血に染まる街ー被験体086ー

唯野岳

第1話

◇◇◇


白く、果てしなく続くかのような空間。

床も壁も天井も、継ぎ目ひとつない無機質な部屋。

窓はなく、外の光は差し込まない。

それでも照明は明るすぎるほどに明るく、影さえ落ちない。


(これは、夢だ…)


十人ほどの子どもたちが、皆同じ灰色の衣服を着て並んでいる。

誰も名前で呼ばれない。呼ばれるのは番号だけ。

幼い「俺」も、その一人だった。


皆に隠れて、『力』使う。

掌に、冷たい感触が生まれる。

自らの血を操作し形作った、小さな輪。

絵本の挿絵で見た指輪とは、程遠く、あまりにも歪。

それでも、間違いなく「俺」が作ったものだった。

——あの子のために。


「……これ、あげる」

幼い「俺」は、その不格好な指輪を少女の手に押しつけた。


少女は一瞬きょとんとしたが、すぐに小さく笑った。

「ありがとう。すごく大事にするね」


(夢のはずなのに……胸を締めつけるこの感覚は――なんだ?)



◇◇◇


「ハルト!ハルト!おい、起きろ!」


目の前に端正な顔立ちの少年――唯一の幼馴染のケイが必死に身をかがめて立っている。


「…何だ、ケイか…」

まだ夢の余韡でぼんやりしている頭で呟く。


「いつまで寝ぼけてる!“トガビト”の襲撃だ!東門が突破された!」

ケイの声に、胸の奥が一瞬で冷たく引き締まる。


――トガビト。常に黒い影を纏った人型の異形。影に触れるだけで傷を負い、神に関わる施設や人間を執拗に狙う。多くの町が奴らに壊滅させられた。


俺はすぐに立ち上がった。手には無意識のうちに刀が握られている。


「状況は?」

ケイと並走しながら、俺は短く尋ねる。


「敵は3体。そのうち2体は武器を持ってないが、東門を素手で破壊するほどの怪力の持ち主らしい。残り1体の詳細は不明。衛兵では歯が立たない」

ケイの声に、俺は頷く。


「奴らはどこに向かってる?」


「…北西方向だ」


東門から北西に進むと、この街「ラース」唯一の教会がある。今の時間、子どもたちが礼拝している筈だ。一刻を争う。


「能力を使う」

俺の言葉にケイが一瞬詰まる。


「…ハルトの能力は燃費が悪い。あまり無茶をするなよ」


「あぁ、分かってる…『血躯活性』」

瞬間、全身の血液が意志に応じて流れを増す。血躯活性は、血液を操作する能力。血が全身を駆け巡る感覚――呼吸一つで、視界の端の砂粒さえ見えるようだった。


俺はケイを遥か後方に置き去りにし、教会へ全力疾走する。教会が見えてくると同時に、教会へ向かう3体のトガビトが視界に入った。


(良かった。間に合った)


さらにスピードを上げ、数十メートルの距離を一瞬で詰める。一番近くにいた1体を狙い、高速移動の勢いのまま刀を振るう。そこには、技量も何もない。ただ単に圧倒的な速さが、トガビト固有の硬い防御を容易く貫通し、一撃でその命を奪う。


(1体目)


仲間の死によって、近くにいた身長2mほどの大柄なトガビトが、ようやくこちらの存在に気付く。奴は雄叫びを上げながら、その剛腕を振るう。


(そのまま受ければ、間違いなく背骨粉砕の即死コース。出し惜しみはなしだ!)


