第11話 理を外れし者、来訪す

 朝の光が、港を金色に染めていた。薄い海霧がまだところどころに残っている。岸辺では漁師たちが網を干し、干物の香りが風に混じって漂ってくる。市場の喧騒が遠くから響いて、早くも一日が動き始めている。

 そのざわめきを横目に、俺たちは石畳の坂道を登り始めた。


「けっこう登るな。でかい教会って、なんでこう高いとこにあんだろ」


「権威の象徴だからね」


 シノンが答える。その声は、いつも通り淡々としている。


「町を見下ろせる場所に建てるのが、定番の設計思想らしいよ」


 坂を登るにつれて、それは姿を現した。

 街のどこからでも見える、巨大な建築物。白い石材で組まれた大聖堂は、空を突く尖塔の先まで、荘厳な雰囲気を漂わせている。ステンドグラスに朝の光が差し込んで、重厚な扉の前では修道士らしき人物が静かに祈りを捧げていた。


 静寂。

 祈りを捧げる人々。

 穏やかな表情。


(こういう場所、久しぶりだな)


 日本でも、初詣とか行ったっけ。

 平和な日常。


(いつ、帰れるのかな)


 そんな考えが頭をよぎったけど、すぐに打ち消した。

 考えても仕方ない。今は情報を集めることだ。


「……観光地って感じじゃねえな。俺、ちょっと場違いな気がしてきた」


 俺が思わず気圧されて呟くと、シノンはそんな俺の隣で淡々と解説した。


「こういうのは、信仰を演出するための舞台装置だから。建築様式と装飾は見応えあるはずだよ」


「お前、ほんと身も蓋もねえな……」

 俺は苦笑しながら、重い扉を押し開けた。


 *


 外の喧騒が嘘のように遠ざかる。

 

 ひやりとした空気が肌を撫で、香炉から立ち上る、どこか甘く神聖な香りが鼻をくすぐった。高い天井は遥か彼方。左右に並ぶ巨大な柱が、まるで天を支えているかのようにそびえ立つ。色とりどりのステンドグラスから差し込む光の筋が、空気中を舞う埃をきらきらと輝かせて、その先の祭壇に立つ聖像を厳かに照らし出していた。


 俺とシノンは無言で視線を交わして、目立たぬように足を進める。


 壁面に刻まれた精緻なレリーフ。

 天井に描かれた聖獣のフレスコ画。

 それらを眺めながら、ゆっくりと大聖堂の奥へと歩いていった。


 *


 大聖堂の一角、静寂に包まれた回廊を、一人の若い修道女がゆっくりと歩いていた。


 彼女の仕事は、祈りの合間に聖堂の清掃と管理を行うこと。

 手に持った布で壁のレリーフを優しく拭きながら、彼女は今日も変わらない日常が続くと思っていた。


 その時。

 

 彼女の視界に、見慣れない二つの人影が映った。

 一人は黒髪の少年。

 この国では珍しい、東方の血を引いているのだろうか。

 もう一人は、どこか不思議な雰囲気の若者。

 その無表情な顔は、まるで感情のない人形のようにも見える。


 修道女は直感した——彼らは、ただの観光客ではない。

 彼らの視線は、壁のレリーフや天井のフレスコ画に向けられている。

 だけどその眼差しは、信仰心からくるものではなく——何かを観察し、分析しているかのようだった。

 修道女は、とっさに柱の陰に身を隠す。


 彼らの様子を注意深く観察する。

 やがて、二人が奥の回廊へと歩みを進めていくのを確認すると、彼女は音もなくその場を離れた。

 彼女の脳裏に、数日前に司教から極秘に伝えられた神託の内容がよぎる。

 修道女は、急いで司教の執務室へと向かった。

 彼女の心臓は、祈りを捧げるときとは違う、張り詰めたような緊張で高鳴っていた。


 *


 大聖堂の一角、司教の執務室。

 重厚な木の家具と、天井まで届く書棚が並ぶ荘厳な空間だった。

 窓から差し込む光が、空気中に漂う埃をきらきらと輝かせている。

 

