埋める

異端者のフォーク

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──やっちまった。


 俺はハンドルを握ったまま、前を見て固まっていた。

 軽トラに打ちつける雨。

 忙しなく往復するワイパー。

 振動が伝わってくるエンジン。

 すべての音が一定のリズムを奏でる中で、誰かの荒い呼吸音だけが不規則に聞こえていた。


 それが自分の呼吸であることに気がつくと、俺は呪縛から解き放たれた。意味もないうめき声を洩らしながら、ハンドルに額を押しつけて頭を抱える。

 落ち着け。

 落ち着け。


 ゆっくりと顔を上げるが、前方に見える景色は何も変わっていなかった。フロントガラスに激しく打ちつける雨を、ワイパーが健気に薙ぎ払い続けている。クリアに見えるのは一瞬だけで、運転をするには見えづらいが、現実を直視するには十分だった。


──人を、轢いてしまった。


 じわじわとその現実が体内を侵食していく。意識とは関係なく、全身が震える。夏にもかかわらず、異様に寒かった。一定のリズムを刻む音たちの演奏に、俺の歯がカチカチと鳴る音も加わり始めた。


 本来であれば、すぐに車を降りて状況を確認するべきだろう。しかし、フロントガラス越しに見える映像だけで、状況は明らかだった。


 本当に人を轢いたのだろうか。気のせいかもしれない。


 何も見えなければ、そんな風に現実逃避もできたのかもしれない。

 しかし、ヘッドライトの明かりが、現実を照らし出している。

 前方に転がる人間のようなものの姿が、現実を突きつけてくる。


 もしかしたら、大したことはないのかもしれない。


 人が倒れているだけであれば、そんな風に楽観視もできたかもしれない。

 しかし、白いワンピース姿の女性の首や脚は、明らかに曲がってはいけない報告に捻じ曲がっていた。


 このまま逃げようか。

 何もなかったことにすればいい。

 そんな邪念が頭を過る。

 誰も見ていない山道だ。しかも、激しい雨。このまま逃げてもバレないんじゃないか。


 そんなことを考えながら、気づけば俺はドアを開け、車の外に出ていた。車内にいてもうるさいほどだった雨音が、さらに大きくなった。激しい雨が容赦なく全身を打ちつける。

 まるで雨に急き立てられるように、俺は傘もささないままフラフラと人影に歩み寄った。


 人形のように投げ出された手足。

 広がった長い黒髪は、雨に打たれて顔に張りついている。

 顔が見えないのが幸いだったが、明らかに首の角度はおかしかったし、なぜか首が妙に伸びているように見えた。


「お、おい……大丈夫か?」


 人影を見下ろしながら、蚊の鳴くような声で囁く。

 たとえ女が生きており、雨が降っていなかったとしても、届かなかっただろうと思うほどの小さい声。

 俺はゆっくりと屈みこんだ。すでに下着までびしょ濡れだったが、気にならない。伸ばした手が震えているのは、恐怖からか、寒さからか。


「おい……」


 そっと肩に触れて、揺する。驚くほど華奢な肩だった。


「おい、頼むよ……起きてくれよ……起きろよ!」


 感情とともに涙が溢れ、身体が勝手に動いていた。気づけば俺は女の両肩を両手でつかみ、激しく揺さぶっていた。


「ひっ……!」


 途端、俺は両手を離し、尻餅をついて後ずさった。

 揺さぶられるまま、ぐらんぐらんと暴れまわる首。

 関節からおかしな方向に捻じ曲がった右腕と左脚も、ぐにゃぐにゃと揺れ動いていた。

 張りついた髪の間から一瞬見えた、半開きの口から垂れ下がった赤い舌。

 

「ああぁぁ……!」


 俺は蹲って頭を抱える。

 終わった。

 終わった。

 終わった。

 雨の音も遠くなり、その言葉だけが頭の中で壊れたレコードのように繰り返し流れている。



******



──隠そう。


 どれぐらい時間が経ったのかわからないが、俺は決意した。

 それしかない。

 誰も見ていない。

 相手とは何の面識もない。

 こんな暗い山道に防犯カメラなどないだろう。


 そうとなったら急ぐしかない。焦る気持ちで立ち上がり、背後に目を向けた。停めた軽トラは相変わらず一定の間隔でワイパーを振っている。その後ろには暗い山道と木々が広がるだけで、他の車が来る気配もない。

 しかし、いざ隠そうと決意すると、誰かが来る気がしてならなかった。焦る勢いに任せて、俺は再び地面に寝転がる女に向き合うと、思い切って首と脚の下に手を入れ、持ち上げた。

