扶桑再現
頗梨
弥生
第1話 月のない夜
痛い。
痛い。
頭が、痛い。
奇妙な夢がガラスのように砕け散った。東雲太一は、野球バットで殴られたかのような衝撃に襲われた――いや、鈍い刃で生きた頭を切り裂かれる感覚に近い、と言い直す。
目を開けたい。体を起こしたい。頭が割れそうだ。……だが動けない。体が、動かない。
なんだこの悪夢は? これは明晰夢じゃないのか? どうしてまだ目が覚めない?
俺はうつ伏せで寝ているのか? 心臓が圧迫されている? それにしても、このベッド……硬すぎる。
「早く……起きろ……」
冷たい、感情のない声が頭の内側に響いた。
起きたいさ。明日――いや、もう今日か。開校初日だ。市内でも名の通った私立。初日から病人みたいな顔で行きたくはない。
「まだ、起きないのか!」
同じ声がもう一度、今度は焦りを含んで響いた。直後、雷鳴のような鐘の音が落ちる。
「ゴォォォォン……!」
その音に呼応するように、体の重さがふっと抜けた。眉間に温いものが灯り、それが波紋のように広がっていく。
鐘の余韻に合わせて温もりは全身へ行き渡り、ようやく目が開いた。
視界はまだぼやけている。だが、淡い光が差し、ここが鐘楼の下だと分かった。耳のすぐそばで水が小さく揺れ、鐘の音に驚いた生き物が散る気配。世界がひと呼吸、息を潜めているような静けさ。
「……何が、あった?」
太一は柱を支えに体を起こし、顔をこする。指先にまとわりつく、覚えのある粘り。
「……血?」
手のひらに、生々しい赤がべったりとついている。
何が起きているのか分からないまま、水面を覗き込む。
東雲寺の鐘楼には、他の寺院と違う点が二つある。ひとつは、土台が平地ではなく池であること。もうひとつは、材質が判別できないほど錆びついた古い鐘が吊られていること。
水面には自分の顔。だが、その顔は鮮血に汚れ、口元から耳の方へと裂けたような恐ろしい跡が浮かんでいた。
――――――
「大特価――!」「今すぐ会員になって――!」「特別ご招待!」
さっきまでおばあさんたちと争って手に入れた50%オフの牛豚肉を袋に詰め、時計を見ると、すでに二一時を回っていた。
仕方ない。太一はできるだけ安く済ませるため、閉店直前を狙って半額の肉を買うのを日課にしている。ここは家から遠いが、バイト代で電車賃が出るので、結局お得だ。
店内のモニターが切り替わる。
「新型コロナの感染が拡大しています。外出時はマスクと手洗いの徹底を――」
「珍しいスーパームーンが春に出現。ただ最近の濃霧のため、都内では観測困難――」
「大人気の霊能者! 一ヶ月で憑依十件を解決!」
……
『学食が安いなら、夕飯だけ自炊。冷凍して一週間分……』
改札を抜ける。春の少し冷たい風。周囲の雑多な声が耳に引っかかる。
「聞いたか? また学校で噂が広がってるって」
「どうせ、あの退屈な連中の作り話だろ」
このスーパーは駅に近くて便利、割引は強烈。人も多く、噂や情報が飛び交う。
生きている実感がある。
「キャアアア!」
突然の悲鳴。改札側だ。太一は肉の袋を持ち直し、声の方向へ視線だけ送る。走らない。人の流れを乱さず、しかし早足で近づく。
甘い鉄の匂いが、一気に鼻腔へ満ちた。
改札口のそばで、女性たちが怯えたように固まっている。その傍らには、顔中血だらけの男性が倒れていた。駅員が残った人々を落ち着かせながら、倒れた男に応急処置を施す。警官も駆けつけ、事情を聞き始めた。
太一は一歩引き、群衆の肩に軽く触れて通路を示す。
「押さないで。通路、空けて」
短く、低い声。駅員と目が合い、救急要請の確認を視線で交わす。
「私、わかんない……整形しちゃった! 私が悪いんです!」
女が突然叫び、その場で崩れ落ちた。場がざわめき、群衆がパニックになりかけるが、副官の女性警察官がすぐに割って入り、落ち着いた口調で指示を飛ばした。
やがて、もう一人の女性が震える声で語り始める。
「彼氏と一緒に改札を通ったら、マスクの女の人に呼び止められて……『私、きれい?』って。彼氏が少し私を見てから『きれいだ』って答えたら、その人、ゆっくりマスクを外して……顔が、昔の私と全く同じで……」
彼女はその光景を思い出し、呼吸が荒くなる。
「私、驚いて叫びました。彼氏も呆然としてて……そしたら、その女が『きれいなら、なぜ私に整形手術を受けるように頼んだの?』って叫んで、彼氏に飛びかかってきて――」
「裂け女! 裂け女だ! あの女、口がすごく裂けていて……」
女は突然、椅子から立ち上がり、髪を握りしめて歩き回る。
「ハサミで夫の口をこじ開けて……そのまま舌を切り落としたんです!」
場が凍りつく。警官はすぐに彼女をなだめ、他の女性たちにも確認を取った。
人々は騒ぎに引き寄せられて一時的に集まったが、犯行の瞬間を見た者はほとんどいない。女性がひどく驚いただけだ――そう受け止める空気が広がる。ほどなく警察官が増員されて場は安定し、職員が現場を封鎖して清掃に入った。
ここにいても収穫はない。太一はホームへ戻り、車両の端――見通しの利く位置に乗り込む。
『裂け女が彼らの姿で現れて、夫たちを襲った……そう言いたいのか』
『似た手口がすでに複数。人目とカメラの前で? 伝承とは違うやり口だ』
さっき耳にした噂を反芻しながら、太一は好奇心を抑えきれず、何が真実か思考を巡らせた。
――鋭い光。視界の端で刃が振れた。
思考より先に体が動く。
前へ。低く。ロール。
どこからか、刃物が擦れるような細い音がした。
気のせいか……何もない。電車の音だけ。
突然、車内の灯りがすべて落ちた。
闇。
闇の中、誰かの息だけが近すぎた気がした。
蜘蛛の巣に触れた獲物のような、粘つく気配。太一は動かない。呼吸だけを数え、隣の車両から漏れるわずかな灯りで輪郭を確かめる。
何も起きないまま、次の駅に到着した。原因が分からないまま、電力は復旧した。何事もなかったかのように。
そうして、太一は目的の駅へ着いた。
『こんなにあっさり終わるのか? 整形も頼んでないし、誰かをけしかけた覚えもない。裂け女がなぜ俺を――』
買った肉を提げ、周囲に注意を払いながら慎重に駅を出る。
『あれだけのことがあったせいか、体が妙に重い。荷物はたいしたことないのに、全身の力が抜ける感じだ。帰ったら、さっさと休もう……』
太一は気づかなかった。道行く人々が、恐怖の目つきで彼から距離を取っていることに。ショーウィンドウに映る自分の姿にも――そこでは、口元がゆっくりと裂けはじめ、顎を伝う血が無言のまま滴り落ちていた。
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