ブラインド・パイロット

六塔掌月

前篇

そのホテルにはすべてがそろっていた。


ホテルはまるで広大なショッピングモールを内に収めたように、レストラン街やアパレル、家電量販店や映画館などを有していた。たとえばあるフロアは丸ごとがスポーツジムで、そのすぐ上のフロアが屋内プールになっていた。植物園や結婚式場になっているフロアさえあった。ホテルは二十階までが外来の客を受け入れる商業施設になっており、そこから上の階が宿泊客が泊まる部屋と、彼らだけが利用できる施設になっていた。最上階は四十五階だった。


私はエレベーターから降りて、二十一階にあるホテルのロビーに足を踏み入れた。透明感のある大理石の床と気持ちのよい高い天井が私を出迎えてくれた。進むと左手は浅く水が張ってあるスペースで、柱の高いところから水が絶えず静かに降りてきていた。奥にあるカフェの入り口には、両脇に真っ黒な木製のフレームとガラスで造られた瀟洒なケースが置かれており、中にはブランド物のバッグや財布が展示されていた。


私はフロントへいき、スーツ姿のホテルのスタッフに声をかけた。すでにインターネットで予約済みであることを告げると、従業員はコンピューターで予約情報を確認した。私は彼の提示した宿泊カードに記入をおこなった。


ルームキーを受け取り、二十一階から上へいくためのエレベーターに移った。私は三十二階で降りた。


与えられた客室に入ると、全身から緊張が抜けていくのがわかった。私は自死を企図きとしており、その舞台に選んだのがこのホテルだった。フロント係からルームキーを手渡されるとき、私はひょっとしたら自分の計画が相手に露見するのではないか、手と手が触れてそこから心を読まれるのではないかと疑った。


でも実際にはそれは起こらなかった。後は前もって入手していた屋上への鍵が使えるかどうかを試すだけだった。私はキャリーケースをベッドのそばに寄せると、客室の外に出て、ふたたびエレベーターに向かった。


四十五階へ向かう。


四十五階の廊下は三十二階と特に何も変わらなかった。白い壁と天井はささやかな明かりのみで照らされており、意識を厚いマントで覆ってくれるようなほどよい暗さがあった。足元のカーペットの柔らかさもその感覚を後押ししていた。私は前もって教えられていた道順を進んでいった。


突き当りに灰色の扉があった。私は鼓動が高鳴るのを感じた。灰色の扉は客室の扉と比べると高級ホテルに似つかわしくない無骨な面をしていた。


私は周囲を見渡して人がいないことを確認すると、懐から鍵を取り出してドアノブの穴に挿した。奥まで入れて回す。


カチリ、と音が鳴った。私はドアノブに手をかけて回し、力を入れて扉を押した。


開いた。その先に半歩踏み出すと、さらに上へと昇っていく階段があった。間違いなかった。ここから屋上へと昇れるのだ。


私はそれを確認すると扉を閉め、鍵をしめた。今はまだ死ななくていい。今はまだその時ではない。私はエレベーターに戻り、三十二階の客室へと帰った。


客室は広々としていて全体的にシックな色調だった。足元のカーペットはグレーで、ベッドのヘッドボードは高く伸びて壁を覆い、木目調だった。奥の窓からは高層階からの優雅な景色が望める。私はダブルベッドの上に身を横たえると、夕食までの間眠った。


◆◇◆◇◆


ホテルは宿泊客のためにさまざまな会を主催していた。ダンスパーティや屋内プールを貸し切っておこなう交流会などである。目的もなしに長く逗留とうりゅうする富裕層の客が多いのだ。


そのような会のひとつに私は参加することにした。二十二階にある広間で小規模な音楽の鑑賞会が開かれるというので、出席することにしたのだ。出席者はポップスかロックの曲目を事前にいくつかホテル側にメールで送っておくという手筈になっていた。


鑑賞会はテーブルの上にコーヒーや菓子を並べて行われる、家庭的な雰囲気のものだった。参加者は全部で七名で、ホテルのスタッフがトールボーイ・スピーカーをもちいて大きな音量で音楽を鳴らした。二三曲を再生し終えるたびに我々参加者は感想を言い合った。


「優美な歌だね。何だかあれだな。天気のいい日に木に登って、そこで聞きたい曲だね。空でも眺めながら」


青く染めたベリーショートの髪の女性が、私の依頼した曲を聴いたあとにそう言った。アナザ・スカイの「フェル・イン・ウィズ・ザ・シティ」。私のお気に入りの曲だ。私はその発言をきっかけに彼女に注目した。屈託のない笑顔。低い、かすれた声のもつ温かみ。成人男性なみに背が高く、肩幅も広かった。名前は確か、最初の自己紹介のときに冬子ふゆこと名乗っていたはずだ。


冬子がテーブルの上の緑色のマカロンを手に取ろうとしたとき、私は思わず彼女の手に自分の手を重ねていた。相手ははっとして手を引っ込めた。私は何でもないと言って謝ったが、冬子はその接触で私のことを意識したようだった。他の人の依頼した曲が流れている間も、冬子が時折こちらをちらりと見てくるのがわかった。


