第2話 満ち足りた日常

訓練場の空気が、ぴりりと張り詰めている。


トレバーは術式陣の前に立ち、掌に魔力を集めた。薄い光が指先に宿り、ゆっくりと形を変えていく。


「いい。そのまま、形を保て」


指導員の声が落ちる。トレバーは呼吸を整え、意識を集中する。


魔力は、思考に従う。形を想像すれば形になり、流れを望めば流れる。けれど制御を誤れば、すぐに霧散してしまう。


光が安定した。指導員が短く頷く。


「よくできた。1週間でここまで到達するのは、稀だ」


トレバーの胸に、静かな喜びが広がった。


実験成功から、3週間が過ぎていた。


毎日、研究局で訓練を受ける。魔力感知、制御、術式展開——基礎から順に、丁寧に教えられた。トレバーの上達は目覚ましく、研究員たちも驚いていた。


「俄には信じ難いが、君の魔力制御は1級魔導師に匹敵する精度だ」


局長がそう言ったとき、トレバーは信じられなかった。


1級魔導師——それは、王国でも数十人しかいない最高位の魔術師だ。


「本当ですか?」


「データは嘘をつかない。君の器官は、再構築によって最適化されている。生まれついての魔導師よりも、効率的に魔力を扱えるのだろう」


局長は書類を閉じ、真っ直ぐトレバーを見た。


「我々は、君に正式な協力を依頼したい。魔導具の制御実験、新術式の調整——君の力が必要だ」


トレバーは一瞬だけ迷い、すぐに頷いた。


「喜んで」


研究局の正式協力者——それは名誉であり、報酬も約束されていた。



実験は順調に進んだ。


トレバーは魔導具の制御精度を測る実験で、既存の記録を次々と更新した。新術式の調整では、わずかな魔力の乱れを感知し、的確に修正する。


研究員たちの目が、変わっていった。


「すごいな、トレバー」


「これほどの逸材が、魔盲だったとは」


「実験は大成功だ」


称賛の声が、トレバーを包む。


施設での日々とは、まるで違う世界だった。ここでは、トレバーは必要とされている。個人として認められている。自分自身に価値がある。


そして、ある日——


「トレバー、騎士団への随伴任務を受けてほしい」


局長が告げた。


「随伴任務……ですか?」


「魔導防衛隊の一員として、実戦討伐に参加してもらう。君の魔力制御は、戦場でも役立つはずだ」


トレバーの胸が高鳴った。


それはこれまでとは違う、命がかかる場所だ。

けれど、怖さよりも期待が勝った。


「わかりました。やらせてください」


局長は満足げに笑った。



王都近郊。夕刻の街道に、魔物の群れが押し寄せていた。


黒い影が地を這い、牙を剥く。街を目指して進む魔物たち——その数は50を超える。


「防衛線を張れ! 市民の避難を最優先だ!」


騎士団長が怒鳴る。騎士たちが剣を抜き、魔導師たちが術式を展開する。


トレバーは後方で膝をつき、地面に手を当てた。


「結界展開——『防護障壁アーマーシールド』」


魔力が地を走り、薄い光の膜が立ち上がる。街の入口を覆う巨大な結界——それは、魔物の突進を受け止めた。


「よし! 結界が持ってる!」


「今のうちに攻勢を!」


騎士たちが前へ出る。魔導師たちが術式を放ち、魔物を薙ぎ払う。


トレバーは結界を維持しながら、周囲の魔導師たちの術式を補助した。魔力の流れを整え、威力を増幅させる。魔導師たちの術が、より鋭く、強くなる。


「これは……! 魔力が安定している!」


「術式補助か! すごい精度だ!」


戦場の空気が、変わった。


魔物の群れが崩れ、数が減っていく。結界は一度も破られず、街への被害はゼロ。


日が沈むころには、すべての魔物が倒されていた。



戦いが終わり、騎士団長がトレバーの肩を叩いた。


「助かった。君の結界と術式補助がなければ、被害は甚大だった」


「いえ、俺はただ——」


「謙遜するな。君は多くの人を救ったんだ」


周囲の騎士や魔導師たちも、トレバーに礼を言う。笑顔で、敬意を込めて。


トレバーの胸に、熱いものが込み上げた。


これが——これが、力を持つということ。


人を救い、認められ、感謝される。

施設での日々とは、何もかもが違う。


帰路、トレバーは夕焼けを見上げた。空が赤く染まり、雲がゆっくりと流れていく。

この景色も、以前とは違って見える。


すべてが、輝いて見える。



数日後。トレバーは支援施設を訪れた。


力の安定を確認した帰り道、ふと足が向いた。久しぶりに、仲間たちの顔が見たくなったのだ。


施設の門をくぐると、見覚えのある光景が広がっていた。


裏手の倉庫から、荷を運ぶ人々。2人がかりで木箱を担ぎ、ゆっくりと進む。汗を拭い、息を整え、また歩き出す。


トレバーは立ち止まって息を呑む。

——これは、自分がやっていたことだ。

魔力を使わず、原始的な肉体作業。時間をかけて、少しずつ運ぶ。


周囲を歩く人々は、魔導具を使って軽々と荷を運んでいる。その差は、あまりにも大きい。


トレバーの胸に、奇妙な感情が湧いた——自分は、こう見えていたのか。遅く、非効率で、哀れに。


「トレバー!」


声がして、振り向く。ルークだった。


「久しぶりだな! 元気か?」


「ああ、元気だ」


ルークは笑顔で駆け寄ってくる。その姿が——トレバーには、どこか滑稽に見えた。


魔力もなく、ただ走るだけの姿。


「お前、すごいらしいな。騎士団と一緒に戦ったって聞いたぞ」


「……まあ、少しだけ」