血躯活性による血液の循環速度を更に上げる。

酷い頭痛がするが、痛みを無理矢理意識から締め出す。


スローモーションのように見えるトガビトの剛腕を、最小限の身体の捻りで躱すと同時に、防御が薄い肘関節を狙い、切り落とす。

切断された腕を押さえて蹲るトガビト。ガラ空きになったその首を刎ねる。


(これで2体目)

 

俺は小柄な最後の1体と向き合う。

もう能力の限界であり、激しい頭痛と耳鳴りで立っているのもやっとである。

しかし、ここでやられるわけにはいかない。

時間を稼げれば、後はケイが何とかしてくれるはずである。

刀を鞘に納め、居合の構えを取る。完全にハッタリであるが、相手から見れば、必殺の一撃を狙っているように見えるだろう。


睨み合いは続く。


しかし、トガビトは一向に襲ってこない。

影を纏うその身体が小刻みに震え、何かを訴えかけるように大声で吠え続けている。


(なぜだ?なぜ奴は襲ってこない?)


「ハルト!無事か!?」

ケイの声が響く。

(良かった。やっと追いついてくれたか…)

安堵すると同時に、虚勢で保っていた意識が急速に遠のく。

その瞬間…


『ハチジュウロクバン』

これは…

トガビトの…声…?


………


……





◇◇◇



白く、果てしなく続くかのような空間。

床も壁も天井も、継ぎ目ひとつない無機質な部屋。

窓はなく、外の光は差し込まない。

それでも照明は明るすぎるほどに明るく、影さえ落ちない。


(これは、夢だ…)


女の子が幼い俺に近づいてくる。

「初めましてだね。私は“サヤ”」

「…??」

「あ、そうか、名前って分からないか。被験体038番だから、サヤって名乗ってるの。だってその方がカワイイでしょ?」

「…」

「あなたは?そう、被験体086番なのね。ハチロク…ハロク…ハロ…ハル…ハルト…。うん、あなたは今日から“ハルト”にしましょう。その方がカワイイし。よろしくね!ハルト!」

「…!」


記憶にないはずの情景が、なぜか胸の奥を締め付けるように懐かしい。



◇◇◇



目が覚める。いつもと変わらない天井。

変わらない部屋。

身体のどこにも不調がないことに一旦安堵するが、すぐに先の先頭のことを思い出す。

気がかりなのは、意識を失う寸前に聞こえたドガビトの「86番」という言葉。そして、さっきの夢。


俺はハルトであって、86番ではない…はず…

幼い日の記憶ははっきりある。

ケイとともに、この街で育ってきた。

ケイと一緒に教会の女神像に落書きし、司祭に酷く怒られ、一週間トイレ掃除をさせられた記憶もある。

夢の中で出てくるような、あんな無機質な空間は、少なくともこの街にはない。


「一人で考えていても仕方がないか」

そう呟いたとき、扉が軋む音とともに、ケイが入ってきた。


「……やっと目を覚ましたか。まったく、3日も眠り続けるとは。まるで眠り姫だな」

軽口を叩いてはいるが、その目の奥にある疲労は隠しきれていない。


「ここまで運んでくれたのは、お前か」

「ああ。お前があのまま倒れてたら、衛兵たちが混乱してただろう。後は、教会のガキどもが助けてくれたお礼と言って、看病してくれてたぜ」

ケイは椅子を引き寄せ、俺の傍らに腰を下ろす。


「……ありがとう」

そう言いかけて、ふと口を閉じた。

どうしてもあの夢の光景が頭から離れない。

胸の奥にざらりとした違和感が広がる。


「どうした?顔色が悪いな」

ケイが覗き込む。

「……いや、何でもない。ただ、少し妙な夢を見ただけだ」

「お前がいつも話す女の子の夢か?」

「いや、ちょっと違っていて…」


俺は、夢で聞いた「86番」と、あの女の子のことをケイに話した。


「夢なんて大抵、現実と繋がってない。気にするな」

ケイの表情が少し硬くなる。


「それより状況だ。奴らの攻勢が強まっている。北門、東門と押されている。司祭様は戦える者を全部集めるつもりだ」


「……防衛戦か」


「そうだ。ハルト、俺たちは中央施設の防衛だ。そこが落ちれば街は終わる」

ケイは真剣に言い、ポケットから小さな瓶を取り出す。

「まだ本調子じゃないだろ。いつもの薬だ。今はこれ飲んで寝とけ」

「あぁ。いつもありがとう。ケイ」

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