しばらくして冬子の依頼した曲が流れた。ホテルのスタッフが冬子の名を呼んで曲を再生し始めたので、それとわかった。流れ出したのは七十年代の懐かしいロックだった。ニール・ヤングの「ヘルプレス」。私は「これ好きよ」と冬子に笑顔で呼びかけた。すると彼女ははにかんでうなずいた。そのときの視線や表情の機微きびを通じて、私はあることをさとった。私と冬子はある意味においては同じ方角を向いている女なのではないだろうか。


鑑賞会が終わり、ホテルのスタッフによって解散が宣言された。私は広間を出たところで、思い切って冬子を自分の部屋に誘った。


「自己紹介のこと、覚えている? 私は麻里まり。三十代の女で、ここには休みに来ている。何だかあなたのことが気になっちゃったのよ」


「いいの? 会ったばかりなのに。それに私は礼儀知らずだし。さっきの私はあなたの曲に対して変なコメントをしてしまった気がする」


私は笑って「いいのよ」と言い、彼女の腕に自分の手を絡ませた。エレベーターまで引っ張って自分の階に連れて行く。かごの中に二人きりになったので私は甘えるように頭を冬子の肩にあずけた。冬子は初めは戸惑っていたが、すぐにまんざらでもなさそうな顔を見せた。その様子を見て私は確信した。おそらく冬子にも私と同じ志向が備わっているのだ。


我々は客室に入った。ベッドの上に隣り合って座り、しばらく話す。会話がやむと我々は自然とよりそい、唇を重ねあっていた。


最初は気恥ずかしそうにしていた冬子もすぐに積極的になり、彼女の舌はそれ自体が独立したひとつの生き物のように私の口の中をせわしく駆けめぐった。我々はからだの至るところを吸い合い、擦り合わせた。ベッドの上に転がり、裸で行為にはげむ。我々はからだの深いところから官能のみつを汲み出し、夢中になってそれを味わった。


「女の人とするのって今日が初めてなんだ」


事が終わったあとに冬子がそう言った。その割には堂々としていたし、素敵だったわよ、と私が言うと、彼女は笑顔を見せた。


「麻里さんがそう言ってくれてよかった」


やがて冬子は自分自身について語り始めた。二十七歳。会社が大量の解雇を実施し、自分もその対象になったこと。やけになって彼氏と遊ぶためにホテルにやってきたが、一日目で喧嘩別れに至り、手持ち無沙汰でいたこと。そうしたことだ。


私が自分の年齢を告げると冬子はとてもそうは見えないと驚いていた。三十九歳。ほとんど二十代半ばに見えると冬子は言ってくれたので、私はお礼にその頬にキスをした。


「ありがとう。でも色々しているのよ。美容整形の手術とか。若く見られることが有利な職業だったから」


冬子は感心して言った。


「麻里さんみたいな美しい人でも働いたりするんだね」


それはお世辞でもなんでもなく、心から出た率直な言葉のように耳に響いたので、私は思わず吹き出してしまった。


「そうよ。人は働かないといけない。でもしばらくはこの余暇を楽しみましょうね」


私と冬子は抱き合って眠りについた。


それから我々は連日顔を合わせ、二人で過ごすようになった。一緒にプールへ行って泳ぎ、映画館で映画を観て、カフェでケーキをつつきながら話をした。我々は打ち解け、どんなことでも気兼ねなく話せるようになった。


我々が初めて顔をあわせてから五日後のことだ。私と冬子は客室でベッドの上に寝そべりながら音楽を聴いて過ごしていた。このホテルの客室にはどの部屋にもスピーカーが設置されていて、客は自由にスマートフォンから接続して音楽を再生できた。


私は再生中の曲を止めて冬子に呼びかけた。


「『とりで』という小説を知っている?」


冬子が首を横に振ったので、私はその小説の筋を説明することにした。


「『砦』は前世紀半ばに書かれたアメリカ文学のひとつ。所属部隊の自分以外の者がみな戦死してしまい、左足を負傷した兵士が、近くの砦まで避難しようとする話よ。どの時代、どの戦争の話なのかは明示されていないけれど、たぶん第一次世界大戦あたりの感じね。ひょっとすると南北戦争かもしれない。まあ、細部は重要でないの。


ともかく兵士は助けを求めて、遠くに見える砦に向かって足を引きずりながら歩く。彼は道中でくりかえし障害にうわ。たとえば敵兵が近くにあらわれる。彼は伏せて、息をひそめて敵兵が通り過ぎるのを待つ。しかし敵兵たちはそこに腰を下ろして休憩を取り始めてしまうの。そこで負傷兵は伏せながら移動し、遠回りをして砦へ向かおうとするのね」


冬子は相槌あいづちをうちながら話を聞いていた。


「なんとか敵兵からは逃れられたけど、彼はむしろ砦からは遠ざかってしまった。それでもめげずに当初想定した道とは別のルートから砦へ接近する。あと二日歩けばいける、というところで彼は砦の斥候せっこうと思われる騎馬兵に出会うわ。


そこで彼は親切にも馬に乗せてもらうのだけど、その斥候兵は仕事をまっとうするために遠い丘に向かっていき、そこから砦に引き返すプランを取るのね。でも不運なことに、丘にある森から現れた猪に馬がぶつかって、斥候兵は落馬して死んでしまうのよ。馬も驚いて逃げ出してしまう。だから負傷兵はむしろ砦から遠くに運ばれた場所へ投げ出されてしまうの」


