わたしは、あなた
河村 恵
捨てられた花
そのアカウントは、ずっと放置されていた。
数年前に使われていた形跡はあるけれど、投稿も、反応も、途絶えたまま。
アイコンの色褪せた花の写真だけが、画面の上で時間を止めていた。
何気なく調べたパスワードは、一度で当たった。
ありふれた誕生日と名前の組み合わせ。
特に理由もなく、指がログインボタンを押していた。
乗っ取った、というより、空き家に入り込んだような感覚だった。
通知はゼロ。
フォロワーもほとんどいない。
タイムラインには、三年前の呟きがぽつりと残っているだけだった。
「今日は風が強い」
たったそれだけの文。
なのに、じっと見ていると、風の音が聞こえるような気がした。
記録なのに、生きている。
夜、ログインしたままベッドに横たわると、胸の奥がざわついた。
目を閉じても、知らないアイコンの花が、まぶたの裏にぼんやりと浮かんだ。
二日目。
昼間、仕事の休憩時間に何気なく開いたタイムラインに、見覚えのない投稿が一件だけあがっていた。
「きょうは、ちゃんと笑えた」
誰が書いたのかわからない。
けれど、自分が投稿したように見える。
アカウント名の横には、自分が乗っ取ったその花のアイコン。
一瞬、指先が冷たくなった。
でも削除はしなかった。
消すよりも、しばらく眺めていたくなった。
「きょうは、ちゃんと笑えた」
知らない人の声が、胸の奥に、薄い膜のように貼りついていく。
夜になると、呼吸が少し浅くなった。
理由はわからない。
ただ、誰かの感情の底に足を取られているような感覚があった。
三日目。
タイムラインには、さらに数行の呟きが追加されていた。
「ごめんね」
「まだ大丈夫」
「わたしはここにいる」
投稿した記憶はない。
スマホを開くと、まるで自分が書いたもののように並んでいる。
自分の指が、勝手に画面を撫でていた気がした。
その夜、夢を見た。
風の強い川辺。
知らない花が、足元で倒れていた。
それを見て、なぜか息が詰まった。
起きたとき、胸の奥に残っていたのは、自分の記憶ではない誰かの痛みのようなものだった。
四日目。
仕事でミスをした。
集中できなかった。
心ここにあらずで、気づけば知らない言葉を頭の中で繰り返していた。
「まだ大丈夫」
誰の声でもない。
けれど、確かに自分の内側から聞こえてくる。
スマホを見ると、呟きはさらに増えていた。
すべて、自分の名前で投稿されている。
それなのに、文字を打った記憶がない。
不思議と、怖さよりも――なじみを感じていた。
ひとつひとつの言葉が、自分の思い出だったかのように胸に沈んでいく。
五日目の夜。
タイムラインの一番上に、新しい呟きが表示された。
「わたしは、あなた」
その文字を見た瞬間、手のひらに汗がにじんだ。
消そうとしたが、指が動かなかった。
画面の向こうから、かすかな呼吸のようなものが伝わってくる。
静かで、浅くて、でも確かに自分のものと重なっていた。
気づけば、思い出せないことが増えている。
自分の昔の写真の場所も、好きだった音楽のタイトルも、ふとした瞬間に霞んでいく。
その代わりに、知らない夕暮れの川辺の映像が、頭の奥に染みついている。
花が揺れて、風が吹いている。
それは、たぶん、あの人の記憶だった。
六日目。
アカウントを削除しようとした。
けれどパスワードを忘れていた。
思い出そうとするたび、頭の中であの声がかすかに囁く。
「わたしは、あなた」
呼吸がぴたりと重なった。
もう一度、プロフィールを開く。
アイコンの花が、鮮やかな赤に染まっていた。
タイムラインの言葉たちが、まるで自分が書いた日記のように並んでいる。
どこまでが自分で、どこからが他人なのか、もうはっきりしない。
窓の外で、風が鳴った。
耳の奥で、誰かの息が重なった。
夜は静かに深くなり、もうひとりの“わたし”が、確かにそこにいた。
わたしは、あなた 河村 恵 @megumi-kawamura
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