リリア・アルベルタは喋れない。だからこそ、最強だ。
妙原奇天/KITEN Myohara
第1章 沈黙の魔女、王立学園へ行く
森は静かだった。
小鳥の囀りが朝霧を縫い、蜘蛛の糸が露を抱く。杖を持つ細い指だけが、淡く光った。
リリア・アルベルタは、今日もひとりで詠じない。
息を整え、視線を地面に落とし、胸の鼓動を三つ数える。
――行ける。言葉はいらない。魔力の流れだけでいい。
足元の土がしっとりと柔らかくなり、芽吹きの気配が一斉に立ち上がる。
彼女が指先で弧を描くと、露がきらめいて宙に浮かんだ。
無詠唱。音のない魔術。沈黙のまま世界を変える技。
小屋の扉を叩く音がした。
「アルベルタ嬢、出立の刻限です」
低い声。王都からの使者、近衛騎士ケイロン。
リリアは喉の奥で固く頷いた(頷いた、つもり)。
「……」
「はい、理解いただけたようで。では、護衛対象の資料を――」
差し出された封筒を受け取る。
手紙は短い。“第二王子エリアス・ヴァン・ルミナス。王立セレスティア学園に在学。
貴殿は転入生として潜入し、正体を秘匿しつつ護衛せよ。会話の必要最低限は想定するが――”
リリアは文字を追うだけで胃が痛くなってきた。
最低限の会話。最低限、という語が怖い。
最低限ができないから、ここに籠もってきたのに。
「任務の性質上、あなたの“沈黙”は利点になります」
ケイロンは淡々と続ける。「学園内は耳が多い。口が重いほど漏れは少ない」
リリアはうっすらと目を伏せる。――そう、沈黙は武器。
喋れないことは、弱点ではなく、最強の盾。
荷を馬車に積み込む。
森の端で、彼女は一度だけ振り返った。小屋の屋根、軒下に吊るしたハーブ、素焼きの壺。
静かな暮らし。呼吸が合う世界。
もう戻れない、と決めて扉に鍵をかけ、ポケットにそっとしまった。
◇◇◇
王都は眩しすぎる。
尖塔が空を突き、白い石畳は朝の陽を弾く。
王立セレスティア学園は丘の上、七つの塔と広大な庭園を持つ、貴族の箱庭だ。
門前には入学馬車が列をなし、絹や羽飾りが風に揺れていた。
リリアは灰色の簡素なローブに身を包み、荷馬車の陰で深呼吸を三度。
喉の奥がこわばる。言葉を作る筋肉が、氷みたいに固い。
「転入生の方はこちらで名簿を――」
門衛の書記官が微笑みかける。
リリアはそっと木札を差し出した。事前に用意された新しい身分証。
“リリア・アルベルタ、準貴族籍、魔術科二年編入”
「アルベルタ嬢ですね。寮は蒼翼館、部屋は三階の端。――おや、推薦状に“無口”の注記が」
書記官は慌てて手を振った。「失礼、配慮いたします。必要時は書面でも構いません」
救われたように頷く。
紙に書けるなら、言葉にならなくても、なんとかなる。
校門をくぐった瞬間、風の匂いが変わった。
魔力の流れが複雑に交差し、笑い声の間を縫って小さな呪文が走る。
ここは学ぶための場所で、同時に見栄を競う舞台でもある。
「見た? あの子、目がきれい」
「でも服が簡素。どこの家?」
断片的な囁きが、耳朶に触れて離れていく。
リリアは視線を落とし、足音だけを数えた。右、左、右。息、吐く、止める。
◇◇◇
入寮手続きを終えると、すぐに講堂での始業式だという。
蒼翼館の寮母は朗らかな女性で、早口の説明を一息に片付けた。
「朝食は鐘二つ目、門限は二十二時、消灯は――」
リリアは小さく「……はい」と言ったつもりだった。
声が、空気に触れたか自信がない。
寮母は微笑んで頷いた。わかってくれている、と思いたい。
講堂は天蓋が高く、彩色ガラスから光が降る。
列に並んで席を見つけ、端に座る。端が好きだ。逃げやすい。
壇上には教師と来賓。
中央に立つ金髪の少年――第二王子、エリアス。
遠目にも、周囲の視線を自然に集める光の芯を持っている。
「本年度も――」
校長の演説は長い。
リリアは膝の上で指先を重ね、呼吸を細く保つ。
四席前に、金の刺繍の制服を着た学生が背筋を伸ばした。