「それじゃ、まるで無駄骨だ」


冬子の発言に私は答えた。


「そうよ。男は気が遠くなるほどそうした障害に数多く出会い、接近と後退をくりかえしながら砦へ向かう。気がつけば歳月は何年も過ぎ、もはや戦争が継続されているかどうかも定かではなくなってしまった。そういう状況下でも男は鉄の意志で進み続け、ついに砦にたどり着くの」


冬子は話の顛末てんまつを期待して私に目を向けた。


「けれどもね、そこに置いてあったのは、実は高さや幅が何十メートルにもなる巨大な鏡だったのよ。味方の軍が敵をあざむくために置いた鏡。それに写った、むしろ逆方向にあるはずの砦の像に向けて、彼は今まで歩いていたのよ」


「そんなの可哀相かわいそうだ」


冬子は気落ちした声音でそう言った。私は微笑みながら続きを話す。


「それでもね、男はあきらめないの。鏡に背を向けて、その場から見える本物の砦に向かってまた突き進む。その場面で小説は終わっているわ」


「でも、その男ははたして本当に砦にたどり着けるのだろうか。また同じような障害に出会って、もしかすると永遠に砦にはたどり着けないのではないだろうか。どうも私にはそんな気がするよ」


冬子がそう疑念を示した。私はうなずき、彼女の手を取った。


「そうかもしれない。実は私はこの手の物語が好きでね。いろいろ集めているのよ」


「なんだか不毛だよ」


私はそう言う冬子の顔に接近した。その口を自分の口でふさぐ。するとすぐに冬子のスイッチが入った。彼女は一心に私の舌と唇を味わい、首に舌をわせ、からだに触れた。お互い服を脱ぎ、裸をさらけ出す。それからあとは単純だった。我々は心ゆくまで交わり、熱い息を吐き、達するまで愛し合った。


事が終わり、我々は並んで仰向けになって眠りについた。私は満足していた。自分たちは相性がいいな、と思う。どんな些細なことでも話し合えるし、相手の話を聞くことができる。甘えることも、甘えさせることもできる。


それでも私の心にある死への希求はやむことがなかった。「死ぬ」とすでに決めているからこそ今の平安があるのだ。そういう思いがした。


眠ることは気分がいいと思う。特に情事の後に気だるい疲れを覚えながら意識を落とすのは心地がよい。自死をはっきりと決心してからは、以前よく見ていた悪夢を経験しなくなった。それもまた眠りが快適である理由のひとつだった。


目が覚めた。時刻は午後一時だった。私は隣の冬子を起こして昼食に出かけることにした。


我々は十六階にあるイタリア料理店に入り、同じシーフードのスパゲッティを食べた。オイルベースでアサリとたいの身が入っていた。


またフロアを移り、昼間から開いているバーに入った。カウンターの端に座り、バーテンダーに酒を注文する。今のところ自分たち以外に客は見られなかった。


「麻里さん。私はもともとゲームやエンターテイメントのソフトを作ることが望みだったんだよ」


冬子はシャンディ・ガフを飲みながら自身の叶えられなかった夢について語った。


――私は中学生の時からプログラミングを勉強していたし、その種のソフトをいくつか作ってインターネット上に公開したこともある。でも高校生に上がったころから次第に歯車がみ合わなくなってきた。面白いことへの関心は薄れていき、私は徐々に実務的な人間に変わっていった。大学で自らの手を動かして作ったものは授業の課題だけ。大学には才能にあふれた多くの人たちがいて、私は彼らにはまったくかなわなかった。


――それでも私は必要なだけの勉強はやってのけ、資格も取り、無事に外資系の有名なIT会社に採用された。エンタープライズ向けのソフトウェアを開発する大手だ。ただし、そこでも仕事に対しては義務以上の興味を覚えることはいっさいなかった。自分はその変化を悲しく思う。まあ、結局解雇になったから、あまり考え込んでも仕方ないことではあるのだけれど。


私は言った。


「残念ね。ただ、そういうものよ。夢ってなかなか叶うものじゃない。障害と出会う以前に、そもそも自分の夢自体が変わってしまうことだってある」


私は新しく出されたカンパリ・スプリッツを一口飲んで、言った。


「私も似たようなものよ。研究したいことがあって大学に入ったけれど、すぐに嫌になってしまった。それで大学を中退して、色んな職を転々としながら今まで生きてきたの」


そこで会話がやんだ。沈黙が場に降りる。その沈黙は決して不快なものではなく、ゆったりと自分自身の中に沈潜ちんせんできる種類のものだった。


私は自分の過去について思いを馳せた。


二年前に私はナーシングホームに入っている母を訪ねていた。それが生きている母を見た最後の機会だった。そのとき彼女はちょうど昼寝をしていた。老いたしわだらけの顔を無防備にさらし、あんぐりと口を開いて眠っている肉親の姿を私は発見した。


私は個室の椅子に座り、その顔を眺めながら、自分の母親というものについて考えた。天才的な脳科学研究者であると同時にAIの開発者として革新的な論文を書いたひとりの女について考えた。


