煌めきの檻を抜けて
碧美
第1章:影の住人
1. 覚醒とノイズ
美咲の覚醒は、光によってではなく、完璧に管理された冷たいシグナルによって訪れる。
まず、深夜から稼働する空調システムが、室内の空気を清浄し続ける。その空気は、僅かにオゾン臭を帯びており、生命が持つべき土や風の匂いを一切排除している。
午前6時ちょうど。寝室の電動カーテンが、油圧式の静かな唸りを立てて自動で開く。窓外の光は、外装の反射板によって均一化され、柔らかながらもどこまでも人工的な、青白い光へと調整されていた。
美咲は、極細繊維のシーツから静かに身を起こした。シーツが皮膚から離れる際の微細な摩擦音が、耳朶に届く。その音は、美咲が昨夜、ストレスの極限でハイヒールの鋭い踵を振り下ろし、鏡台のガラスに刻んだ亀裂の音と混じり合い、魂の深部で痛みを伴うエコーのように反響した。
鏡台の分厚いガラスには、星の形をした小さな亀裂が走っている。それは、「完璧な美咲」という虚飾を維持する訓練の果てに生じた、制御不能な衝動の痕だった。
美咲は、その亀裂に指を触れた。冷たいガラスの感触の下に、わずかな凹凸がある。その瞬間、美咲の麻痺していた五感の奥から、忘れていた「匂い」の記憶が、一気に噴き出してきた。
美咲は、バスルームで顔を洗う。水は、体温と同じ、ぬるい感触で、肌に何の変化も与えない。鏡に映る顔は、生気の薄い大理石の彫刻のようだ。
この高層マンションの半分は、美咲の居住空間。残りの半分は、彼女の活動を支えるための専用スタジオと設備で占められている。大体の撮影はこの設備で全て完結される。
この二つの領域は、重厚な防音扉と、空気の質まで変える厳密な空調システムによって、完全に分離されている。プライベート空間には「生活」の匂いすら排除され、スタジオ側には「仕事」の無機質な熱が満ちている。
午前6時半。本来ならば美咲がプライベート空間から防音扉を通り抜け、スタジオ側のメイク室に姿を現す時間だ。
スタジオ内のメイク室では、美咲の専属スタイリストのあや、とメイクアップアーティスト、まこと、そして美咲の日常生活のサポートと品質管理を担うマネージャーの野村は、すでにスタジオ側のメイク室でスタンバイしていた。彼らの周囲では、機材の設置音、コードを巻き取る摩擦音がスタジオ全体に満ちている。皆、プロフェッショナルとして、完璧なルーティンを刻んでいる。
しかし、午前6時40分。
美咲はまだ姿を見せない。
プロデューサーである氷室は、黒いスーツに身を包み、スタジオの影に立っていた。彼の表情は変わらないが、美咲が約束の時間に現れないことに、その眼差しに冷たい光が宿る。
氷室は、手元の端末で美咲のバイタルデータを確認していた野村に、視線だけで指示を出した。
「野村。様子を見てこい。時間が惜しい」
氷室の声は、周囲のノイズを全て押し殺す、低く、しかし絶対的な圧力を含んでいた。
野村は、「承知いたしました」と一言で返し、静かに、しかし素早く防音扉の電子ロックを解除し、美咲のプライベートな空間へと踏み込んだ。
美咲のプライベート空間は、スタジオの人工的な熱とは対照的に、氷のような静寂に包まれていた。野村が歩く大理石の床は、彼の靴音を吸収し、その存在すら曖昧にする。
美咲は、昨夜着用していたドレスのポケットを、無意識に撫でた。そこには、柔らかな布の感触がある。氷室の「完全管理」のもと、ポケットは常に空であるべきだ。美咲の指先が摘まみ上げたのは、深い青色の布の切れ端だった。
美咲は、その小さな布の温もりを、冷たいガラスの亀裂と対比させながら、思考を巡らせる。昨夜の完璧な演技の裏で、この布は、誰かの意思によって忍び込まされたのか。それとも、あの制御不能な衝動の最中、美咲自身が無意識のうちに外部から持ち込んでしまった、管理外の遺物なのか。
美咲の心臓は、この二つの謎によって、長年の麻痺から覚め、微かに、そして反逆の決意と共に、力強く鼓動し始めた。
野村は、美咲の背後に立ち、その背中越しに、彼女の視線の先にある散乱した小さなガラスの破片を捉えた。
「美咲さん」
野村は、感情のない、
