魔眼の少女に(が)人たらしが(に)恋を教える
lilylibrary
第1話 保護色のひと
昼下がりの教室は、透明な水槽のようだった。
光が窓ガラスを透過し、黒板の粉塵がその中でゆっくり漂っている。
誰もが声を立てて笑い、机の間を自由に泳いでいく。
けれど、その一角だけは静止していた。
短く切り揃えた黒髪は自己防衛の証。
黒縁メガネは、視線を遮る盾。
姿勢は常に半歩後ろ。声は小さく、存在は薄く。
彼女の制服はまるでカーテンのように光を拒んでいる。
放課後のチャイムが鳴っても、彼女は動かない。
人の波が引くまで、机の上のペンを何度も並べ替える。
「今日も見られずに終われた」——それが日々の目標だった。
---
その静かな日常に、ひとりの少女が割り込んだ。
「ねえ、それ、意識してやってるの?」
その声は軽く、まるで風がカーテンをめくるようだった。
振り向けば、そこに凛花がいた。
制服の第一ボタンを外し、光を吸う髪がゆるく跳ねている。
笑っているのに、目の奥は驚くほど澄んでいた。
“見透かす”というより、“受け止める”視線。
「……何を、ですか」
「その“存在消しモード”。保護色ってやつ?」
心臓が一瞬、音を忘れた。
どうして彼女は、それを見抜くのだろう。
「いえ、そんな……ただ、静かにしてるだけで」
「うん、そういうところ。静かすぎて逆に目立つんだよね。」
その少女、
光が彼女の輪郭を淡く縁取っていた。
その輝きに、綾女はまぶしさを覚える。
まるで、自分の世界に太陽が差し込んだみたいだった。
---
「……あなたは、怖くないんですか」
綾女がようやく搾り出した言葉は、震えていた。
凛花は小首を傾げる。
「怖い? 何が?」
「……わたしの目。見た人は、みんな……おかしくなる。」
沈黙が落ちた。
だが凛花の表情は、微動だにしない。
まるでその告白を、既に知っていたかのようだった。
「ふうん。じゃあさ、試してみる?」
綾女の肩が跳ねた。
「えっ……?」
「私、割と平気かも。ほら、ちょっとだけ見て。」
「ダメ!」
思わず立ち上がる。
机が軋む音が教室に響き、残っていた数人の生徒が振り返る。
その視線だけで、綾女は全身が凍りついた。
凛花は慌てずに手を上げ、
「ごめんごめん、冗談冗談」と笑って見せた。
彼女の笑いは、水面を波立てずに光を揺らすような優しさがあった。
その場の空気が、再び静かに戻る。
---
ふたりきりになった教室。
窓の外では、部活帰りの声が遠くに響く。
光が傾き、教室の隅に影が伸びる。
凛花が静かに言った。
「……ねえ、あやめちゃん。」
「……え?」
「わたしにはね、人の“気配の形”が見えるの。」
「気配……の、形?」
「うん。たとえば、怒ってる人はトゲトゲしてて、
悲しい人は霞みみたいに輪郭が溶ける。
あやめちゃんのはね——壁。」
「……壁?」
「厚くて、でも透けてる。向こうに誰かいそうなのに、誰も入れない。」
綾女は息を止めた。
初めて会った人間が、心の中をそのまま描いたような比喩を口にする。
怖い。でも、否定できなかった。
「だから、ちょっと触ってみたいと思ったんだ。」
凛花の声はやわらかい。
けれど、綾女にはそれが刃物のように鋭く感じられた。
胸の奥がざわめく。
触られたくないのに、触れられたい。
矛盾が同時に走る。
「……やめてください。」
「うん。やめる。」
凛花はすぐに笑って言った。
そのあっけなさが、逆に綾女を困惑させる。
「え?」
「だって、怖いんでしょ? だったら無理させたくない。
でも、わたしは教室の中で誰よりも、
“あやめちゃんが静かに生きようとしてること”を見てたよ。」
「……見てた?」
「うん。昼の光に反射してた。
黒縁メガネの奥の、ほんの一瞬のまばたき。
それがね、“生きてます”って言ってた。」
その言葉が胸に沈んだ瞬間、
綾女の頬に、何か温かいものが伝った。
涙だった。自分でも気づかないうちに。
---
凛花はポケットからハンカチを取り出す。
淡い黄色、角に刺繍で小さな太陽。
差し出しかけて、途中で止めた。
「……自分で拭ける?」
綾女はゆっくり頷き、震える指で受け取る。
その布の感触は、柔らかいのにどこか力強い。
手のひらの温度が、心臓まで伝わってくるようだった。
「……ありがとう。」
「どういたしまして。」
その短いやりとりの中に、
見えない“信号”のようなものが走った。
綾女の胸の奥で、
何かが、ほんの少しだけ動いた。
---
帰り際、廊下の向こうで凛花が振り返った。
「明日、いっしょにお昼食べよう。」
「……わたし、誰かと食べるの、得意じゃないです。」
「じゃあ練習しよ。
最初は“となりに座る”だけでいい。
わたし、喋らないから。」
「……ほんとに?」
「うん。約束。
あやめちゃんが人を怖がらないようになるまで、
隣にいる。」
夕日がその横顔を赤く染めた。
凛花の瞳の奥に映る光は、
ただまっすぐで、怖いほど綺麗だった。
綾女は小さく息を吸い、
消え入りそうな声で答えた。
「……わかりました。」
その瞬間、彼女の世界にひとつ、
“色”が差した。
水槽の中に、初めて光が揺れた。
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