母は十四歳のときにアメリカの一流大学に迎え入れられた。そこから熱心に研究にうちこみ、人の脳はただの機械と同じであり、意識のいっさいは素朴な物理的現象に過ぎず、魂というに値するものはどこにも存在しないということを証明してみせた。その証明の過程で解明された脳の組織の構造のさまざまな真実は、AIの発展に寄与したのである。その分野の人間なら彼女の名前を知らない者はいないと言えるぐらいだ。


母は二十四歳のときにそのような論文を発表したあと、すぐに研究生活を引退し、知り合った男と燃えるような大恋愛をして、二十五歳で結婚してみせた。幸せだったのだろう。彼女がその後に一冊だけ出版したエッセイ集からは交際当時の思い出がうかがえる。


母は本の中でこう言っていた。「私の知性は二十四歳において最高峰に達したのであり、あとは下降していくばかりだった。これ以上我が身を研究に捧げても、努力に応じた成果が得られるとは思えない。私の人生はすでに次の段階に移ったのだ。すなわち個人的な愛に生きる段階である」


母は夫とくりかえし愛し合い、七人の子供をもうけた。しかしそこから徐々に彼女の内部にはかつての知的好奇心がよみがえってきた。母は心の複雑なメカニズムについてより多くのことを知りたいという純粋な科学者的精神から、七人の子供に対してそれぞれに異なる対応をしてみせたのである。


すなわち四人の子供は愛し、三人の子供は愛さなかった。愛した四人の内、二人には高等な教育を施し、二人には最低の教育しか施さなかった。そしてこれら四人の子供の交友関係を裏から巧みに操作し、二つのグループそれぞれについて、片方を異性愛者にし、もう一方を同性愛者にした。


愛さなかった三人の子供については一人を徹底的に無視し、一人にこれでもかというほど暴力を振るい、最後の一人、末子については――私については――七人の内で最も優れた教育を施したものの、最も冷たく、過酷に当たった。彼女はこのような実験を夫に秘密裏に進めて、七人の性格がどのように変化するかを詳細に観察したのである。


そういういきさつが過去にあった。


私がぼんやりと古い記憶に思考をただよわせていると、冬子がゲームセンターに行こうと言い出した。私も乗り気になったので、席を立ち、会計を済ませて店を出た。


十五階はアミューズメントのフロアで、映画館やゲームセンターがあった。エレベーターの扉が開くと、ゲームの筐体きょうたいが鳴らす賑やかな音が聞こえてきた。


目立つところに八台横に並んだカーレースの筐体があったから、我々は並んでそこに座り、小銭を入れてゲームを開始した。映像はアニメ調のグラフィックではなく、車の表面の塗装とそうのざらついた所まで分かりそうな、リアル寄りのグラフィックだった。レースが始まり、最初のラップで冬子の車は猛スピードでコーナーに進入し、障害物に衝突してひっくり返っていた。私はそれを見て笑い転げたが、自分もゴール寸前に真正面の車に激突し、炎上してしまった。冬子はそれを見てにやりとしていた。


次に我々はガン・シューティングのゲームをやった。銃を模したコントローラーで並みいるゾンビを撃ち抜いていくやつである。二人まで一緒に遊ぶことができた。ゾンビの頭を撃ち抜くと一発で倒せるのだが、それ以外の部位だと倒すのに時間がかかる。


私は最初頭ばかり狙って撃ち損じたので、結局胴体狙いでゾンビどもを倒していった。画面は自動で移動していくので、プレーヤーはともかく画面上に現れるゾンビを撃っていけばいい。これはなかなか楽しかった。かなりの臨場感とスリルがある。冬子はあさっての方向ばかり撃っていたが、それでも最後にはクリアーして無事ビルを脱出できたので、我々は手を合わせて喜んだ。 


それからどこにでもあるクレーンゲームをやることにした。これは冬子が非常に上手で、私が金を無駄にしているのを尻目に、彼女はいくつもぬいぐるみを手に入れてきた。アニメや漫画のキャラクターのぬいぐるみだ。私は店員に言って紙袋を貰い受け、それに次々とぬいぐるみを放り込んでいった。


ふと辺りを見渡すと物欲しそうにこちらを見ている小さな女の子が目に映ったので、どれが欲しいのかを聞いてみた。私は好きな物を与えようと思ったのだが、女の子は話しかけられたことに怯えて、すぐに走り去って行った。


我々は疲れてきたので端のベンチに座って休憩した。


冬子が口を開いた。


「彼氏はね、私をつまらない女だと言ったんだ」


私はその話に耳を傾けた。


「口調はきびきびとしているし明るいけれど、そのように見えるだけで、実は内部には何もない。深い所が何もない、背の高い骸骨のような女だって言っていた」


私は冬子の腰に手を当てて体を寄せた。


「そんなことないわよ。その人は見る目がないだけ。あなたにも芯はあるわ。それも温かくてしっかりとした芯が」


「でも私には夢中になれるようなものが何もないんだ。もうずいぶん長い間そうしたものを失くしてきた気がする。いつも空疎な気持ちを抱えているよ。道を歩いていても、歌を聴いていても、本を読んでいても」