肩章の紋……王城近衛見習い。
王子の側近候補だろう。要注意。
校長の声が一瞬だけ掠れた。
天蓋の梁で、金具が微かにきしむ音がする。
空気の流れが澱んだ。
――嫌な響き。
リリアは反射で立ち上がりかけ、すぐに腰を落とした。
見上げず、目で天井の位置を測り、袖口に指を入れる。
言葉は不要。呼吸の長さで術式の“節”を刻む。
薄膜の結界を、静かに、講堂全体に被せる。
次の瞬間、彩色ガラスの一枚が、外の風に煽られて外れかけ――
音のない衝撃が走った。
ガラスは破片になるはずだったのに、空中で蜂蜜のように粘り、浮いた。
誰も気づかないほど薄い膜が、破片の角を丸め、床にそっと置いた。
ざわめき。
上段で警備の魔術師が何かを唱え、遅れて結界を張り直す。
校長は一拍遅れて「落ち着いて」と声を張る。
王子は周囲を見渡し、わずかに首を傾げた。
彼の視線が、結界の残滓のきらめきを追って――
端席の、目を伏せる少女の指先で止まった。気のせいだろうか、といった短い逡巡。
リリアは目を閉じた。
やってしまった。
でも、落ちるよりは良かった。誰も怪我しなかった。
結界の痕跡は微細。気づく人は少ない。少ない、はず。
袖の内側で震える指を、かすかに握る。
◇◇◇
式後のざわついた廊下で、声がかかった。
「そこの君。今の、見えたか?」
振り返ると、先ほどの近衛見習いの少年が立っていた。
銀灰色の瞳。真っ直ぐな物言い。
やめて。問いかけは苦手。心臓が跳ねる。
「……」
「すまない。俺はカイル・ローレンス。王城の研修で来ている。
講堂で、風が乱れた瞬間に結界が――誰かが即応した。
俺には、君の方から薄い偏光が見えた気がした」
リリアは、喉が鳴る音だけを出した。言葉が、出ない。
代わりに、胸元の小さな札を取り出し、事前に用意しておいた文字を見せる。
《私は人と話すのが苦手です。必要ならば筆談でお願いします》
カイルの目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「そうか。無理をさせたな。……失礼」
会釈して去っていく。その背が角を曲がったところで、別の声。
「君がリリア・アルベルタ嬢かしら?」
振り向くと、栗毛の少女が笑っていた。
ふわりとした雰囲気。手には分厚い時間割。
「私はミレイユ。同じ二年の魔術科。転入生は珍しいから、案内しようと思って。
話すのが苦手なら、うん、指差しでも頷きでも大丈夫。ついてきて」
救済の天使。
リリアは深く頷いた。
ミレイユは歩幅を合わせ、角を曲がるたびに「ここは錬金の実験室」「あれは訓練場」と、ゆっくり説明する。
説明の合間に、何度も「無理しないで」と繰り返す。
そのたび、堅い氷が胸の内側から少しずつ溶ける気がした。
◇◇◇
最初の授業は「魔力運用基礎」。
担当教員は鋭い眼鏡の女性、プロフェッサー・ハックリー。
「では、自己紹介を。上段から順に、一人一句。魔力観を簡潔に」
地獄の鐘。
リリアは机の下で手を握った。順番は近づく。
人の声が自己紹介を繋ぎ、教室の空気は人の気配で満杯になる。
彼女の番。
立ち上がる。喉が閉まる。視界の端が白い。
「……」
何も出ない。
それでも立ったまま、呼吸を一度、二度。
机に置いた羽根ペンが震える。
リリアは黒板の端へ歩み、チョークを取った。
キュ、キュ。
《魔力は、息です》
短い字。
《だから、私は息を整える》
《言葉は、要りません》
教室に、薄い静寂が降りた。
ハックリーは眼鏡の位置を直し、口角をわずかに上げた。
「なるほど。座って良い。次」
ざわめきは生まれなかった。
蔑みも、嘲りも、今はない。
リリアは椅子に沈み、胸の内でそっと呟く。ありがとう。
黒板の白い粉が指に残っている。
それが、彼女にとっての言葉だった。
◇◇◇
昼休み。中庭は光と風。
ミレイユがパンを二つ差し出す。「良かったら半分こ」
リリアは両手で受け取り、こくんと頷く。
