翠玉の祈り
すみす
第1話
春の霞がまだ王城を包む頃、玉座の間にひび割れた翠玉が静かに横たわっていた。
かつてこの翠玉は「記憶の宝玉」と呼ばれ、王国の民すべての幸福を映す神聖な宝とされた。けれどその日、突如として光が暴走し、民の心から愛も、家族の顔さえも奪ってしまった。
王女・玲花は、民の混乱の中でひとり膝を折り、翠玉に手を伸ばした。
「……なぜ、こんなことに」
答えはない。けれど、彼女の傍らに立つ青年――従者の迅の胸が、小さく震えた。
その夜、玲花は決意する。
「この翠玉を直す。民の記憶を取り戻さねば」
迅は深く頭を垂れ、静かに言った。
「俺も、お供いたします」
ふたりは禁断の地――東の山の頂にある神殿へ向かった。そこは翠玉の生まれた地であり、怪物が棲むと伝えられる場所だった。
霧の中に浮かぶ朱色の楼閣、風に揺れる瑠璃の灯。
石段を登るごとに、玲花の記憶の奥底で、なにか温かいものがかすかに揺れた。
――どうして、あなたの声がこんなにも懐かしいの?
神殿の最奥、翠玉の残片が淡く光る祭壇の前で、迅は静かに口を開いた。
「姫……翠玉が壊れたのは、俺のせいです」
玲花は息をのむ。
「……どういうこと?」
迅は自嘲の笑みを浮かべた。
「俺は、翠玉に願った。『どうか、姫とずっと一緒にいられますように』と。その代償に……民の記憶が奪われたのです」
玲花の頬に涙が伝う。
「そんな……あなたは、わたしを想って……」
「愚かな願いです。愛など、身分の違いを越えてはならないのに」
迅は翠玉の欠片を両手で包み込み、祈るように力を込めた。
翠の光が一気に広がり、空を満たす。
王国全土に、失われた記憶が雪のように舞い戻っていった。
夜の静寂。
玲花は崩れ落ちた翠玉の前に膝をつく。
迅は立ち上がり、穏やかな声で言った。
「翠玉は壊れました。これで、民は救われます。ですが……俺は、この国を混乱に陥れた重罪人として、追放されるでしょう」
玲花は首を振り、彼に駆け寄る。
「行かないで! あなたがいなければ、私は――」
迅は微笑んで、彼女の髪をそっと撫でた。
「姫、どうか約束を。いつか立派な女王になられたその時、俺にもう一度、会いに来てください」
東の空が白み始める。
夜明けの光が、彼の背中を金色に染めた。
玲花は震える声で呼びかけた。
「約束よ、迅。必ず……必ず会いに行くわ!」
風が吹き抜け、花びらが舞う。
迅の姿は霧の向こうへ消えた。
その日、王都では一晩中、記憶を取り戻した民が歓喜の祭を開いた。
けれど玲花は静かな寝台の上で、ひとり翠玉の欠片を抱きしめていた。
夢のようなその光は、まだ彼女の胸の奥で、優しく瞬いていた
翠玉の祈り すみす @shait
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