私はもうそれ以上何も言わなかった。ただ冬子が感じているであろう思いを自分も感じることに努めた。透明な悲しみ。光は通してくれる、でも手を出せば確かにそこにあると分かる、いつでも道を塞いでくる物体の悲しみ。ガラス細工の壁。すぐ前に目的地はあるとわかっているのに、どうしてもそこに到達することができない罠。


私は植物園に行くことを提案した。冬子はぼんやりとした顔をこちらに向けた。驚くべきことにこのホテルは屋内に植物園を丸ごと蔵しているのだ。


私は冬子の手を引っ張って立たせて、エレベーターに向かった。籠がやって来るのを待って乗り込み、十八階を押す。エレベーターの加速に伴って体がわずかに押し付けられる感覚がした。


ほどなくしてエレベーターは目的の階にたどり着き、扉が開いた。今まで入ったことのないフロアに足を踏み入れる。すると南国のような熱気と湿気が押し寄せてきて、我々は面食らった。


肺がその真新しい空気に慣れるのに時間がかかった。見上げると十八階は他の階よりも天井が高かった。エレベーターからすぐの所に駅の改札のような入口があり、どうやら宿泊客以外はそこで金を取られるようだった。入口まで歩いていき、我々は宿泊客であることを示すルームキーを係の者に見せて通過した。


入口から進んですぐの所にはチューリップのレッドエンペラーが大量に並んでいた。私と冬子はしばらくの間その赤色の見事な質量に見惚れていた。人間の作る色彩と違って、生きた花の赤色は生命力に富んでいた。彼らは多くのことを我々に語りかけてこようとしていたが、我々には植物が話す言語なんてわからない。それはまるで中身を永遠に覗けない封筒をもらっているようなものだった。それでも植物は親しい友達のように感じられたので、我々の心は渡された手紙の力で温められ、はげまされた。


さらに奥に進むと梅で占められた一角があった。遠目から見ると多くの白い花が咲き誇り、点々と赤色が混じっていた。そこには数多くの種類の梅が植えられているようだった。


近づいていくと、紅色べにいろ十二単じゅうにひとえを身にまとったような輝かしい花が目に映った。看板を確認してみると、楊貴妃ようきひという種らしい。楊貴妃の花は紅色の、波模様のついた球体のようにも見えた。枝にはその球体が数多く直線状に並んでいるのだが、それらはまるで、より美しいお姫様が姿をあらわすのを出迎えるために並んだ、よくしつけられた召使いたちのようにも見えた。豪華に着飾った主人と並んだときあまりにも貧相に見えぬよう、そのしもべたちもまた優れた服を与えられ、兵隊のように一直線に並ばされたのだろう。


「きれいだね」


冬子がそう言った。私もうなずく。


「これから毎年、ふたりで梅を見ましょうよ」


年ごとにさまざまな植物園に出かけていき、そこで梅の花を見るのだ。彼らから美しいとはいかなることかを学び、自分たちもそれに近づくためのヒントにすればいい。そうすれば中身のない骸骨になんて決してならないから。


私がそう語ると冬子もうなずいてくれた。


「そうだね。私もこれから毎年、麻里さんと生きていきたい」


◆◇◆◇◆

 

我々はそれぞれの客室を解約し、別の大きなひとつの部屋に移り住んだ。二人ともしばらくの間はこのホテルに逗留することで合意していた。料金はすべて私が払う。冬子は自分も金を出すとくりかえし主張したが、私は根気よく彼女を説き伏せ、最後には納得させた。


ある夜、冬子と情事を交わしてから眠ったあとで、私はひとり目を覚ました。冬子が目覚めぬようヘッドホンで音楽を聴く。裸のままカーテンを開き、窓から外の夜景を眺めた。ビルの窓の明かりやネオンサイン、車のヘッドライトが濃い闇を背景にして宝石のように輝き、夜の街の景色を浮かび上がらせた。


先日二人で植物園を訪ねたときのことを思い出す。「毎年梅を見る」とは何の冗談だろう、と自分で思う。数ヵ月後にはもう自分はこの地上を去るつもりなのだから。


それでも私は冬子をなだめたかった。自分の弱さを吐露した彼女を慰めたい。その気持ちは本当だった。ベッドに腰をかけ、裸で寝ている冬子の顔と腰をそっとなでる。


可愛い子だ。まっすぐで明るい気質の持ち主。それに健やかな肉体を備えている。冬子はパートナーとしては申し分のない存在だと言えた。


あるいはもっと早くに冬子と巡り合っていたなら、自分が死なずにいる世界もあり得たのだろうか?


