第4話 バルス

 ある夏の夜、ぼくは自宅で途方に暮れていた。


 ぼくの目の前にはトイレの便器。

 その便器には、フチのキワまでたっぷたぷの水が湛えられていた。


 一体どうしてこんなことに……。





 少しだけ時を戻そう。


 その日、会社から帰宅したぼくがまずしたことといえば、いつものように玄関のシューズボックスの上に鍵とカバンを置いて、その流れでトイレのドアを開くことだった。


 一旦リビングで落ち着いてしまうと立つのが面倒になってしまうので、先にトイレとか着替えとかを全部済ませてから寛ぐ。

 これが短い夜を楽しむための、ぼくのちょっとしたルーチンなのだ。


 それはいいとして、トイレに話を戻そう。

 便座のフタを上げたら、便器の中に流し忘れの紙が浮いていることに気が付いた。


 じつはうちのトイレには自動洗浄という便利な機能がついていて、便座に座った状態から立ち上がると勝手に水が流れるようになっている。


 そのため基本的に流し忘れはないはずなのだけど、短い間隔で連続して使用した場合などにはこの機能が働かないこともあるため、その際は手動で流すことになる。

これを誰かが忘れたのだろう。


 ということで、ぼくは壁付けコンパネの「流す|大」ボタンを押した。


 ところが。


 本来なら便器の底の排水口に一旦吸い込まれて下がるはずの水位が一切下がらず、タンクから新たに投入されたぶんだけ水位が上昇してきた。


 うわあ……。

 これ、完全に詰まってるな。


 ぼくは右手でトイレ掃除用のブラシを握り、左手を便座に置いた。


 しかし勢いで構えてはみたものの。

 ここからのプランが見えてこない。とりあえずブラシを手にしたけれども、この道具では詰まりを解消できないし、そもそも柄の長さが短くて排水口の奥まで届かない。


 さて、どうしようかな。

 そう思いながらぼくは中腰を起こして左手を便座から離した。


 その時だった。


 ジー……


 例の自動洗浄機能が作動する予兆となる低い機械音が鳴り始めた。

 いちど便座に手を置いて離したことでセンサーが反応してしまったようだ。


 自動洗浄機能に連動するタンク横の手動流水レバーがゆっくりと手前に倒れる。


 え、え、嘘でしょ?


 そんなぼくの思いむなしく、タンクの栓が開いて水が放出される音。

 もう誰にも止められない。


 ジョン、ジョワー


 元々がいつもよりも高い位置にあった便器内の水位。そこに追加で1回分の水が加わることになった。


 予想通り、いや予想を上回るスピードで水位が上がりはじめる。


 ストップ! ストーップ! 

 ストォーーーッピン!!


 便器に向かって叫ぶぼく。しかし無情にも水位は上がり続ける。


 あ、これ、もうアカン……あふれる。


 そう諦めかけたとき、ようやく水位の上昇は止まった。


 フチのギリギリ。なんなら表面張力で持ちこたえているくらいに奇跡的なギリギリタプタプだ。

 ちょうど枡酒「もっきり」みたいになっている。粋だねえ!

 たぶんここにコインを1枚でも放り込んだらその瞬間に決壊する。


 騒ぎを聞いたヨメと子供たちが集まってきた。


 「パパ、これ……」


 水タップタプの便器を目にして全員が絶句する。

 そして同時に「エライことやらかしてくれたな君……」みたいな冷たい視線がぼくに集中する。


 いやいや違うよ。ぼくがやったんじゃないよ?

 あれ? やったのはぼくか。

 違う違う。やったのはぼくだけど、ぼくのせいではない。


 ともかく、これをどうにかしないと。





 そして途方に暮れる。


 一体どうしたらいいんだ。業者呼ぶしかないか。だけどこの時間に来てくれるかな……。


 するとヨメが思い出したように「いい道具があるわ」とか言いながら吊り戸棚を探し始めた。


 出てきたのは、子供の水鉄砲……みたいなやつ。


 形状は『天空の城ラピュタ』でパズー少年がムスカと対峙したときに構えていたやつに似ている。

 パズーが「それとも、その大砲で私と勝負するかね?」と言われていたやつだ。


 なんだこれ?



 聞けば、前回トイレが詰まったときに業者を呼んだら出張料含め3万円もかかったので、次回からは何とか自分で対処できないかと考えたそうで。


 業者さんの作業を後ろで見ていたところ、特に難しそうな作業をやっているわけでもなく、道具を排水口に突っ込んでピストンを押したり引いたりしてただけ(ヨメの主観)なので、道具さえあればイケるのではないかと。


 「なるほど、それでこの大砲がその時の道具?」


 「いや……通販で探したら一応同じのは見つかったんだけどね、2万円くらいしたからちょっと安いの買ったの」


 「業者呼んで3万円取られること考えたら2万円でも良かったんじゃないの? ちなみにおいくら?」


 「2千円くらい」


 「やっす……」


 どおりで、テカテカのプラスチックが妙に安っぽいとは思ったんだ。思った以上の安さに少し不安になる。

 ただ、現状これに頼るしかないので文句言っても仕方ないのだけれど。



 この大砲の正体は、空気銃である。


 使用前に銃身下のピストンを何回か前後させると内部に空気が圧縮され、引き金をひくことでその空気が一気に射出されるというシンプルな仕組み。


 そんな説明が日本語の怪しいマニュアルに書いてあった。不安だ。



 まあ、悩んでも仕方がないよね。

 どんな物事にもリスクはある。

 それでも勇気をもって”跳んだ”奴だけが栄冠を手にするのだ。


 便器内を見ると、上の一連のやりとりをするうちに若干ではあるが水位が下がってきていた。


 これは、完全に1滴の水さえ通さないほどに塞がっているわけではないという事実を示している。

 まだ付け入る隙は、ある。



 ぼくはゆっくりと、大砲の先を便器に差し入れた。


 銃身には、すでにピストン10回分の空気が圧縮されている。

 マニュアルには最大10回までと書いてあったので、これがフルパワーだ。

 それ以上に空気を圧縮すると、便器を破損させたり、この銃身自体が破裂するおそれがあるのだとか。なんだよそれおっかねえ。


 そして銃口を排水口に押し当てる。あとは引き金をひくだけだ。


 溜まりに溜まった空気のパワーを詰まりの原因に直接ぶつけるわけだ。


 オラ、なんだかワクワクすっぞ……!



 ぼくは心静かに、引き金をひいた。


 ――バルス!


 バァン!


 短い銃声のあと、便器内に貯まっていた水がもんのすごい勢いで外へと爆散した。


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