第2話:デイリー

朝。


アラームは鳴らない。


目は、時間ちょうどに覚める。




水を一杯。


関節をゆっくり回し、足の裏で床の温度を確かめる。


呼吸の深さを揃える。それが一日の始まり。




ニュースは、もう誰も見ない。


世界は名前を失ったまま、正常に動いていた。




誰も自分の“名前”を覚えていない。


けれど、それで困ることは何もない。


銀行も、学校も、識別番号で全てが管理される。


ただ、隣人を呼ぶ声だけが、少しだけ静かになった。




それでも人々は笑い、通勤し、昼食を取り、夜には眠る。


壊れたはずの世界が、止まることなく動き続けている。


壊れたまま、均等に。




窓を開ける。群青の空。乾いた風。


雲の縁が白く光り、街は正確なリズムで回っていた。




信号。バス。歩行者。


誰も異常を訴えない。


まるで“名前”なんて、最初から存在しなかったかのように。




視界の端に青い光。


ウィンドウが滲む。




【デイリークエスト発令】


訓練種別:災害想定(Lv1)


会場:市営防災センター 第3ホール


報酬:能力値ポイント+5




光の粒がゆっくり消える。


そのあとで、朝の音が戻ってきた。




廊下に足音。


隣のドアが静かに開く。




「おはよう、No.02713。」


女の声。隣人だったはずの、名前を忘れた誰か。




「……おはようございます、No.09112。」


自分の番号を口にすると、少しだけ胸が痛んだ。




「今日もトレーニング? あなた、もうレベル3なんでしょ?」


「はい。災害想定訓練です。」




女は小さく笑い、言葉を落とす。


「ねぇ、“夢”って、見たことある?」




朝陽は沈黙する。


彼女は首を傾げ、また番号を呼んでドアを閉めた。




廊下の灯が落ち、足音だけが響く。


それが、この街の“朝の挨拶”になっていた。




街の風が顔を撫でる。


人々は淡々と番号を呼び合い、仕事へ向かう。


誰も違和感を覚えない。


ただ、ほんの少しだけ静かだ。


“名前”という音が、この世界から完全に消えたせいだ。




防災センターは無人だった。


外壁には、あの日の裂け目が走ったまま。


誰も修繕しようとしない。


それを「聖痕」と呼ぶ者もいるらしい。




受付端末に指をかざす。


認証音。電子の息づかい。


訓練ホールの扉が音もなく開く。




中は灰色。


照明が落ち、空気が止まる。


視界が淡く反転する。




——“自分しか見えない訓練モード”が始まる。




【課題1:反応測定】




四隅の柱が赤く点滅する。


光った方向へ踏み出す。


単純な動作。だが、世界はそれに全てを賭けている。




光が点るより先に、空気が動く。


音が鳴るより前に、身体がそこにいる。




床を滑る。膝のバネを半分だけ使う。


動作音を世界に干渉させない。




最後の光が消えた瞬間、体はもう次の位置にあった。




【反応測定:完了】


評価:S


同調率 91%→93%




数字が上がるたび、視界の輪郭が澄んでいく。




【課題2:回避モーション】




壁のスリットが開き、細い影のスピアが放たれる。


頭、胸、膝、足元。速度も方向も読めない。




足幅を半歩縮め、重心を沈める。


影が風を切り、頬を掠める。


呼吸は短く、一定。


しゃがまず、跳ばず、線の隙間を通過する。




時間の感覚が薄れる。


踏み出す前に結果がわかる。


空気が“動く場所”を、先に知らせてくれる。




影がすべて止まった瞬間、僕はまだ動いていた。




【回避モーション:完了】


〈回避の悦び〉熟練 18→25




筋肉のノイズが消える。


世界との境界が薄くなっていく。




【課題3:模擬戦 影狼型(安全装置ON)】




床が沈み、三体の影が出現した。


輪郭を縁取る光が不安定に揺れる。




短剣を逆手に握る。


刃は細い。切らない。点で済ませる。




一体目。


半歩で肩を沈め、前脚の内側に刃を置く。光が散る。




二体目。


背後の空気が圧縮する。


振り返らず、肘を返し、肩口を斬り抜ける。




三体目と正面。


間合いを詰め、喉を点で刺す。


音はない。光だけが弾ける。




【模擬戦:完了】


報酬:能力値ポイント+5


推奨配分:AGI+3/STR+1/END+1




肺が広がりすぎないように抑える。


呼吸は薄く、穏やかに。


空気の中の粒子までが鮮明に見える。




【自由訓練:崩落回避(上級)】




照明が一瞬落ちる。


ホールの空気が歪み、天井梁が震えた。




身を低く。


頭の数センチ上を鉄骨が通過する。


風圧が髪を逆立て、音が遅れて届く。




汗が背中を流れる。


熱いのに、頭の中は冷たい。




【自由トレ:完了】


同調率 93%→94%




数字が動く瞬間、胸の奥で小さな音が鳴る。


呼吸と世界の拍が、少しだけ重なった気がした。




退出ログを残そうとしたとき、ウィンドウが微かにノイズを走らせた。


映像の角が歪み、数字が一瞬、読めなくなる。




【警告:データ整合率 94.7%】


【認識領域:不安定】




「……また、か。」




誰にも共有されない“エラー”。


それはこの訓練空間に入れる者——つまり「覚醒者」だけが知る異常だった。




僕の同調率が95%を超えるたび、世界の“表面”が軋む。