 思った以上に軽いそれは、持ち上げた途端に首がだらんと下に垂れ下がった。

 ゴム人形のような不気味さに叫びだしそうになるのを何とか堪え、軽トラまで運ぶ。雨で感触が紛れているのがせめてもの救いだった。


 女の身体を荷台に雑に載せ、手近にあったシートを被せる。

 運転席に回り込むと、座席が濡れるのも構わず乗り込み、ハンドルを握った。

 呼吸が荒い。手が、全身が、ガタガタと震えている。


 落ち着け。

 落ち着け。


 落ち着いて、絶対にミスや見落としをしてはならない。


 見た限りでは、地面に血のあとは残っていなかった。残っていたとしても、この雨が洗い流してくれるだろう。念のため、帰りに確認すれば良い。

 白いワンピースも、泥だらけにはなっていたが、血はついていなかったような気がする。


 それよりも何よりも、女を隠すのが先だ。

 誰にも見られずにそれさえできれば、どうにでもなる気がした。

 俺ならできる。

 

 少し先に、車を停められる路側帯があったはずだ。

 慎重に車を発進させ、ゆっくりとした速度で雨の中を進む。


 記憶通り、前方の路肩に車が停められる小さなスペースが見えてきた。

 停車させ、エンジンを切る。雨の音が大きくなった。

剥がすようにハンドルから手を離すと、大きく2回深呼吸をする。


 やるしかない。

 気合を入れるように顔を叩いて車から降りると、荷台に回り込んで女を持ち上げ、地面に放り投げる。

 仕事用に積んでいた懐中電灯とスコップを取り出すと、女の身体を肩に乗せて抱え、ガードレールを乗り越えて森の中へと歩を進めた。


 緩やかに下る斜面を、滑らないように慎重に進んでいく。できれば懐中電灯はつけたくなかったが、あまりにも真っ暗だったので仕方なく足元を照らす。

 足場が急に消えて崖に転落するのではないか、という恐怖がこみ上げてきて、ただでさえ震えている脚がさらに竦みそうになる。

 左肩に女を乗せ、右腕の脇にスコップを挟みながら右手で懐中電灯を握っているので、不安定なことこの上ない。

 女の身体は小柄なのに、どんどんと重くなっている気がした。


 どれだけ歩いただろう。

 夜の山とはいえ、蒸し暑い夏の夜だ。全身から汗が吹き出し、もはや雨なのか汗なのかわからない液体が全身にまとわりついて不快だった。

 左腕の感覚がなくなり、雨の音よりも自分の呼吸の方がうるさくなってきたところで、ちょうど目の前に傾斜が緩やかになった場所が広がった。

 木々が鬱蒼と生い茂っており、懐中電灯で照らされた範囲以外は闇に包まれている。


 ここしかない。


 俺は肩から落とすように女の身体を地面に投げ捨てると、座り込みそうになる身体を何とかスコップで支えた。

 今座り込んでしまったら、二度と立ち上がれない気がした。


 少し呼吸を整えると、女の身体から目を背け、地面にスコップを突き刺した。

木の根元を掘ろうと思ったが、根っこに当たりうまく掘れない。ちょうど木々の隙間にあったスペースを、一心不乱に掘り始めた。

 生い茂る木のおかげか、雨はさほど降り注いではこず、掘るそばから水で埋まってしまうようなこともなかった。むしろ、土が程よく柔らかくなっており掘りやすい。


 重い身体に鞭を打ちながら、ひたすら穴を掘る。

 土を掘って、遠くに放る。

 土を掘って、遠くに放る。


──何で俺が、こんな目に遭わなきゃいけないんだ。


 身体を動かしながら単調な作業を繰り返していると、徐々に怒りの感情が湧き上がってきた。

 そもそも、今は深夜だ。あの女はこんな時間にこんな場所で、何をやっていたんだ。カーブを曲がった先で、いきなり手を上げて飛び出してきたのだ。

 家出か?だとしても、何でこんなところに。


 そういえば、バッグも何も持っていなかった気がする。

 急に不安になってきた。所持品が落ちていたら致命的である。

こちらも帰りに確認しなければならない。


 怒りに任せて掘り進めていると、それなりに大きな穴が広がっていた。

 一旦手を止めると、ものすごい疲労感が全身を襲う。それほど深い穴ではないが、暗い山の中では地獄への深淵が広がっているように見える。

 映画なんかだと穴の中に入り込んでさらに深く掘っているが、あいにく梯子などはない。

 軽トラに折りたたみ式の梯子は積んであったが、さすがにそこまで考えは至らなかった。取りに戻ってでも深く掘った方が良い、と頭ではわかっているが、身体はもう言うことを聞きそうになかった。

 今から戻るのはさすがにきつい。


 こんなところ、そうそう人は来ない。

 車道が近いので、掘り返すような動物も多くはないだろう。

 今は夏。前に見たテレビの犯罪特集では、夏場は10日ほどで白骨化すると言っていた。土の中だと条件は違うかもしれないが、これだけ濡れた土であれば、むしろ腐敗を早めてくれるのではないか。


