写っていない人  ~ あなたの写真、もう一度見てください~

ソコニ

第1話 写っていない人



## 一


「ねえ、この写真、何人写ってる?」


妻の声に、俺は新聞から顔を上げた。リビングのテーブルで、彼女はスマートフォンを見つめている。


「どれ?」


「ほら、先週の公園でのやつ」


画面を覗き込む。娘の七歳の誕生日に撮った家族写真だ。俺、妻、娘の美咲、それに妻の母親。四人全員が笑顔でカメラを見ている。


「四人だろ」


「……そう、だよね」


妻の表情が曇る。


「どうした?」


「ううん、なんでもない。光の加減かな」


それきり、妻は何も言わなかった。


---


## 二


翌朝、俺は妻が見ていた写真をもう一度開いた。


四人の家族。青い空。噴水の前。


……待て。


画面を拡大する。背景の木々の間。そこに、何かがある。


人の形をした、影。


いや、影ではない。服を着ている。白いシャツに黒いズボン。こちらを向いている。


心臓が跳ねる。


俺は写真フォルダを遡った。同じ日に撮った別の写真を開く。


噴水の前で娘がアイスを食べている写真。その奥、ベンチの端に――同じ人物がいる。


今度ははっきりと見える。中年の男。こちらを見ている。


「パパ、朝ごはんだよ」


美咲の声に、俺はスマホを落としそうになった。


---


## 三


「この人、誰だか分かる?」


夕食後、俺は写真を妻に見せた。拡大して、その男の姿を指で示す。


妻は首を傾げた。


「誰って……ベンチ?」


「そう。ほら、ここ」


「何も写ってないけど」


「え?」


俺はもう一度画面を見る。男は確かにそこにいる。白いシャツ。黒いズボン。無表情でこちらを見ている。


「冗談だろ? ほら、ここだよ」


妻は真剣な顔で画面を凝視した。


「……本当に何も見えない。ベンチだけ」


背筋に冷たいものが走る。


「美咲、ちょっと来て」


娘を呼び、同じ写真を見せる。


「この人、誰?」


美咲は即答した。


「誰もいないよ? パパ、変なの」


---


## 四


その夜、俺は過去の写真をすべて確認した。


去年の夏休み、海での写真。パラソルの下、家族の後方に――男がいる。


春の花見。桜の木の下で笑う家族。その背後の人混みの中に――男がいる。


美咲が生まれた日の病院での写真。廊下の奥、窓際に――男がいる。


いつも同じ男。白いシャツ。黒いズボン。無表情。


そして常に、俺たち家族を見ている。


震える手で、一番古い写真を開く。


結婚式の集合写真。


男は最後列の端にいた。他の誰もいない空間に、ぽつんと一人で立っている。


「見えているのか……」


声が掠れた。


「誰が? 何が?」


---


## 五


翌日、俺は義母に電話をかけた。


「先週の公園の写真なんですが、あれ、他に誰か写ってませんでしたか?」


「誰かって? 私たち四人だけだったじゃない」


「背景とか、遠くに――」


「何も覚えてないわよ。どうしたの? 変なこと聞くわね」


電話を切ると、妻が心配そうに俺を見ていた。


「ねえ、最近疲れてない? 仕事、忙しいんでしょ?」


「……いや、大丈夫」


俺は作り笑いを浮かべた。


---


## 六


それから一週間、俺は写真を撮るのをやめた。


だが、昨日、美咲の学校行事で、妻が勝手に家族写真を撮った。


今朝、その写真を見た。


男は俺の隣に立っていた。


俺と同じくらいの距離で。同じようにカメラを見て。


そして――


男の手が、俺の肩に置かれていた。


「おはよう、パパ」


美咲が階段を降りてくる。


俺は震える手でスマホを握りしめた。


「美咲、パパの隣、誰がいる?」


「え? ママでしょ?」


写真を見せる。男は確かにそこにいる。俺の肩に手を置いて、カメラに向かって――笑っている。


「誰もいないよ? パパ、本当に大丈夫?」


---


## 七


昨夜、俺は眠れなかった。


男の顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。