「すごいよ! 俺も訓練を続けてるんだ。いつかお前みたいになりたい」


ルークの目は、純粋に輝いている。けれど、トレバーにはその輝きが——まぶしすぎて、直視できなかった。


「頑張れよ」


短く返し、トレバーは施設の中へ入った。


食堂では、仲間たちが夕食の準備をしていた。簡素な料理、木の食器、そして笑い声。

施設長が気づき、声をかけてくる。


「トレバー。久しぶりだな。調子はどうだ?」


「……まぁいい方です」


「そうか。皆、お前のことを誇りに思ってるぞ」


施設長は優しく笑う。けれど、トレバーはその笑顔を——素直に受け取れなかった。


誇り?何の誇りだ。

自分は、もうここにはいない。ここは、俺の過去だ。


仲間の1人が、トレバーに話しかけてきた。


「なあ、トレバー。実戦ってどんな感じだった? 怖かったか?」


対等な口調。親しげな態度。

トレバーの中で、何かが弾けた。


「……お前らには、わからないだろうな」


「え?」


「戦場がどれだけ過酷か。どれだけの魔力制御が必要か。お前らには、一生わからない」


空気が、凍りついた。

仲間たちが、驚いた顔でトレバーを見る。

施設長が一歩前に出た。


「トレバー、落ち着け——」


「俺はお前らとは違う!」


トレバーの声が周囲に響く。


「俺は力を得た。魔力を操り、人を救い、認められた。お前らは——お前らは、ここで一生、荷物を運び続けるだけだ!」


「トレバー……!」


ルークが声を震わせる。


トレバーは踵を返し、扉へ向かった。背中に刺さる視線を、無視して。


施設を出る。冷たい夜風が、頬を撫でた。

胸の奥が、ざわざわする。

——何を言ったんだ、自分は。


けれど、後悔よりも——羞恥が勝った。

自分が、あの中にいたという事実。

あの遅く、哀れな姿が、自分だったという事実。


トレバーは歩き出した。もう、振り返らない。



数日後。局長から呼び出しがあった。


「トレバー、王城へ同行してもらう」


「王城……ですか?」


「研究成果の発表だ。君は、その成果そのものだ。貴族や魔導師たちの前で、君の力を見せてほしい」


トレバーの胸が高鳴った。

王城——それは、王国の頂点。

そこで認められれば、自分の価値はさらに上がる。


「わかりました」


翌日。トレバーは局長とともに、王城の門をくぐった。


白い石壁、金の装飾、巨大な魔導具。すべてが輝き、威厳を放っている。


広間に通されると、そこには貴族や魔導師たちが集まっていた。華やかな衣装、高価な装飾品、洗練された立ち振る舞い。


局長が壇上に立ち、発表を始めた。


「本日は、魔力障害克服実験の成果をご報告いたします。こちらが、実験の成功例——トレバーです」


トレバーが前に出る。


貴族たちの視線が、一斉に注がれた。

けれどその目は、敬意ではなかった。

好奇心。値踏み。そして、憐憫。


「ほう。魔盲が、魔力を得たと」


「興味深い。では、術式を見せてもらおうか」


トレバーは言われるまま、術式を展開した。光が広がり、精密な制御を見せる。


拍手が起こる。けれど、それはトレバーへの称賛ではなかった。


「素晴らしい研究成果だ」


「局長の功績だな」


「実験体としては、申し分ない」


トレバーの胸が、冷えた。

実験体——自分は、人ではない。成果だ。展示品だ。


貴族の1人が、トレバーに近づいてきた。


「君、名前は?」


「……トレバーです」


「そうか。で、君は今後どうするつもりだ? 研究局に残るのか?」


「それは——」


「まあ、他に行き場もないだろうがね」


笑いながら、貴族は離れていく。

トレバーは拳を握った。爪が掌に食い込む。

周囲の会話が、耳に入る。


「魔盲が力を得ても、所詮は実験の産物だ」


「真の魔導師とは、格が違う」


「まあ、研究の役には立つだろう」


トレバーの視界が、白く霞んだ。

胸の奥で、何かが音を立てて崩れていく。


——違う。

俺は、こんなふうに見られるために、力を得たんじゃない。

対等に、いや、それ以上に認められるために。


「トレバー、大丈夫か?」


局長が声をかけてくる。けれど、その目にも——トレバーは気づいてしまった。


局長は、トレバーを見ていない。

研究成果を見ている。


「……失礼します」


トレバーは広間を飛び出した。廊下を走り、王城を抜ける。

夜の街に出る。冷たい風が、汗を冷やした。

胸が苦しい——ここにも、居場所はない。


トレバーは歩き出した。王都の外へ、遠くへ。



辺境都市に辿り着いたのは、数日後だった。


小さな街。冒険者たちの集まるギルドがある。

トレバーは冒険者として登録し、依頼を受け始めた。


魔物討伐、護衛、魔導具の調整——どれも、トレバーには容易だった。優れた魔力制御で、次々と依頼をこなす。


「新人なのに、すごい腕だな」


「魔力制御が上位冒険者と遜色ない」


「どこで修行したんだ?」


称賛の声が、再びトレバーを包む。

ここでなら、ここでなら認められる。

トレバーは小さく笑った。


新しい場所で、新しい自分を作る。

過去は、もういらない。


夜。宿の窓から、星空を見上げる。

輝く星々が、トレバーを照らしていた。

けれど、その光はどこか冷たかった。

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