事務的な声で話しかける。
美咲の全身が、一瞬にして硬直する。彼女は、ゆっくりと野村の方を振り返り、我に返った。
「氷室様がお待ちです。後はお任せください」
野村は、美咲のコンディションに異常がないことを確認する、品質検査員のような眼差しを向ける。
「分かっています」美咲は答える。
その声は完璧に整っているが、それは、長年の訓練によって喉に染み付いた、虚飾のプログラムが発した言葉だった。
美咲の心臓は、無感情な野村の眼差しを通して感じる、氷室という名の支配構造の冷たい圧力に晒され、檻から逃れたいと渇望するノイズを、激しく奏で始めていた。
美咲の内心では、その「氷室様がお待ちです」という野村の言葉の響きが、魂が微かに血を流すような痛みを伴って、彼女を縛りつけた。野村自身は感情を持たないが、彼の存在が、美咲の自由を奪う鎖そのものだと感じられたのだ。
2. 氷室の監視:冷たい視線
美咲は、重厚な防音扉を抜け、スタジオ側のメイク室に滑り込んだ。彼女を待つあやとまことは、遅れに対して何の感情も示さない。彼らにとって美咲は、「時間を浪費した個人の意志」ではなく、「調整が必要な最高級の素材」にすぎないのだ。
美咲は椅子に座らされると、まことの手によって顔に冷たいブラシが滑り、微粒子パウダーの無機質な匂いが鼻腔をくすぐる。その匂いは、美咲の素肌が持つべき微かな体臭すらも消し去った。まことは、美咲の顔の筋肉を指先で緻密にマッサージし、「完璧な笑顔」の形状を記憶させていく。その指圧は痛いほどだが、美咲は抵抗しない。この痛みこそが、彼女が「美咲」という役割を演じるための、最後の現実的な感覚だった。
メイクが完了し、あやがドレスの最終調整をする。ドレスは最新の技術で作られたため、体温よりも冷たい。そのシルクが肌に触れるたび、美咲は、自分が生きている人間の体温ではなく、ショーケースの冷たいガラスに近づいているのを感じた。
スタジオへ移動すると、美咲のプロデューサーである氷室が静かに立っていた。黒いスーツは、人工的な照明の中でも光を一切反射せず、彼の存在だけが、美咲というプロジェクト全体の支配者であることを示している。
最初の撮影は、宝石の広告だった。
「美咲。今日のテーマは、『沈黙の優雅』だ。君の美しさそのものが、メッセージであり、宝石に価値を与える。余計な感情は要らない」
彼の声は、スタジオの完璧な静寂を切り裂く唯一の現実音だ。しかし、その声にも感情はない。美咲は、彼の冷徹さが、自分を最高の作品として維持するための絶対的な信念から来ていることを知っていた。
撮影が始まる。美咲は、指示通りにポーズを取り、表情を作る。完璧だ。カメラマンはシャッターを切りながら、陶酔したように「ビューティフル…!」と呟き続ける。
休憩中、美咲はスタジオの隅で静かに水分補給をする。そのわずかな間、彼女は昨夜の出来事を思い返していた。そして、わずか一秒。その視線の揺らぎを、氷室は見逃さなかった。
彼は静かに、水面に波紋を立てるように、
美咲に近づく。
「どうかしたか、美咲」
美咲は反射的に笑顔を作る。
「いいえ。
最高の仕上がりになる予感がしただけです」
氷室は何も言わず、美咲の背後の壁に、まるで獲物を追い詰めるように手を置く。そして、その冷たい指先が、美咲の肩の肌に一瞬触れた。
「君の美しさは、この世界にとって必要なものだ。君の完璧さは、誰もが望む理想だ。それを、君自身が汚してはならない」
彼の声は低く、脅迫的だったが、美咲はその一瞬の接触に、管理者の冷徹さではない、何か別の感情が混ざっているのを感じた。それは、「この完璧さを失いたくない」という、歪んだ、病的なまでの所有欲であり、美咲の「役割」に対する、狂信的な愛だった。
(彼は、私という檻の、
もう一人の囚人だ。)
その歪んだ感情に気づいた美咲の背筋に、冷たい汗が伝う。氷室の「愛」は、最も恐ろしい監視だった。
3. 虚飾の食事と裏切りの嗅覚
午後のセッションを終え、美咲は用意された個室で午後の食事をとる。
食事と言っても、小さな銀のトレイに置かれたのは、色味の美しいムース状の流動食。