あの笑顔。


なぜ笑っているんだ。


なぜ俺にしか見えないんだ。


なぜ、最初からそこにいたんだ。


「パパ」


美咲の声に、俺は飛び上がった。


「どうしたの? さっきから、ずっとあっちを見てる」


「あっち?」


「そこ」


美咲が指差したのは、リビングの窓だった。


俺は窓の外を見る。


何もいない。


夜の闇だけ。


「誰もいないよ」俺は言った。


「そう……でも、パパ、すごく怖い顔してるよ」


美咲は不安そうに俺を見上げた。


---


## 八


今朝、妻がセルフィーを撮ろうと言った。


「久しぶりに三人で」


「いや、今日は――」


「パパも!」美咲が俺の手を引く。


逃げられなかった。


カメラが俺たちを捉える。


妻が笑顔でシャッターを切る。


「はい、撮れた! ……あれ、ブレちゃった。もう一回」


二回目。


三回目。


「おかしいな、ピントが合わない」


俺は分かっていた。


男が、写り込んでいるから。


「もういいよ」俺は言った。


「でも――」


「いいんだ!」


声が大きくなった。妻と美咲が、びくりと身を引く。


「ごめん……ごめん。ちょっと、疲れてるんだ」


---


## 九


昼過ぎ、俺は一人で公園に行った。


最初に男を見つけた場所。


噴水の前に立つ。


「誰だ」


声に出して言った。


「誰なんだ、お前は」


風が吹く。


噴水の水音だけが響く。


ポケットのスマホが振動した。妻からのメッセージ。


『美咲が心配してる。早く帰ってきて』


その下に、添付された写真。


今、家のリビングで撮ったらしい。妻と美咲が、こちらに手を振っている。


そして――


ソファに、男が座っていた。


家に。


俺の家に。


俺が、いない時に。


---


## 十


走って家に戻った。


玄関のドアを開ける。


「ただいま!」


「おかえり」妻の声。


リビングに駆け込む。


妻と美咲がテレビを見ている。ソファには誰もいない。


「……今、誰かいなかった?」


「え? いないけど」


俺はその場に立ち尽くした。


美咲が振り返る。


「パパ、一緒にテレビ見よ」


「ああ……」


ソファに座る。ちょうど、写真で男が座っていた場所。


座面が、温かい。


---


## 十一


その夜、俺は決意した。


すべての写真を削除する。


スマホを開く。フォトアプリ。


削除ボタンを押そうとして――手が止まる。


最新の写真。


さっき、リビングで妻が撮ったもの。


男が座っている写真。


その男の顔を、拡大する。


そして、気づいた。


男の首から、何かが下がっている。


IDカード。


さらに拡大。


画像が粗くなるが、かろうじて読める。


名前。


俺の、名前だ。


---


## 十二


「なあ」


翌朝、妻に尋ねた。


「俺、おかしくなってないよな?」


妻は困ったように笑った。


「何言ってるの。いつも通りじゃない」


「いつも通り……」


鏡を見る。


いつもの俺。


でも。


「ねえ、俺、ちゃんとここにいるよな」


「当たり前でしょ? 変なこと聞かないでよ」


妻がキッチンに戻る。


俺はもう一度、鏡を見た。


鏡の中の俺は、確かに笑っている。


でも、俺は笑っていない。


---


## 十三


昨夜、夢を見た。


男が、俺の部屋に立っている。


ベッドの脇。


じっと、俺を見下ろしている。


「誰だ」俺は夢の中で叫ぶ。


男は何も言わない。


ただ、ゆっくりと手を伸ばす。


俺の顔に触れようとする。


その瞬間――


目が覚めた。


汗びっしょり。


妻は俺の隣で眠っている。


部屋には誰もいない。


……いや。


暗闇の隅。


何かが、動いた気がした。


---


## 十四


今日、会社で同僚が言った。


「お前、最近元気ないな」


「そうか?」


「鏡見てみろよ。顔色悪いぞ」


化粧室の鏡。


確かに、顔色が悪い。