私は過去を思い起こした。心の歯車が狂い始めた頃に返る。すなわち大学生になった時期だ。


結局、母の才能を受け継いだのは七人の子供の中では私だけだった。末っ子であり、もっとも優れた教育を受けた私は、母と同じ十四歳でアメリカの大学に進学し、母の研究を受け継いで発展させようと努力した。


しかしそれは上手く行かなかった。日々の暮らしは大学においてみるみる内に崩壊し、私はすでに大人の肉体をしていた男子学生たちとのセックスにおぼれたのだ。私は毎夜異なる寮の部屋を渡り歩いて過ごすことになった。ただしその場において男子学生たちは決して私を対等なガールフレンドとしては扱わなかった。私は彼らにとって、ただ精液を排出するための便宜的べんぎてきな道具にすぎなかった。それでも人から好かれる経験をまったくしてこなかった私にとっては、男から抱かれることは貴重な愛情を得るまたとない機会だったのだ。たとえその場限りの偽物にせものの愛情と言えども。


私は最終的に娼婦となって人生を送った。大学の男子学生や教授たちとの間に築き上げたコネクションを利用して多くの金持ちの客をとり、彼らから執拗しつようかつ官能的に精と財産を搾り取った。母はそれについては特に何も言わなかった。というより、私が大学に進んだときも、大学から放逐ほうちくされたときも、音信不通になったときも、娼婦として生活していくことになったときも、母は何も言わなかった。ただそれを実験の成果として受け取り、詳細に記録していっただけだ。


彼女は七人の子供それぞれに幼い頃から専属の探偵をつけて、その行動を二十四時間、三百六十五日記録していた。そこでは盗聴も盗撮もおこなわれた。母はおそらくそれで満足だったのだろう。すべては愛が、あるいは愛の不在が人の心にどのような影響を与えるかという科学的な実験であり、調査であったからだ。


私は首を横に振る。もし仮に冬子が自分と同い年であったとしても、巡り合ったところで私は彼女を目にも留めなかったろう。その頃の私は文字通り、男に溺れていた。彼らの肉欲を愛情と取り違え、堕落的な行為をくりかえしていた。同性の持つ優しさに気づけていなかった。


私はあるとき自分を尾行する存在に気がつき、裏世界の腕の立つ者に依頼してそれを捕まえ、母のたくらみをすべて吐かせた。それ以降は母も私に対して調査をすることはなくなった。


◆◇◆◇◆

 

ホテル側が読書会をもよおしたので、我々は参加することにした。課題図書はフランツ・カフカの「城」だった。私と冬子はふたたび二十二階の広間を訪ね、そこで参加者たちと意見を交換した。参加者は我々もふくめて全部で八名いた。時刻はまだ午前だった。


私は口を開いた。


「私はこの台詞が好きなのよね。宿屋のおかみさんの『どこへいこうと、あなたはここではいちばん無知な人間なのだということを、はっきり意識していて下さいよ』ってやつ。なぜって、昔学校で授業を受けた、高圧的だけど頭の禿げた、滑稽こっけいな教師を思い出すから」


参加者の一部が笑った。彼らはホテルのスタッフが用意したスコーンを割き、つまみながら議論に参加した。ある人が「なぜこんなに『城』の登場人物はよく眠るのか」と疑問を提示し、それについて活発な討論がおこなわれた。


二時間を過ぎたところで話の種も尽きたので、自然と会は解散になった。


我々が広間を出たところでひとりの女が声をかけてきた。四十過ぎに見える女で、眼鏡をかけていた。髪は整えられていない。服装も地味だった。参加者のひとりだった。


彼女は真剣な顔をして言った。


「ねえ。さっきあなたが指摘したのはとても大事な台詞だよ。まさに『城』の中核に迫る箇所だ」


私はうなずき、三人で別のフロアのカフェに移動して話そうと提案した。相手の女も冬子も了承した。


女はまるで自宅でひとりでくつろいでいるときのような格好をしていた。あか抜けない。人と目線をあわせるのが苦手なようで、おどおどしている印象を受ける。名前は静香しずかといった。


それでも彼女は話したいことはきっちりと口に出す人物だった。カフェに移動したのち、静香は「城」がいかに魅力的か、多くの謎を秘めているかを語ってくれた。それはなかなか堂に入った話ぶりで、私と冬子はきつけられた。


あなたはまるで小説家のように見える、と冬子が言うと、静香は若干落ち込んだ顔を見せた。


「まあ、たしかに私は作家ではあるよ。よくわかったね。でもほとんど崖っぷちにいる人間でね。次に出す本が最後のチャンスだと編集者からは言われているんだ」


どんな本を出すつもりなのかと私がたずねると、静香の顔がわずかに輝きだした。それは自分の考えている物語を開陳かいちんしてもいいのかと聞く者の目の光だった。


「話してちょうだい。時間はいくらでもあるのよ。私たちは退屈しているから」


私がそう言うと静香もにっこり微笑んで話し始めた。


「それは遥かな未来でくりひろげられるお話なんだ。題名は『バックシート・ドライバー』」


舞台は車輪都市という場所で、それは幅が十五キロメートル、奥行きが三十キロメートルにおよぶ菱形の巨大な機械で、いわば自走する都市である。車輪都市は焦土と化した北アメリカ大陸を驀進ばくしんしており、三十万人のひとびとがその上で暮らしている。彼らはほとんどが働かなくてもいい階層の者で、毎日、自動運転車に乗ってドライブを楽しみながら暮らしている。


「ねえ、もしも完全な自動運転が実現されたら、車はどう変わると思う?」


冬子がまず、ハンドルがなくなる、と言った。静香はうなずいて、その先をうながすように視線で私に問うた。


「運転席が要らなくなるんじゃないかしら?」


私がそう言うと静香は嬉しそうな声で返した。


「そうね。ではそうなると、つまり?」


我々はしばらく考え込んだ。


「わかった。いま我々が座っているカフェの座席のように、車内の前部のシートと後部のシートが向かい合わせになるんだ」


冬子がそう言うと、静香は我が意を得たりとばかりにうなずいた。


「きっとそれが主流になると私は思うのよ。そしてその際、人々はまず後部座席から優先的に座るようになる。なぜならそれが前時代の座り方と一致しているから。前に進むとき、慣性力がかかるのが背中で、それを支えるのが座席だから」