美咲のカロリーと栄養素が完全に管理された、味覚を刺激する要素を極限まで排除した機能性食品だ。彼女はそれを「完璧な燃料」として、銀のスプーンで口に運ぶ。
無味。
舌の上を滑り、喉を通り過ぎる流動食は、美咲にとって、生きるための儀式でしかなかった。食事は喜びではなく、義務。彼女の味覚はとうに麻痺し、生きた食物の熱や複雑な味を認識する能力を失っていた。美咲は、この冷たい虚飾の世界で、五感の全てを、役割の維持のために捧げていたのだ。
美咲が、無意識にスプーンを口に運ぶ動作を繰り返していた、その瞬間だった。
個室の換気口から、わずかに、本当にわずかに、焼けたパンの酵母の匂いと、アスファルトの熱が含む土埃、そして古い調理油の混ざった、生々しい生活の匂いが流れ込んできた。それは、美咲の隔離された生活から排除された、あまりにも人間的で、「生きている」肉体の熱を帯びた匂いだった。
彼女の麻痺していた嗅覚が、その匂いに激しく反応した。頭の奥で、何かが鋭い音を立てて弾けるような感覚。
その匂いは、美咲の意識を一瞬で過去へ引きずり戻した。
美咲の鼻腔に、古い木材の感触と、色鉛筆の木の匂いが、まるで幻影のように蘇る。その幻影に、熱を持った油の塩気と、遠くから運ばれてくる潮風の生臭さが混ざり合った。美咲は、その匂いが「誰と」「どこで」感じたものなのか、明確には思い出せない。
美咲の呼吸が乱れる。体が一瞬にして熱を帯び、凍り付いていたはずの四肢が、その匂いの発生源、「外の世界」を求めて動こうとする。
「美咲さん、どうしました?」
野村が冷静に尋ねる。美咲はハッと我に返り、ムース状の流動食が喉に詰まりかけ、微かな吐き気を催す。
「このムース、今日は少し、塩味が強い気がします。水を頂けますか?」
「いつもと同じはずですが…かしこまりました。」
野村が首を傾げ、成分表を確認するよりも早く、美咲は立ち上がった。彼女の心臓は、逃走を図る野獣のように激しく鼓動し、その音は、冷たい床をハイヒールで踏みしだく衝動となって彼女を支配する。
美咲の瞳の奥に、過去への渇望という名の炎が揺らめいていることを、プロデューサーである氷室は見逃さなかった。彼は、扉の影から美咲の動向を監視していたのだ。
氷室は、静かに、しかし有無を言わせぬ絶対的な圧力をもって、美咲の前に立ちはだかった。
「美咲。君の今日のスケジュールに、散策は含まれていない。君の役割を思い出しなさい」
彼の声は、美咲の鼓動を強制的に抑えつける、冷たい金属の枷のようだ。美咲の全身が硬直する。彼女の嗅覚はまだ、あの焦げた油の匂いを必死に追い求めているが、氷室の存在が、その匂いを冷たい虚飾の空気で覆い尽くしていく。
美咲は、その場で、全身の筋肉を弛緩させた。逃走の衝動は、氷室の支配の前に、再び深く、心の檻の底へと押し込められる。
「…申し訳ありません。お水を取りに行こうとしただけです。」
美咲は、完璧な笑顔で、嘘を吐く。
美咲の心は、「偽りの役割」と「生きた渇望」の激しい対立に、耐え続けていた。
4. 役割と「影」の対話
夜。一日の撮影を終えた美咲は、再び重厚な防音扉をくぐり、プライベート空間へと戻ってきた。スタジオ側の熱と照明の喧騒とは打って変わり、この領域は、真空のような静寂と、空調の冷たく無味無臭の空気に満ちている。
美咲は、リビングの冷たい革張りのソファではなく、鏡台の前に座り込んだ。砕けたガラスの破片は、野村によって完璧に清掃されていたが、鏡の表面に残ったハイヒールの鋭い亀裂だけは、修復不可能だった。
美咲はウィッグを外し、メイクを落とす。クレンジングクリームの冷たい粘性が、顔の皮膚に張り付いた「役割」を剥がしていく。素顔。その髪はウィッグの下でぺたりと潰れ、疲弊し、生気が薄い。その姿は、鏡の中に住む、「美咲」という虚飾の裏側に隠された「影の住人」のようだった。
鏡の中の「影の美咲」が、美咲に静かに、しかし冷酷に話しかける。
役割を果たしたから、君は今日も生きている。君は完璧でいなさい。それが、君の唯一の価値だ。この安全で、冷たい檻から出たら、君は価値を失い、飢えるだろう。
なぜ、私は飢える?