 自分で自分に言い聞かせている、という自覚はあった。ただ、もう体力も精神力も限界だった。

 早く埋めたい。

 早く埋めて、帰ってシャワーを浴びて思い切り眠りたい。


 そんなことを考えながら見るとはなしに穴を見つめていると、徐々に水が溜まってきていた。急がないといけない。


「なにしてるの?」


 耳元で、女性の声。


 背中を悪寒が走り抜け、弾かれたように全身がびくっと跳ねた。

 首を竦めたまま、身動きが取れない。


「なにしてるの?」


 囁くような声なのに、雨が木々を打つ音にも負けないぐらいはっきりと聞こえた。

 音源が近い。

 吐息も感じられそうなほど。


「あ、あ……」

 脚が震え、膝が砕けそうになる。

 指一本動かせなかった。動いた瞬間、どうなるかわからないという強烈な恐怖に支配される。


 何だ?

 何なんだ?

 頭の中ではすさまじいスピードで思考が駆け巡っているが、すべてが通り抜けていくようでまったく考えがまとまらず、状況が理解できない。


 誰だ。

 誰かに目撃されていたのか?

 そして、穴を掘る俺の背後に近づき、声をかけた?


 そんなわけがない。


 では、他に誰が?

 あの女が生き返った?

 百歩譲って生き返ったとしても、あの脚の状態で立てるわけがない。

 そして、あの首の状態で喋れるわけがない。


 考えたくない可能性しか考えられない。

 振り向きたくない。

 逃げ出したい。


 しかし前方には穴。

 ゆっくり横に移動するか。


「わたしを、うめるの?」

「ひぐっ……!」

 再び耳元で聞こえた冷たい声に、情けない嗚咽が漏れた。

 股間が温かくなり、いつの間にか涙と鼻水も溢れていた。


 怖い。

 しかしもう、見ない方が怖い。

 俺はゆっくりと、小刻みに足の角度を変えながら振り向いた。


 目の前に女が立っていた。

 ほとんど密着しそうなほど、近い。

 俺の目線の少し下に、女の目。

 異様なほどに大きく見開いて俺を直視する、女の目。


 黒く長い髪。

 泥に汚れた白いワンピース。

 あの女に間違いない。


 小柄な割に、頭の位置が高い。

 女は両手で自分の頭をつかみ、支えていた。

 伸びた首の分、頭の位置が高い。


「いたかったよ」

 女の口が裂けそうなほど、笑みの形に広がる。

「うっ、うわぁぁぁぁ、あっ……!」

 恐怖に耐え切れず叫びながら逃げ出そうとした瞬間、女は頭から手を離し、俺の胸をとん、と押した。


 一瞬の浮遊感。

 視界が木々をとらえる。


 思ったより衝撃はなかった。

 べちゃっというカエルを踏み潰したような音とともに、背中や後頭部に不快な感触。

 しかし、それどころではない。


「ひっ、ひっ、ひぃぃ……!」

 自分の喉から勝手に声が漏れる。

 穴の縁から女が見下ろしていた。地面に転がった懐中電灯が、その姿を照らし出している。

 折れた片脚をぶらぶらさせながら、もう片方の脚で直立している。伸びた首によって頭は胸のあたりに垂れ下がり、ちょうど下に顔が向くことで、穴に落ちた俺と目が合う形だった。

 先ほどと変わらず、限界を超えて見開かれた目が俺を凝視している。

 いつの間にか口元は固く結ばれ、無表情になっていた。


「たっ、助けっ……!」

 叫びながら身体を起こそうとした瞬間、口の中に泥が飛び込んできた。


「うめてあげる」


 むせ込みながら目を向けると、いつの間にか手放してしまっていたらしいスコップを女が持ち、泥を拾っては穴の中に放り込んできた。


「うめてあげる」


「待て!待って!悪かった!俺が悪かった!頼むよ殺さないで死にたくない助けてくれ……!」

 埋まったら終わりだという強烈な恐怖と生存本能に掻き立てられて、俺は放り投げられ続ける泥にも構わず無我夢中で穴の壁に指を引っかけた。

 何としても、何としても這い出ないと。


「……え?」


 上半身を起こしたところで、サクッという軽い音と、ゴリッという固い音が同時に聞こえた。

 瞬間、視界が再び穴の中で寝転んでいた状態に逆戻る。

 

 先ほどと違うのは、すべての感覚が失われていた。

 何かに遮られて、目の前にいたはずの女が見えない。


 暗くなる直前まで視界を塞いでいたのは、首から上をなくした男の背中だった。


(了)

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