第19話 誰かが見てる面白い人
皿の山は、意外と悪くない相手だった。
ニコットは袖をまくり、腰の鈴を指でつまんで黙らせると、井戸水に手を浸した。
集落の小屋。食後の片づけを、赤毛の少女が鼻歌まじりにこなしている。
「よし、今日もやるかー!」
木皿を泡の中でこするニコットの顔には、得意げな笑みが浮かんでいる。
これは数日前、ルナリアが担っていた役目だった。しかし旅立ちの前、彼女は小さく微笑んで言ったのだ。
「あなたに任せますね。――きっと、あなたは皆を元気にできますから」
ルナリアは、涼しげな眼、冷ややかな声音で、少し近寄りがたい印象を与える。けれど、不意に見せる笑顔は驚くほど柔らかくて――その温かさを一度知ってしまえば、冷たささえ安心の裏返しのように思えてしまう。
彼女の代わりにやると思えば、泡立つ水面さえ少し誇らしい。
――そのとき、不意に声が飛んできた。
「ニコちーん! ひっさしぶり~! 私のこと覚えてるぅ?」
金の髪、黒の装束。あの酒場の女が、柱の影に立っていた。
「あーーっ!!」
仰天したニコットは、泡まみれの皿を盛大に落とした。
女はひょいと皿を拾い上げて、にこっと笑う。
「ちょっと~落としちゃダメじゃん! ほら、返すね。ありがと、覚えててくれてマジ感激!」
「な、なんでここに……」ニコットは目をぱちぱちさせる。
「それがさぁ……ニコちんの親分に、大事な話。」
口調は軽いのに、その一言だけ、妙に重たかった。
皿を両端を掴んだまま、ニコットとサラは瞬きもせず、見つめ合う。
胸の奥が、ひやりと冷える。急ぎの、大事な話だ――そう感じた。
「……わかった。こっち!」
泡だらけの手も拭かずに、ニコットは小屋へ駆け出した。
金髪の女を伴い、扉を押し開けて叫ぶ。
「親分、大事な話がある!」
その声に、話し声が止まった。
振り向いた全員の視線が、一斉にニコットに集まる。
セレヴィスだけが短く頷いた。
――親分の頷きが合図になった。
紹介の言葉を乗せようと口を開き、振り返る――
けれど、そこにいたサラはもう、さっきの人ではなかった。
明るい笑顔も、軽い声も消えている。
金の髪の陰に、冷たい影が差していた。
空気の密度が、ひと呼吸で変わった。
ローランドの指が柄にかかり、バルドは眉をひそめ、ポルンは無言で立つ。
エドランの目は鋭く、セレヴィスだけが穏やかに頷いた。
サラは、影の衣を纏ったかのように、セレヴィスの前に膝をついた。
さっきまでの笑顔が、まるで仮面のように剥がれ落ちたのを、ニコットは見た。息が詰まる
「まずは挨拶を。私はサラ」
深い闇を纏ったまま、彼女は顔を上げ、セレヴィスを見上げた。
「――殿下、あなたに目と耳をお貸しします」
セレヴィスしばし沈黙した。
静かに、視線が全員の顔を一度ずつなぞる。
その目は、ニコットのほうをかすめた。
見られた瞬間、背筋が自然に伸びた。
親分は口の端だけを持ち上げた。
「面白いことを言う」
彼は、卓に置かれた指先で、とん――と一度だけ、乾いた音を立てる。
目の前で膝をつく女の、その冷たい瞳を真っ直ぐに見据えて。
「だが心配には及ばぬ。私には目も耳もある」
その場に、なんとも言えない沈黙が落ちた。
(そうじゃないよ!)ニコットは叫びたい衝動を抑えた。
エドランがこめかみを抑え、ローランドが親分に耳打ちをしているのが見えた。
サラは視線を落とし、一拍置いて、ふっと目を細めた。
「――なるほど。噂どおり“面白い人”ね」
セレヴィスは咳ばらいして姿勢を正す。
「続けよ」
「はい」サラは真顔に切り替えた。
「火急の件につき、要点だけを。――まず、
皆が頷く。
その声の重なりが、妙に遠く聞こえた。
ニコットの耳の奥で、どくん、と心臓の音が重なる。
「屍兵に噛まれて死んだ者は、やがて自らも屍兵になります」
サラの声は淡々として、温度がない。
だが、ニコットの背筋が泡立つ。
あの夜の暗闇に浮かぶ白い眼、爪に残った黒い汚れが蘇る。
そして、大切な言葉が刻まれたペンダントも。
「屍兵には命令を下せる指揮官、“
みんなの顔が強張る。
それは、ただの魔物の群れではなく、明確な意志を持つ「軍隊」だとニコットは分かった。
手のひらに、汗がじわりと滲む。
「そして――」
サラは短く息を継いだ。
「エリオリア軍は王都を奪ったあと、進軍を止めています。けれど、兵を集め続けている。
マリディア女大公は、この地を“獲って終わり”にするつもりはありません」