目の下に隈ができている。


頬がこけている。


まるで、誰かに生気を吸い取られているような――


ふと、鏡の中の背後を見た。


個室のドアが映っている。


そのドアの隙間から、


誰かが、


こちらを覗いている。


振り返る。


誰もいない。


もう一度鏡を見る。


やはり、誰かがいる。


---


## 十五


妻に、すべてを話した。


男のこと。


写真のこと。


鏡のこと。


妻は黙って聞いていた。


「……病院、行こうか」


「病気じゃない」


「でも――」


「俺は正常だ! 見えてるんだ、確かに!」


美咲が二階から降りてきた。


「パパ、どうしたの?」


俺は娘を抱きしめた。


「大丈夫だ。パパは大丈夫」


美咲の小さな体が震えている。


怖がらせてしまった。


「ごめんな」


顔を上げると、階段の上に


男が立っていた。


こちらを見下ろしている。


今度は、手を振っている。


まるで、挨拶するように。


---


## 十六


深夜。


俺は一人で居間にいる。


すべての写真を見返している。


結婚式。


新婚旅行。


美咲の誕生。


初めての遠足。


去年の正月。


先月の誕生日。


すべての写真に、男がいる。


そして気づく。


最近の写真ほど、男が近い。


最初は遠くの背景。


次は人混みの中。


次はテーブルの向こう。


次は隣。


そして今――


最新の写真を開く。


今朝、妻が撮った朝食の写真。


男は、俺の椅子に座っている。


俺は、写っていない。


---


## 十七


「パパ!」


美咲の叫び声で目が覚めた。


気づくと、ソファで眠っていた。


「どうした?」


「パパ、すごくうなされてた」


時計を見る。朝の六時。


「悪い夢、見てた?」美咲が心配そうに尋ねる。


「ああ……でも、もう大丈夫」


娘の頭を撫でる。


温かい。


生きている。


現実だ。


「美咲」


「なあに?」


「パパのこと、好きか?」


「当たり前じゃん! 大好きだよ」


美咲が笑う。


その笑顔が、眩しい。


こんなに愛しい存在を、俺は守らなければ。


たとえ、この世界が狂っていても。


---


## 十八


妻が買い物に出た。


美咲は二階で宿題をしている。


俺は一人、居間で写真を見ている。


もう、怖くない。


ただ、知りたい。


お前は誰だ。


何が目的だ。


なぜ俺を――


スマホが震えた。


妻から着信。


「もしもし」


『ねえ、あなた今どこ?』


「家だけど」


『嘘でしょ? さっき駅前で見かけたわよ』


「は? 俺はずっと家にいる」


『でも確かに……白いシャツに黒いズボンで――』


電話が、手から滑り落ちた。


---


## 終章


それから、何日経ったのか分からない。


妻は俺を見るとき、ためらう。


美咲は、俺を避ける。


「パパじゃないみたい」と、昨日泣いた。


鏡を見る。


確かに俺だ。


でも、本当に?


スマホを開く。


家族写真。


俺は写っている。


妻の隣で笑っている。


でも、よく見ると――


その「俺」の目が、


どこか、


虚ろだ。


そして気づく。


最新の写真には、もう男が写っていない。


消えた。


いや、違う。


男は消えたんじゃない。


男は――


ドアが開く音がした。


妻が帰ってきた。


「ただいま」


俺は立ち上がる。


妻が買い物袋を置いて、俺を見た。


その目に、一瞬、恐怖が浮かぶ。


「……おかえり」


俺は言った。


妻は何も言わない。


ただじっと、俺を見ている。


まるで、


初めて会った人間を見るように。


---


**了**




### あとがき


あなたの写真を、もう一度見てください。


そこに写っているのは、本当に「あなた」ですか?


それとも――

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