宿り、血縁であるギルバートに縋るような色が見え隠れしていた。
「殿下、あれこそが未来を拓く奇跡の乗り物にございます」
ロベルトが間髪入れずに答える。その声には、己の未来を確信するほどの力が満ちていた。
「帝国の皇帝ですら、あれほどの品はお持ちではありますまい。これさえあれば、第二王子派の者どもも、殿下の御前にひれ伏すこと間違いなしにございます」
更に二日後――
領主邸の庭園に設えられた特設会場では、煌びやかなパーティーが催されていた。
豪奢な衣をまとった貴族たちが派閥を問わず集い、中央に据えられた覆いの下に、期待と嫉妬の入り混じった視線を注いでいる。
やがて、ギルバートが壇上に立ち、朗々と宣言する。
「諸君、本日はよくぞ集まってくれた! これより、我がラスタルが手に入れた『奇跡』をご覧に入れよう!」
覆いが払われ、銀と黒の曲線を描く機体――ホバーバイクが現れると、会場は大きなどよめきに包まれた。
しかし、昨日の試運転では羽根のように軽やかに宙を滑っていたはずの機体は、今日は沈黙を保ったまま、ぴくりとも動かない。
昨日まで神々しく浮遊していた奇跡の乗り物が、今はただの鉄屑のように見えた。
観衆のざわめきが、次第に訝しげな色を帯び始める。
燃料インジケーターがゼロを指していることに気づける者は、残念ながらこの場にはいなかった。
「な……」
領主の顔から血の気が引いていく。
冷や汗が背中を伝う。彼は、これまで築き上げてきた全てが、ガラガラと音を立てて崩れていくのを感じていた。
(なぜ……なぜ動かない……)
昨日は確かに動いたのだ。
この目で見た。宙に浮き、風を切って走るのを。
(王国全土に名を轟かせるはずだった……)
(メルカドール商会は、王室御用達に……)
すべてが、すべてが――
「ど、どうしてだ……! なぜ動かんのだ……!」
彼の声は悲鳴となり、会場に響いた。
だが、誰も答えない。
ただ嘲笑だけが、彼を包み込んだ。
会場に、くすくすという嘲笑が広がり始める。
「ほう、これが噂の『奇跡』とやらか」
第二王子派の貴族が、わざとらしく声を上げる。
「動かぬ鉄屑を、殿下は『奇跡』と呼ばれるのですな」
「ははは! いやいや、これこそ殿下にふさわしい! 『見た目だけは立派』という点において!」
「確かに! 中身が伴わぬところまで、そっくりではないか!」
嘲笑が会場に広がる。
アルフレッドの頬は羞恥に赤く染まり、ただ叔父に助けを求める視線を送ることしかできなかった。
「叔父上……一体、これは……」
アルフレッドの口から漏れた弱々しい問いかけに、誰も応じようとしなかった。
嘲笑と冷たい視線だけが降り注ぎ、若き王子を無慈悲に突き刺した。
その晩の領主邸の執務室――
机の前には血相を変えたギルバートが立ち、床にはロベルトが額を擦りつけて震えている。
「……貴様のせいで、どれほどの恥をかいたか分かっているのか!」
アルフレッドはワイングラスを床に叩きつけ、赤い液体が絨毯に染みを作った。
「この私だけでなく、叔父上まで笑い者にされたのだぞ!」
「も、申し訳ございません! ですが、試運転では確かに動いたのでございます……!」
必死の弁明も虚しく、王子の怒りは収まらない。
「……その旅人のことを話せ。どこで、いつ、いかにしてその品を手に入れたのか、洗いざらいだ」
ロベルトは震える声で昨夜の顛末を語った。
見知らぬ旅人の風貌、ホバーバイクを売り渡した経緯、そして彼らが港の船宿に滞在していたことを。
「すぐに捜索させろ!」
アルフレッドが叫ぶ。
「港を封鎖し、すべての船を調べろ! 街中の宿をくまなく探せ!」
「殿下、しかし……」
「必ず捕らえろ! 奴らにこの品を再び動かさせれば、私の面目は保たれるのだ!」
騎士たちが慌ただしく部屋を飛び出していく。
だが、ギルバートは暗い顔をしていた。
(もう……遅いかもしれぬ……)
あれから五日。
旅人たちは、すでに街を出ているかもしれない。
騎士たちが慌ただしく部屋を飛び出していく。
ギルバートは黙って頷き、ロベルトは恐怖に顔を歪めながら平伏するしかなかった。
*
ちょうど領主邸でお披露目パーティーが催されていた頃――
港から一艘の大型客船が、静かに出航するところだった。
「おい、シノン! 見ろよ、この豪華な客船! 一等客室って、マジですげぇな!」
窓に張り付いた健太が、子供のようにはしゃいでいる。
「いよいよ出航かぁ。豪華な飯に、ふかふかのベッド……最高だな!」
「ね? 一番いい部屋を取っておいて正解だったでしょ?」
二人は上機嫌のまま部屋を飛び出す。
船はゆるやかに港を離れ、きらめく水面を切り裂きながら、大海原へと滑り出していった。
*
――その頃、港では騎士たちが血相を変えて走り回っていた。
「見つからん!」
「すべての宿を調べたが、それらしき者は!」
「港に停泊中の船も、すべて調べたが……」
「まさか……」
騎士の一人が、水平線を見つめる。
そこには、遥か彼方に消えていく、一隻の豪華客船の影。
「出航した後か……」
騎士は、無力感に膝をついた。
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