「さっきの黒板の言葉、好き。私も、うまく喋れない時あるもの」
ミレイユが笑うと、影が柔らかくなる。
ふいに、風向きが変わった。
隅の廊下で騒ぎ。誰かが走る。
“王子が中庭へ”という囁きが波のように広がる。
ミレイユが目を丸くする。「本当に来るのね」
エリアス王子は護衛を二人連れ、中庭に現れた。
彼は歩きながら、生徒ひとりひとりに視線を配っていく。
笑顔は柔らかく、距離感は絶妙。
生まれついての“中心”。
リリアはベンチの端で、パンを小さく千切り、数を数える。
一、二、三。指先を落ち着かせる儀式。
王子の視線が、ベンチの彼女たちで止まった。
護衛のひとり――先ほどのカイルが、微かに顎を引く。
「殿下、こちらは転入のアルベルタ嬢と、同級のミレイユ嬢です」
紹介。逃げ場が消える音。
リリアは膝の上で手を組んだ。
言わなくていい。何も、言わなくて――
「はじめまして」
王子の声は、静かな湖面の波紋みたいだった。
「朝の講堂、助かった。誰かが、とても速い結界を張ってくれた。
“ありがとう”は、言えておきたい言葉だ」
胸が揺れる。
見られていた? いや、断言はしていない。
リリアは、視線をほんの少し下げて会釈した。
王子は続ける。
「言葉が難しい時は、難しくない形で返してくれればいい。例えば、今のように」
ミレイユが目を瞬く。
王子はそれ以上詮索せず、庭の花に目を落とした。
「よく見ると、この季節には早い花が咲いている。誰かが手入れをしたのかな」
その言い方は、問いではなく、独り言の形にやさしく置かれている。
“話さなくてもいい場所”の作り方を知っている人の、言葉。
護衛に促され、王子一行は去る。
ミレイユが小声で「素敵」と漏らす。
リリアは、胸の中で何度も深呼吸した。
ありがとう、を言いたい。けれど、声が、まだ。
代わりに、膝の上のパンくずをきちんと紙に包んだ。
彼女にできる礼儀は、いつも小さく、静かだ。
◇◇◇
午後の実技。
対象は「微小制御」。ろうそくの炎を、言葉を使わずに一定高さで保つ。
クラスにざわめきが起こる。
「無詠唱なんて無理」「さっきみたいに黒板で済むかな」
教師が肩をすくめる。「できる範囲でやれ」
順番が回る。
リリアは炎の前に立つ。
空気の流れ、教室の呼吸、窓の隙間。
炎は、空気の舌で舐められている。
彼女は指先で、その舌の形をそっと変える。
炎が、ぴたりと高さを固定する。
言葉は、いらない。
クラスの一部が息を呑み、誰かが「すげ」と小さく言う。
彼女は礼をして席に戻る。
胸の鼓動は速い。けれど、それは恐怖だけの速さではなかった。
◇◇◇
夕暮れ。寮の窓から、赤い光が差し込む。
今日を思い返す。
喋れなかった回数。助けてもらった回数。
そして、言葉の代わりにできたことの数。
机の引き出しから、薄いノートを取り出す。
表紙に小さく金字。
『護衛行動録 リリア・アルベルタ』
一頁目に書く。
《対象:エリアス王子。性格:穏やか。観察:過剰に踏み込まない。
講堂結界:微細残滓、気付かれた可能性。近衛カイル:目が鋭い。
学内の風:所々に乱流。誰かが意図して流れを歪めているかも》
筆を止める。
“誰か”の像はまだ曖昧だ。
けれど、わずかな違和が確かにある。
沈黙の耳は、言葉よりも早くそれを聞き取る。
窓を開けると、遠くで鐘が鳴った。
門限の知らせ。
彼女は小さく息を吐き、指先を組む。
ここからが始まりだ。
喋れないからこそ、守れる背中がある。
沈黙は弱さではない。
沈黙は刃であり、盾であり、祈りだ。
リリア・アルベルタは喋れない。
だからこそ、最強だ。
――そして、その沈黙は今夜、最初の影を見つける。
廊下の角、見知らぬ生徒の手元で、黒い紙片がひらりと揺れた。
風はないのに、揺れた。
彼女の指は、無意識に魔力の節を数えていた。
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