 修道女は、扉を静かにノックした。


 司教の入室を許可する声を聞いてから、中へと入る。

 一礼して、顔を上げる。司教は机に向かって座り、ペンを動かしていた。


「司教様、ご報告がございます」


 彼女の声は、祈りを捧げるときと同じくらい静かだった。

 だけど、微かに緊張が滲んでいる。


 司教はペンを止めて、ゆっくりと顔を上げた。

 その鋭い眼差しに、修道女は一瞬、息をのむ。


「話すがよい」


「先日から観察していた二人の異邦人について、詳細を確認できました。一人は黒髪の少年。もう一人は、感情の読めぬ不思議な若者です」


 修道女は、目撃した二人の様子を詳細に語った。彼らが壁のレリーフやフレスコ画を眺めていたこと、そして、その眼差しが信仰心からくるものではなかったこと。

 修道女の報告を聞き終えると、司教は深く息を吐いた。


「……ついに、現れたか」


「司教様?」


「神託は『定めなき時に、ふたつの影、世界に落ちる。夜空の如き者と理を外れし者』。――まさに、その通りの者たちではないか」


 司教は立ち上がり、窓の外を見つめる。


「王国で勝手に召喚された勇者……教会の権威を無視した、禁忌の存在だ」


「では、直ちに拘束を……」


「いや」


 司教が手を上げて制する。


「神は彼らを『光にも影にもなる』と言われた。つまり、まだ可能性がある」


「では……」


「まずは観察だ」


 司教の声は、低く響く。


「彼らが何者か、何を求めているか。すべてを見極めてから動く」


「では、どう動きましょうか」


 護衛の神殿騎士が問う。


「接触はまだ早い。まずは尾行し、彼らの行動を記録せよ」


 司教の指が、机を叩く。


「どこに泊まり、誰と会い、何を求めているか――すべてを把握するのだ」


「承知しました。『影』の者たちに伝えます」


 *

 一方その頃——


 俺とシノンは、天窓から差し込む光の下にいた。最後の聖堂レリーフを眺めている。


「ここ、入って正解だったな。めっちゃ綺麗じゃん、これ」


「宗教美術って、様式の違いが面白いね」


 シノンが、レリーフに手を伸ばす。

 触れはしないけれど、まるで何かを確かめるように。


「このレリーフの幾何学模様、明らかに数学的な意味が込められてる。信仰対象が違うせいで、デザインの根本的な設計思想まで変わってるみたいだ」


「……なんか今日のおまえ、マジで学者っぽいな」


「これが本物の観光だよ」


 シノンが、珍しく笑った。


「楽しまないと損だからね」


 その横顔は、穏やかだった。

 光が、シノンの輪郭を柔らかく縁取っている。

 こいつがこんな表情をするなんて——俺は少しだけ、意外に思った。


「お! このレリーフ、勇者召喚っぽくないか?」


 視線を移すと、そこには——

 幾何学模様の魔法陣の上に立つ、人物のレリーフ。

 俺の胸が、ざわついた。


「僕らが召喚された魔法陣に、似てるね」


 シノンの声が、静かに響く。


「神からの授かりものってことになっているみたいだ」

 授かりもの。

 その言葉が、妙に引っかかる。

 俺は、レリーフをじっと見つめた。幾何学模様。ルーン文字。

 魔力の流れを示す線——全てが、あの日の記憶と重なる。


 王国の神殿。突然開いた魔法陣。吸い込まれるような感覚。


 そして——この世界。


 「神からの授かりもの、か……」


 呟く。その言葉は、石造りの空間に吸い込まれて消えた。

 シノンは何も言わない。ただ、レリーフを見つめている。

 その横顔は、もう穏やかじゃなかった。何かを考えている——そんな表情。


 天窓から差し込む光が、レリーフの彫りの深さを際立たせている。影が、溝に沈む。

 まるで——この召喚という行為の、光と影を映し出しているかのように。


 俺はふと、背後に何かを感じた。

 振り返る。

 だけど——誰もいない。

 ただ、どこかで視線が絡みついているような、嫌な気配だけが残った。


 *


 大聖堂の重い扉が、静かに閉まる。

 境内には朝の陽射しが差し込んで、石畳の上に俺たちの長い影を落としていた。

 二人は言葉もなく、静かにその場を後にした。


 影が、後を追う。

 俺たちは気づかない。

 ただ前へ進む。

 光の中を、影を引きずりながら——



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