第12話 未来の価値観と教会の影

 丘を下るうちに、港の喧騒がだんだんと耳に届いてきた。大聖堂の静謐な空気が、現実のざわめきに上書きされていく。潮風が頬をかすめて、遠くでカモメの鳴き声が響く。

 俺はふと立ち止まった。

 振り返る。丘の上の大聖堂が、まだそこにある。

 もう一度だけ、あの荘厳な光景を記憶に焼きつけるように——


「大聖堂、マジですごかったな……。あのステンドグラス、芸術品だろ。なんかこう、心が洗われるっていうか……」


 だけどシノンは、俺の感傷には付き合わない。落ち着かない様子で辺りを見回している。


「え?」


 俺も慌てて辺りを見回す。

 雑踏の中、何人かがこちらを見ているような気がする。

 でも、誰も目を合わせない。


「気のせい……かな」


 シノンが呟く。


 その時だった。


「すみません! あなた方を探しておりました!」


 振り返ると、上等な服を着た中年の男性が、息を切らしながらこちらへ駆け寄ってくる。


(この人か?)


 シノンは少し警戒を解いた。だけど、完全には消えない。

 雑踏の中、まだ誰かが見ている――


「……何の用ですか?」


 俺は警戒しながら答える。


「私は交易商のロベルト・メルカードと申します。昨夜、門前の広場で見かけたあの乗り物の件で……ぜひとも、お願いがありまして!」


(乗り物って……バイクのことか!)


 俺が横で目を丸くする中、シノンは目の前の男と、その背後にいる供の者たち、そして雑踏に紛れるいくつかの視線に気づいて、小さく息を吐いた。

 どうやら、さっき感じた視線の主は——彼らだったらしい。


「お願い、ですか?」


「はい! 昨夜拝見した、あの――宙に浮く乗り物を、是非とも私に譲っていただけないでしょうか!」


 シノンは少し考えると、あっさりと頷いた。


「ああ、あれね。たいしたものじゃないし、君が欲しいならいいよ」


 俺は思わず声をあげる。


「おいおい、マジで渡しちまうのかよ!」


「子供のおもちゃだし、次の街へは船で行くからね」


 そう言うと、シノンはアイテムボックスからこともなげにホバーバイクを取り出した。


「おお……!」


 商人の目が、異様に輝く。

 その輝きは、単なる喜びじゃない。何か別の思惑が、瞳の奥で蠢いている。


「ありがとうございます! いや、本当に感謝いたします!」


 商人の頭の中では、すでに計算が始まっていた。


(この品を手に入れれば、領主様への献上品に……いや、もしかしたら王族にまで……)


「代金は、ぜひ私どもの店でお支払いさせてください!」


 商人は満面の笑みを浮かべ、俺たちを店へと先導した。

 俺は、ぽかんとしたままその後をついていく。


「……お前、ああいうの、あっさり手放すよな」


「僕にとっては、ただの玩具だからね」


 シノンはそう言って、港町の活気に溶け込むように歩いた。


 *


 商会の裏口から通されたのは、商品が山積みされた倉庫だった。

 ロベルトは奥にある小さな応接室へ俺たちを案内すると、ずっしりと重い革袋を差し出した。


「こちら、王国金貨で500枚ほど入っております」


 俺は革袋を受け取り、恐る恐る中を覗く。


 金貨が、ぎっしりと詰まっている。


「……おい、シノン」


 俺は革袋の重さに驚く。


「これ、ヤバい額じゃねえか? 宿の一泊が銀貨2枚だぞ? 金貨1枚は銀貨10枚だから――」


 俺は頭の中で計算する。


(金貨500枚って、銀貨5千枚!? 宿に2500泊できる計算だぞ!?)


「こっちの世界では、それだけ珍しい物ってことなんだろうね」


 シノンは、まるで他人事のように答えた。


 シノンの言葉に、ロベルトは興奮を隠しきれない様子で深く頷いた。


「まさにその通り! あのような不可思議な品は、生まれてこの方、一度も見たことがございません!」


 シノンが革袋を受け取ると、ロベルトは深々と頭を下げて、俺たちを見送った。


 *


 大金を受け取った俺たちは、その足で船着き場へと向かった。

 活気に満ちた波止場には、色とりどりの旗を掲げた大小さまざまな船が停泊している。

 その中でもひときわ大きく、豪華な船が俺の目を引いた。

 船体は白い木材で造られ、複数のマストに張られた帆には、黄金の竜の紋様が描かれている。


 俺がその船に感嘆の声を漏らすと、シノンはまるで当たり前のように言った。


「次の学園都市行きの船は、きっとあれだよ」


 シノンが、まるで当たり前のように言った。


「一番豪華だし、速そうだから」


「何でわかるんだよ?」


 俺は不思議そうに首を傾げる。


 シノンは真面目な顔で答えた。


「統計学的に、僕が『あれがいい』と思ったものは、87.3%の確率で正解だから」


「なんだその中途半端な数字!」


「過去のデータから算出したんだ。サンプル数は……23回」


「少なっ! それ統計って呼べるのか!?」


「まあ、87.3%って言うより、正確には20勝3敗だね」


「最初から勝率って言えよ!」


「でも、パーセンテージの方が科学的に聞こえるでしょ?」


「聞こえねーよ!」


 苦笑しながら、俺はシノンの後を追って、船会社の事務所の扉をくぐった。


 *


 事務所の中は、外の喧騒とは打って変わって、静かで落ち着いた空気が流れていた。

 窓口には、上質な服を着こなした、いかにもやり手といった雰囲気の中年男性が座っている。


「帝国の学園都市行きの船に乗りたいんだけど」


 俺が声をかけると、男性は穏やかに頷いた。


「はい。船にはランクがございまして、一般客室、二等客室、一等客室がございます。船旅の期間は、七日ほどになるかと存じます」


 シノンは男性の言葉を聞き終える前に即答した。


「一等を二人分。支払いはこれで」


 そう言って、シノンはさっき受け取ったばかりの金貨袋から、惜しげもなく金貨を数枚取り出した。


「おいおい、一番高い部屋かよ! この金だって、いつまで持つか分かんねえんだぞ!」


 俺の抗議も気にせず、シノンはさっさと支払いを済ませてしまう。

 乗船券代わりの割符を受け取ると、すぐに事務所を後にした。


「稼いだそばから散財して、大丈夫なのかよ? お前、貯金とかしないタイプだろ?」


「?社会信用レーティングは、行動ログの評価だから、真っ当に生きていれば減らないよ?」


 シノンの答えに、俺は頭を抱える。


「……そういえば、こいつの時代って貨幣経済じゃないんだった……。一度、金銭感覚ってやつを、ちゃんと教えたほうがいいのか……?」


 そんな俺の呟きも気にせず、シノンは先へと歩いていく。


「宿も、もっと良いところに変えてみない? オーシャンビューがすごいホテルがあるらしいよ」


 俺を振り返ると、シノンは満面の笑みで言った。


「それ絶対高いやつだろ! あんまり無駄遣いすんなって!」


 俺は慌てて、その背中を追いかけた。


 *


 ――その後ろ姿を、フードを被った人影が、静かに見つめていた。


 修道士風の男は、小さな手帳に何かを書き込む。


 『対象、商人と接触。大金を得る。豪華客船の一等船室を購入。次の目的地:帝国学園都市』


 彼は手帳を閉じると、音もなく雑踏に消えた。


 報告すべきことが、また一つ増えた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る