その静かな断言が、小屋の空気をさらに沈ませた。
ローランドの拳が音もなく握られる。
「けっ、そうなるわな」バルドが吐き捨てるように言った。
だが、影のような女の話はまだ終っていなかった。
「ドルメア南部の諸侯が集まり、『南ドルメア』を名乗りました。そして、南ドルメアは、女大公に使者を派遣したとのことです」
その瞬間、室内の温度が変わった。
エドランが椅子を鳴らし、立ち上がる。
「なんだと!」
彼の声が、小屋の壁を震わせた。
「王家への忠義を捨てて勝手に南ドルメアとは何事だ? まさか南部の諸侯は、従属を申し出るつもりか!?」
サラは顔を上げ、エドランと目を合わせた。
返事をしない。
けれど、その沈黙がすべてを肯定していた。
ニコットは息を呑んだ。
言葉の意味までは分からない。
けれど、みんなの表情だけで“とんでもないこと”だと分かった。
空気が、重い鉄みたいに肌に貼りつく。
「……こいつの話は信じられるのかい?」
バルドが唸る。
続けて、エドランが目を細めた。
「有力な情報だが、なぜお前が知る? そしてなぜ我らに告げる?」
影を纏う女は、さらに深い影を纏いながら静かに答えた。
「私は、かつてセレヴィス殿下の次兄――カネゴリス殿の諜報員でした」
その名が落ちた瞬間、小屋の空気が揺れた。
誰かが短く息を呑む。
けれど、親分だけは動じない。
まるで、初めからその答えを知っていたかのように。
沈黙を保っていた親分が、ようやく口を開いた。
「なるほど。……それだけ聞ければ十分だ」
口の端がゆっくりと上がる。
その笑みには、冷たさと熱が同居していた。
「そして、あなたが今、誰の命を受けて動いていたとしてもよかろう。
利用できるものは、利用するまでだ」
ニコットは思わず息を詰めた。
あの優しい眼が、一瞬だけ鋭く光った気がした。
親分の笑みが、こんなふうに見えるのは初めてだった。
サラはその眼差しを受け止め、再び深く頭を垂れる。
その胸の奥で、何かを呟いたように見えたが、声は聞こえない。
ただ、唇がわずかに動く。
――やはり、面白い人だ。
けれど、その微笑はすぐ影に溶け、声が低く落ちた。
「――殿下、最後にもう一つ」
「まだあるの!?」
思わず、ニコットが悲鳴のような声を上げる。
「私が今日、殿下の下に訪れた理由です。――エリオリアに雇われ、この近辺に向かう傭兵団があります。
その数、十数名。言うまでもなく、狙いは、あなた方です」
「なに……!」ローランドが声を漏らす。
「我々の存在を察したというのか?」エドランが問う。
「先日、あなた方の誰かがエリオリアの将校と接触したはずですよ。
その報告を受け、王都駐留軍の指揮官が判断したようです」
ニコットの心臓がひときわ大きく鳴った。
視線を巡らせた親分の目が、ローランドのほうで止まる。
「……先日、ローランドからエリオリアの士官を見かけたと聞いていたが……こちらも見つかっていたということか」
「……申し訳ございません……」
若き騎士が言葉を詰まらせる。
その横顔を見つめながら、ニコットは手の中の鈴をそっと押さえた。
――ローランドはそんな顔、しなくていい。
すっと一歩前に出て、口を開いた。
「あー、あいつらがエリオリアの人だったの? 変な奴らでさあ、大地が丸いとか、住民の救助がんばって、とか言ってた。意味わかんなかったね」
一瞬の沈黙。けれど確かに場の空気は揺らいだ。
金髪の華奢な女は、纏っていた影を瞬時に脱ぎ捨て、立ち上がると、一同を見渡した。
「どちらにせよ、敵は動いています。あなた方だけなら、逃げるのは容易だと思いますが、そのおつもりはないのでしょう?」
「さあな」バルドがセレヴィスに視線を送ると、若き王子は深く頷いた。
ニコットは、その頷きで空気の向きが変わったのを感じた。
――敵の目が、こっちを向いている。
「……しかしながら、我々に対して十数名の傭兵とは……」
エドランは腕を組みながら言葉を選ぶように続けた。
「……少々謙虚すぎますな」
老騎士のその言葉に、笑いもため息も生まれなかった。
沈黙の中で、ニコットはそっと親分を見た。
セレヴィスも、ちょうど同じタイミングでこちらを向く。
目が合った。
短い一瞬――けれど、それだけで十分だった。
あの人は、もう迷っていない。
胸の奥で、鈴が小さく鳴った気がした。
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