光り、音、匂い、手ざわりなどがしばしば対となる受容器官を越境している。光りが耳朶を搏ち、音が視覚にうったえかけ、匂いが触れる前のものの手ざわりを修飾し、その逆もまた然りである。あるいは、主体的に越境しているのは音なのかも知れない。多弁を須いない「私」や「父」とのあいだに置かれた沈黙は、通常人間には聴こえないきわめて低い閾値においてさんざめいている物たちの声を、相対的に聴こえやすくさせ、巨大にする。謂わば、物たちの騒々しい声が、光り、音、匂い、手ざわりにそのつど変換されて諸方へと拡散し、人間の受容器官を刺貫いている。その声を直接聴きとれない実情を反映して、かくも頻繁に音が主体的に対となる受容器官を越境しているのかも知れない。
母は先日亡くなったのか。たしかなことは、父がすでに別の女性とのあいだに別の家庭をもっていることである。別れ別れになってしまった父、母、子を模したゴム製の指人形を――昔それでよく遊んだ指人形を喫茶店で父から渡される。家のかたちが保たれていた頃の、団欒にほてったような少し間の抜けた表情を、人形たちは当時のままに浮かべていた。それが「私」のポケットのなかで、だんだん、だんだん、冷たくなってゆく。
乾いてはいるが、「私」がたわむれに指に冠し、あるいは「私」の指のほうから逃げ込んでくるたびに、指人形は「私」の体温を奪いとるかわりに、ひとつの臓器のように蠢動しはじめ、よみがえった。しかし、「父」の新しい家族の子、「私」によく似た義理のきょうだいが、ふいに「私」の膝の上にのってきた。その頭髪や、幼児特有の何やら酸っぱいような体臭が、ずっしりと重苦しい生の質量を、膝からじかに伝えて来たとき、「私」は三体の指人形を
「…おもちゃ、だよ」
と言ってしまう。ゴム製のそれらが、もはや指にもろくも崩れるあの昆虫の標本のように乾いていることは決定的となった。観念的な手続きによってか、斎場にてこれから荼毘に附されようとする母の柩のなかに、三体の指人形をもいっしょにおさめて、一縷の煙となってのぼってゆくのを「私」は見送っているように思われる。