新居

 新しいアパートに移って、すでに一週間が過ぎた。


 ここの大家さんと、ボロアパートの大家は知り合いだったらしく、本契約にいくまでそれほど時間はかからなかった。

 それに私物も少なかったため、引っ越しも難なく済んだのは幸いだった。

 

 だが、物件の意味がいまいちわからない。

 他の部屋より家賃が安いとのことだが、あの不動産屋のおっさんは、どこが訳ありなのかはっきりとは言わなかった。


 今日は休日と言っても、極度の出不精の俺は外出などもってのほか。

 家にいるときは、なるべく服は着たくない。とは言っても全裸ではなく、最低限のシャツとパンツぐらいは着けている。


 そういえば、あの子、どうしているんだか。

 電話番号を教えたはいいが、何も連絡がない。気持ち悪くて捨てただろう。

 当然と言えば当然だろう。知らないおっさんからさ、いきなり番号渡されてよ、すぐ電話するような子がいるかっての。


 まったく、どうしてあんなことしたんだろうね。

 住む前から『部屋空いてる』なんて言ってしまった。うまいこと入れたからいいようなものの、もし今でもボロアパートにいたら、いったいどうするつもりだったんだよ、俺は!


 はーっと息をついて、床に大の字に寝っ転がり目を閉じた。

 ふと、彼女の顔が浮かび上がる。たった一回見ただけで、こんなにも鮮明に覚えているもんなのかと思うぐらい、はっきりと見えた。


 突然、テーブルの上にあったスマホが鳴った。

 もしや、と慌てて飛び起きたが、画面を見ると『永田』の文字。俺はチッと舌打ちして電話に出た。


「おい、休みの日まで電話かけてくんじゃねえよ」


「いやぁ、すんません。オレは仕事なんですけどね」


 会社の後輩の永田からだった。緊急時以外、休日は電話するなと釘を刺していたのだが、職場で何かあったな。


「で、なんかあったのか」


「いや、実は、作業開始早々、工場の機械がぶっ壊れて、直りそうもないんです。ですんで、休み明けの月曜日、休みになりますのでよろしく」


「おお、こりゃ儲けた。でもお前、これからどうすんだ? 仕事にならんだろ」


「いや、まあ、残りの片づけとかして、半日で上がる予定ではいますけど……おー、もしかして誰かからの電話、待ってましたか?」


 こいつの勘は恐ろしく鋭くて気味が悪い。


「別に、そんなんじゃねえよ」


「ハハッ、照れなくてもいいんですよ。女の人でしょ」


「うるせえな、切るぞ」


 俺は慌てて電話を切った。こいつは俺のこと見ているのか?


 しかしなぁ、この年になって女の子からの電話待ってるなんてな。期待するだけ無駄ってもんだ。いや、そもそも何を期待してるんだ?


 自問自答していると、また着信音が鳴った。

 今度は知らない番号だ。まさか、な。普段、知らない番号は絶対出ないが、もしかしてもあるしな。


「……もしもし」


「……もし、あ、あの~。あっ、はあ」


 なんだ、これ。なんか、エロいな。新手の詐欺電話か?

 吐息のような、声にならない声というのか、そんなのがしばらく続いた。


「もしもし、どちらさんですか」


「おい、しっかりしろっ。エロいぞっ」


 女性の声に混じって、男の声がはっきりと聞こえた。


「……もしかして、不動産屋にいた?」


「あ、はい、そうです。私、あの、ふぅ~」


 なんか深呼吸してる。だいぶ緊張しているようだな。


「ゆっくりでいいから。どうして電話くれたか教えてくれるかな」


 俺らしくない喋り方で鳥肌が立つが仕方ねえ。初めて話す子だもんな。


「……私、住み込みで働いています。健康ランドで」


「それで?」


 会社の慰労会かなんかでたまに行くところか。


「えっと、部屋まだ空いてますか? あの……ねえ、どうしよう、やっちゃん」


 そのあとに「聞くなよっ、バカ」と男の声が聞こえた。

 あの時の彼女であることは間違いないようだが、男は友人か、それとも……。


「空いてはいるけど。どうする? 住所、送ろうか」


「はあぁ、あっりがとうございます。助かります」


「じゃあ、一旦切るよ。いいね?」


「あ、はい」


 俺は電話を切った。スマホを持つ手が汗ばんでいる。

 彼女だけでなく、どうやら俺も緊張していたようだ。


 ショートメールには、ここの住所と道に迷ったら不動産屋で聞けと一言添えて送信した。

「ありがとうございます」とすぐに返信が来たが、はたして大丈夫なんだろうか。


 あのたいして流行っていないように見える健康ランドから来るのか。

 年寄しか行かないようなところで住み込みとな。しかも男と一緒に?


 まあ、いいさ。来たら来たで、そのとき考えよう。

 まずは無事に到着することを祈ろう。



 玄関のチャイムが鳴った。あのやりとりから一時間は過ぎている。

 俺はいつの間にか眠っていたらしい。体が固まって、しばらく動けないでいたが、それでもチャイムは鳴り響く。


 やっとで起こした腰をさすりながら、玄関のドアスコープを覗き込んだ。

 あのときの彼女だ。頬が紅潮していて息も弾んでいるようだった。


「いらっしゃい」


 ゆっくりドアを開けると、俺を見るなり彼女は目を丸くした。


「お、おやすみのところ申し訳ありません」


 ……あ、しまった。シャツとパンツしか着ていない。

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