私はあの匂いを知っている。
美咲は、心の中で問い返す。
あの生々しい生活の匂い、そして温もりと懐かしさを感じたあの匂い、彼女の理性と五感の全てが麻痺したこの世界で、唯一、美咲が「生」を感じた痕跡だった。
美咲は、その感覚の正体を突き止めなければならない衝動に駆られる。
(あの匂いは何だった?
あの、生きた熱を持った匂い…。)
美咲は、ウィッグを外し、鏡に映る自分の素の頭皮の冷たさを指でなぞる。
この衝動は、氷室が不純だと断じた、排除すべき「欠陥」なのか? いいや、違う。この渇望こそが、私がこの虚飾の中で、確かに生きていた証だ。
5. 監視の穴と最初の鍵
そして、第2の謎…美咲は、ポケットに握りしめた青い布の切れ端の感触に、昨夜の情景を呼び起こされた。
昨夜、美咲が同席したのは、単なる業界の社交の場ではなかった。それは、美咲のトップモデルとしての市場価値を、氷室が支配し続けることを確定させるための、巨大なアパレル企業との最終契約の場だった。
会場は、美咲の冷たい美しさを完璧に引き立てるよう計算された、無機質なデザインのバーラウンジ。美咲は、その中央に展示品のように立たされ、彼女の完璧な笑顔、優雅な手の動き、そして抑制された呼吸のすべてが、氷室の「商品」の完成度を示す生きた証明として機能していた。
美咲は、その場でも完璧な美しさと優雅さを演じ切る必要があった。アルコールの匂いと、高価な葉巻の苦い煙が充満する中、美咲は氷室の指示通りに、契約の「空気」を乱さないよう、喉を焼くほどの冷たいミネラルウォーターを微かに口にした。
(あれは、契約の儀式だった。私が「人間」であることを完全に捨て去り、「虚飾の美咲」として、永久にこの檻の中に留まることを誓う、冷酷な儀式。)
極度の緊張と完璧な演技による精神的な疲労が、美咲の集中力を限界まで削り取っていた。そして、契約が成立した直後、祝杯の熱気に乗じて一瞬だけ美咲の傍に近づいた、人物がいた事を思い出す。
美咲は、その人物が誰だったか断定はできない。しかし、氷室の監視下、野村の厳重な警戒のもとで、美咲のポケットに管理外の私物を滑り込ませる行為は、命懸けの反逆に等しい。
美咲は、布の柔らかな感触を確かめながら、昨夜の会場の熱気と喧騒を、頭の中で再構築する。あの人物は、美咲がアルコールと煙草の匂いに意識を奪われ、完璧な演技に集中力を削がれていた、一瞬の監視の「穴」を利用した事になる。
(誰が、なんの為に…。
そして、この布が何を意味するのか。)
美咲は、布の切れ端が、かつてデザイナーを夢見ていた頃の記憶と深く結びついていることだけは、本能的に理解できた。それは、美咲が「完璧な美咲」という虚飾を纏う以前の、「生きていた自分」の象徴だった。
美咲は、周囲の静寂と人工的な照明を鋭い目でスキャンした。鏡台の亀裂は、すぐに修理されるだろう。氷室の完璧な管理下で、永続的な隠し場所を見つけなければならない。それは、氷室が最も意識しない、美咲自身の最も身近な場所でなければならない。
美咲は、その布の切れ端を、着用していたルームウェアの襟元の裏地にそっと押し当てた。そして、微細な、しかし決意のこもった指の動きで、布が落ちないよう、タグを縫い付けるように、裏地の細い縫い目に沿って布を固定した。
冷たいガラスではなく、自分の体温に近い、柔らかな布の感触。美咲は、その存在を肌で直接感じた。この襟元は、氷室が支配する「完璧な商品」の、目に見えない、唯一の死角となる。美咲は、この秘密の温もりと共に、反逆の決意を強固に胸に刻んだ。
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