彼女はそこでいったん言葉を区切ると、テーブルの上に置かれたアイスティーを一口飲んだ。


「そして彼らは後部座席から、天井に置かれたマイクに向かってAIに音声で指示をする。あそこへ行け、ここへ行けってね。まあ、これが小説の題名の意味なのよ」


後部座席の運転手バックシート・ドライバー。我々が感心してうなずくと、静香は先を続けた。


「車輪都市の住民は乗り物が大好きなの。彼らはみな定期的に美容整形手術を受けていて、見た目が若い。そして男女はいつでも恋愛にふけっている。彼らのお決まりのデートは、ドライブよ。二人きりで車に入り、あちこちを走りながら車内で音楽を聴いたり、映画を見たり、あるいはカフェのドライブスルーで買ったフローズン・ドリンクを飲んだりする。


彼らは車に揺られながら外の風景を見るのも大好き。ねえ、それを描写した場面を朗読してもいいかしら?」


私と冬子はもちろん、と答えた。

 

静香はスマートフォンを開くと、何かしらのアプリを立ち上げ、画面を見ながら自作を朗読した。


「外に見える公園では少年たちが集まってサッカーボールを追いかけていた。隣にはバスケットボールのコートがあり、手足のすらりと長い少女たちがゴールめがけて放り投げられたボールのリバウンドを取ろうと飛び上がって、きれいな細い指を宙に掲げていた。


そこを通り過ぎるとひいらぎが通りにならんでおり、ぎざぎざの葉が見えた。


歩道には背の高い男女がジュースの缶を手に、談笑しながら歩いている。彼らの前を行き過ぎるとき、きらめく陽光が降り注いで、女の人の額にかかったわずかな汗の粒までが目に映ったが、それはかつて失われた小さな国でのみ流通していた貴重な硬貨のように輝いて見えた」


静香はちらりとスマートフォンから視線を上げてこちらを見たので、私と冬子はめたたえた。彼女は気をよくして自作の解説を続けた。


「小説の主人公はその車輪都市に住んでいる若い男。彼には決まった異性の恋人がいて、二人で穏やかな生活を送っている。でも彼はあることに怯えているの。それが〝リセット〟よ」


冬子が静香の目を見ると、彼女は解説を続けた。


「車輪都市では七年ごとに政府の手によって住民は記憶を喪失させられる。そして自分が希望した偽造記憶を植え付けられるのよ。それがリセット。男はこのリセットに怯えている。何か大切なものを失ってしまうんじゃないかと危惧している。


でも恋人の女性のほうは全然違うのね。彼女はむしろリセットを待ち望んでいる。そうしたら今とは違う新しい自分たちに生まれ変われるから。彼女はリセット後は囚人になることを希望していた。新しい記憶のもとでは女は高貴な生まれの者で、男はそれを護るボディガード。彼女の筋書きでは、男はある日、女を護るために殺人に手を染めてしまうの。そして二人は投獄されるのだけれど、男が女を助けた美談は世間に反響を巻き起こし、署名が集められ、二人は牢獄から解放されるというわけ。それが彼女の望んだリセット後の記憶の在り方よ。もちろんそれを男にも要望した。


男は女を愛していたから仕方なくそのシナリオを了承したけれど、不安になった。そうした華麗な物語をつくればつくるほど、自分たちは大切な部分をゆがめられてしまうのではないかと、彼は心配してしまう。


そしてあるとき男は、ひそかに車輪都市の政府に反旗をひるがえそうとしている老人と出会うの。彼らは結託し、政府が隠匿いんとくしている記憶操作の術について調べ始める。男は二十六歳だったからすでに何度かリセットを受けている。もちろん老人は数えきれないぐらいリセットを受けてきた。二人はリセット前の自分を知りたいと願い、政府が住民から奪い取った記憶を蓄積している、メモリー・バンクにハッキングをかけようとするの。


それは成功しそうだった。した。と思いきや、じつは彼らがハッキングをかけていた対象はおとりのサーバーだったのよ。彼らは失敗し、なんとか自分たちの痕跡を消したうえでサイバー空間から脱出する」


静香はまたアイスティーを飲もうとしたが、すでに飲み干していることに気がつき、ウェイターに再度同じものを注文した。水を一口飲む。


「男と老人はそれでもめげない。時間をおいてから再びハッキングをかけにいく。真のメモリー・バンクを見つけ出してね。今度は彼らはデータセンターの地理的位置を特定し、そこに物理的に侵入しようとするの。それは見事に成功し、彼らは自分たちの古い記憶が入ったブレードサーバーをラックから抜き取って持ち帰る。でも、それは罠だったのよ。


抜き取ってきたサーバーはじつはスパイウェアが入ったもので、拠点のネットワークに繋いだとたん、彼らは逆ハッキングを受けて警察に追われることになるの。それでもなんとか官憲の手を振り切り、彼らは活動を再開するわ」