まるで、別の層に踏み込もうとしているみたいに。




ホールの壁が、かすかに波打つ。


ノイズの向こうに、一瞬だけ“誰かの声”が通った。




《観測ログ:被験体No.09112 閾値を突破——》




声が切れる。


次の瞬間、光が反転し、世界が元に戻る。




外に出ると、夕方の光がやわらかく頬を撫でた。


路面の白線、舗装の粒、信号の切り替わり。


すべてが足の裏で読める。




街の人々は番号を呼び合い、いつもの一日を終えていく。


誰も知らない。


この街の“深層”が、少しずつ歪み始めていることを。




夜。


短剣を手に、狭い部屋の中で動きを確かめる。


刃の線。踏み込み。避けと刺突の連動。




呼吸が完全に消える瞬間、心拍と世界が同期する。


視界の端に、淡い光。




【セルフトレ:完了】


同調率 95%




ウィンドウがかすかに震え、壁に青白い模様を落とした。


それは、まるで現実が裏返る前兆のように。




空気の密度が変わる。


時計の針が、一瞬だけ止まった。




【異常領域:発生予兆】


位置:第4市街区 地下連絡路


出現まで:残り 00:59:58




鼓動が、数字と同じテンポで鳴る。


外の空がわずかに歪む。


世界の奥で、何かが“準備”を始めている。




僕は立ち上がる。


眠気は、もうない。




また、だ。




光が天井を染める。


都市の夜景が一瞬、反転する。




新しい一日が、“異常”とともに始まろうとしていた。




時計の秒針が止まったまま、動かない。


静寂が、世界の裏側から滲み出ている。




壁の青い光が、波のように揺れた。


【異常領域:第4市街区 地下連絡路】


【出現まで:00:00:00】




その瞬間、音が鳴った。


いや、違う。


“音”ではない、“軋み”だ。


世界がひとつ、皮を剝がす音。




床の目地が歪み、壁の奥が透けていく。


見慣れたアパートの廊下が、知らない色に染まる。


白ではない。灰でもない。


何層もの現実が、上書きされていく。




外に出る。


街は、静止していた。


車も、人も、風さえも止まっている。


ただ一つ、空の中心に——裂け目。




青い線が、ゆっくりと降りてくる。


現実の構造を貫きながら、地面へと接続する。


重なるように文字が浮かぶ。




【異常領域 接続完了】


【エリア区分:第4市街区 地下層】


【危険度:D】




地面の下から、音がする。


低い。粘つく。


聞いたことのない呼吸音。




短剣を抜く。


刃先が冷たい空気を裂いた。


足元の舗装が波打ち、次の瞬間、崩れ落ちる。




落下。


視界が反転し、白い閃光が走る。


気づけば、そこは地下だった。




連絡路。


かつて人が通った形跡がある。


壁には「避難経路」の標識がかすかに残っている。


だが、そこに“誰か”がいた。




影。


人の形をしているのに、輪郭が滲む。


顔がない。


番号もない。


ただ、こちらを見ている。




「誰だ」




返事はない。


次の瞬間、影は崩れ、地面に染み込むように消えた。


残ったのは、赤いノイズだけ。




ウィンドウが反応する。


【戦闘エリア進入:自動トレーニングモード起動】


【敵性反応:識別不能】




「識別不能……?」




その言葉を繰り返す間に、背後の闇が蠢いた。


空気が沈む。


次の瞬間、何かが壁を突き破った。




四肢を持つ。


狼のようで、狼ではない。


骨がむき出しで、目がない。


その口から、番号の羅列がノイズのように流れた。




「一一九一二」




自分の番号だ。




刃を構える。


心臓が速く打つ。


呼吸を極限まで薄く。




飛び込む。


影狼の爪が目の前を通過。


風が頬を裂く。


反転して、肘を返す。


刃が首筋に触れる——しかし、通らない。




硬い。


金属でも骨でもない、“構造”の抵抗。




【警告:対象、現実干渉度 12%】




「現実…干渉?」




その瞬間、視界の端でウィンドウが震えた。


同調率が跳ね上がる。


95、96、97——




世界が、歪んだ。


時間が一瞬だけ止まり、


影狼の動きが“解像度を失う”。




呼吸を忘れたまま、刃を差し込む。


音がしない。


ただ、世界が震えた。




影狼が崩れる。


光とノイズが混ざり、形を失う。




【討伐確認】


【能力値+3/同調率 97%→98%】




膝をつく。


肺が焼ける。


耳の奥で、声がした。




《観測ログ更新——被験体No.09112、閾値領域侵入》




「誰だ……」




声はすぐに消えた。


残ったのは静寂と、青い光の粒だけ。




それが、風の中に消える。




ウィンドウの最下部に、見慣れない一行。




【次回訓練:未定義領域】




——




頭上の天井が裂け、


夜の街の光がわずかに差し込んだ。




世界はまだ壊れきっていない。


けれど、


壊れる準備はもう、とっくに終わっている。




僕は短剣を握り直し、


ひとつ、深く息を吸った。




そして——上を見た。




裂けた空の向こうで、


誰かが“観て”いた。

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