喫茶店で定義は踊る

ばよねっと

第1話 意思疎通について

「――遅いわよ浮塚くん。さあ座って」


 小さな喫茶店の一角、窓際の席に座る弐子浦にしうら夏都香かづかは、目の前の空席を促すように右手を差し出す。

 浮塚うきづか一成いっせいはゆっくりとした足取りで夏都香の元にやってきた。


「遅いって…そんなわけないだろ、弐子浦」


「そう? 確かに時間を指定してない私が言えた立場じゃないか。まあそれだけ私が待ちわびてたってことで」


「で? 今日は何の用事なんだよ。…あ、コーヒーをアメリカンでお願いします」


 注文する一成に、夏都香は相変わらずにやにやと笑みを浮かべている。


「いや、この前の仕事がひと段落してさ。臨時収入もあったもんだから今日は私のおごり」


「ああ、あの逆神さかがみさんから頼まれてたってやつか。しばらくゼミにも顔を出さなかったし、教授からは色々探られて参ったよ」


「いやー悪かったね。まさか行き違いであんな面倒事に巻き込まれるなんて思わなかった。まぁその分は逆神のお嬢さんからボーナスをもらえたから良かったけどさ」


「それが臨時収入か、おつかれさま。それで今日の用事は?」


 夏都香は少しだけ一成の方に顔を寄せた。


「この前の仕事で思うところがあってさ――私たちって、他人と本当に意思疎通が取れてると思う?」


「…弐子浦、僕はいま恐怖を感じている。いきなり人を呼びつけておいて『人間は意思疎通が取れているのか』だって? じゃあ僕はどうしてここにいるんだ」


 あきれた様子の一成を見て、夏都香は満足げに微笑む。


「そうね。浮塚くんは私に呼び出されてここに来た。これは意思疎通が取れたからだろう、と」


「そりゃそうだろ」


「じゃあ“意思疎通が取れない”ってなんなんだろうね。浮塚くんがやって来なかったら“意思疎通が取れなかった”?」


 店員が運んできたアメリカンコーヒーがふわりと二人の間に香る。


「…それは違うだろ。弐子浦が言うことは分かったにしても、そのときの僕に予定があって来なかったのかもしれない」


「じゃあ来るか来ないかは関係ない。それなら、言葉を理解できない猫に私が『にゃあ』と鳴いても、意思疎通が成立したと認めてくれる?」


「…あのさ、それは前提からもうおかしい。この話を膨らませたいんだったら、そもそも意思疎通そのものの定義から……待てよ、意思疎通を定義したところでどうする? 何をもって確認するんだ?」


「そう。意思疎通を定義し、その尺度を数量でも状況でもどう測ってもいいけれど――どうやってそれを確かめるのか」


 夏都香はグラスの中の氷に目を向けた。


「喫茶店に来てくれたのは自分の意志? それとも嫌々ながら? 私の言葉は理解している? たまたま結果だけ理解したように見えただけ? お互いに意思が伝わっているだなんて、どうやって確かめるんだろうね?」


「それは無理だ。人の心を確かめるなんて、そんな超能力でもないと…」


「そう、一見意思疎通ができたようであってもそれを証明する方法はなく、真の意味での意思疎通はそもそも存在し得ないんじゃない? だから私たちは信じるしかない。自分の意思が伝わった、あるいは伝わっていないのだと。だなんて言う割に、実際のところ人の意思は個人で閉じていてどこにも繋がってなんかいない、自分の思い込みを信じるしかないなんて、むなしいものよね」 


 喫茶店に僅かな沈黙が訪れる。

 くるりとストローでグラスの中の氷をかき混ぜ、夏都香はオレンジジュースを飲んだ。

 一成も“彼女に合わせるように”コーヒーカップに手を伸ばし、そこではっと気づいたように手を取めた。


「本当にそうか?」


「――え?」


「確認する方法がなくても、相手に伝わっていようといまいと、意思を交わそうとした事実とその結果が消えるわけじゃない。猫に話しかける弐子浦だって、初めから伝わるかどうかなんて気にしてないだろ」


 一成の言葉に夏都香は表情を輝かせる。


「――いいね浮塚くん。続けて?」


「僕たちの心の中にあるものだけが意思なのか? 自分の中で完結させずに外界に働きかけをした。その行為こそが意思疎通なんじゃないのか?」


「意思疎通は“確認できないものが一致した状況”を指すものではなく、”個人の行為”そのものだと」


 一成はうなずいてテーブルを軽く指で叩いた。


「夏都香は僕に喫茶店に来いと言った。僕は喫茶店に来た。お互いが意思を示し、この状況が生まれたとするなら? 猫に話しかける弐子浦と、そっけなく立ち去る猫。そこにも意思疎通があったって言えるだろ」


「それはずるいわね。本当にずるい。それだったら私が鳴いた瞬間に意思疎通が成り立っちゃうじゃない」


「“確かめようがない”だろう? でもそこには確実に行為がある」


「それって、意図的だろうと偶然だろうと、なんだって行為にしちゃうつもりじゃない。なんて乱暴」


 夏都香はおかしそうに笑った。


「弐子浦の定義なら意思疎通なんてどこにもないんだろうけど、僕の定義なら、まさにいま、このやり取りこそが意思疎通なんだよ」


「……浮塚くんがそう言うなら、ちょっといい?」


 身を乗り出した夏都香に一成が顔を寄せると、


「――『にゃあ』」


 夏都香は耳元で静かに


「じゃあ、この“意思疎通”の結果はどうなる? 完全スルー?」


「そうだな……悪いけど、今日の支払いは僕だ」


「便利ねこれ。次も使ってみようかしら」


 夏都香が肩を震わせてくすくすと笑うのを見て、一成は残りのアメリカンコーヒーを一気に飲み干して苦笑した。

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