彼女は運ばれてきたアイスティーに口をつけた。


「でもやっぱり駄目。何度くりかえしても彼らの試みは失敗する。やがて期限がやってきて、男は恋人とともにリセットを受け入れることを余儀なくされるの。


彼は最後にこう考える。はたして自分はリセットを越えてでもこの試みを続けるべきなのだろうか? 仕掛けをつくり、偽造記憶にこのハッキングを思い出すためのヒントを仕込むことはできる。でも、そうしたところで自分は幸せになれるだろうか? なぜ自分は素直に車輪都市での生活を楽しもうとしないのだろう? ここにはいくらでもきれいな服やおいしい食べ物がある。快適なドライブもあるし、すぐそばには美しい恋人がいて俺を愛してくれる。なんでもあるんだ。


自分はそうした車輪都市での生活が嫌いなのだろうか? 好きなのだろうか? 俺はこの女と一緒にいていいのだろうか? それとも別れるべきなのだろうか?」


静香は最後に言葉をつけくわえた。


「この場面で小説はおしまいよ」


◆◇◆◇◆

 

三人でプールに行こうという話になった。静香は水着を持っていなかったので、まずは水着を買いに、売り場のあるフロアへと移動することにした。


せっかくなので私と冬子も新しいものを買うことに決めた。とっかえひっかえ様々な物を試着する。ビキニ、ワンピース。私が何を着ても冬子は褒めたたえてくれたが、特に反応の良かった黒いビキニを買うことにした。胸のところにボリュームのあるフリルがついている。冬子は私のむき出しの腹や背を惚れ惚れとした目で眺めていた。そういう風に熱心に見つめられるのは悪い気分ではない。


冬子は黒いワンピースを購入した。肩に柄のあるフリルの袖がついていて、それが可愛いらしい。


静香はいつまでも迷っていた。そこで私と冬子はさまざまな水着を彼女に体に合わせてみた。それで決まったのが青色の涼しい柄が入ったワンピースである。静香は自信のない顔で「本当にこれが似合うのかしら」と言っていたので、我々は口をそろえて「ばっちりよ」と返した。


支払いをして二十階へと移動した。


更衣室で着替え、プール場に足を踏み入れる。湿った空気と塩素の匂いが押し寄せてきた。


そこでは数十人の若い男女が水着で遊んでいた。広い空間を確保してクロールで水を掻く精悍せいかんな男もいれば、大きな浮き輪の中心に腰を落として笑いながらたむろする女の子たちもいた。壁の一面がガラス窓になっているので日光がたっぷりと射し込んできていた。光を受けた水滴が青や赤や黄の水着の上を愉快に飛びまわるさまは、若い人たちの持つ生命力を輝かしく映し出していた。


我々もさっそくそこに加わった。平泳ぎで端から端まで移動する。お互いに水をかけあって笑った。浮き輪に収まった静香を私と冬子が後ろと前に分かれて押して進む。中世の馬車に乗り込んだ王女を丁重に運ぶ馬のように我々は静香をあちこちへと動かした。彼女は最後にはバランスを崩して自ら水に落っこちたので、我々は三人とも顔をほころばせた。


私はプールサイドに上がり、空いていた適当な椅子に座りこみ、横たわった。楽しいな、と思う。このまま死ぬことができたらどれだけ幸せだろう。最高の気分のまま意識だけをすっぱりと落とすのだ。そして死の扉をくぐる。


「ああ、自殺したいな」


私は気がつけばそう声に出していた。それを隣にいた冬子が聞きつけた。私は迂闊うかつなことをしてしまったな、と気がついた。


でも、もう遅い。


「どういうこと。麻里さん」


冬子は表情のない顔でそう問うてきた。私はすかさず上体を起こして冬子を見た。まずい。すぐに取り繕わなければ。冗談だと言うのだ。


しかし、できなかった。とっさに言葉が出てこない。その間はわずか数秒ではあったが、それで冬子はこちらが本気であることを察した。心と心が通じ合っていたことがあだになった。


「駄目だよ、麻里さん。死ぬだなんて。そんなことは駄目」


冬子は青い顔をしてこちらに身を寄せてきた。


「ただの冗談よ。安心してちょうだい」


だが冬子は納得しなかった。


「今のは本気だったよ。私にはわかる。そう言えば私は麻里さんのことを全然知らない」


「もうこの話題は出さないで」


私はそれだけ言うと立ち上がり、ひとりで更衣室に向かった。シャワーを浴び、着替えると、冬子たちを置き去りにして自室に戻った。


ベッドの上に転がり、布団をかぶる。なぜあんなことを口走ってしまったのだろうと後悔した。それは胸の内に秘めておかなければならない毒薬だった。こっそりと隠し持っておき、必要なときにさっと飲む。誰にも見られてはならない劇物。自死とはそういうものではなかったか。


しかし意外にもその後、冬子が自死について話を持ち出すことはなかった。部屋で合流した我々はふたたび融和ゆうわの時を過ごした。それで私は安堵あんどした。


私は次の日の朝には静香の部屋を訪ねていって、プールに置き去りにしたことを謝罪した。彼女は快く許してくれた。

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