明日の僕が、今日の僕を殺しに来る――未来は記憶を持ち、過去は終わらない――

ソコニ

第1話「明日の僕が、ドアを叩いている」


 深夜2時13分。スマホの画面が、闇の中で青白く光っている。

 俺は眠れなかった。

 理由は分からない。ただ、何か――胸の奥に、小さな棘が刺さっているような感覚があった。

 明日の仕事のことを考える。上司の顔を思い浮かべる。やり残したタスクを数える。でも、それは別に珍しいことじゃない。いつものことだ。

 なのに、今夜は違う。

 何かが、おかしい。


 ――コン、コン。


 ドアを叩く音がした。

 俺は、ベッドから跳ね起きた。

 心臓が、一拍遅れて激しく脈打つ。


 誰だ?

 こんな時間に。


 スマホを握りしめたまま、俺はそっとベッドから降りた。フローリングが、冷たい。足音を立てないように、ドアへと近づく。

 アパートの廊下は、蛍光灯の白い光で満たされている。ドアの覗き穴から外を見ると――


 誰かが、立っている。


 俺は、息を止めた。


 それは――**俺だった**。


 いや、違う。俺じゃない。でも、俺だ。

 同じ顔。同じ輪郭。同じ目の形。

 でも、**服装が違う**。

 俺は今、黒いTシャツを着ている。でも、外に立っている「俺」は、グレーのパーカーを着ていた。そして――


 **血まみれだった**。


 顔に、無数の傷。額から血が流れている。パーカーの袖は破れ、右腕に深い裂傷。それでも、「俺」は立っていた。

 じっと、ドアを見つめて。


 ――コン、コン。


 また、ノックの音。

 でも、「俺」の手は動いていない。

 ノックしているのに、手が動いていない。


 「開けろ」


 声が、ドア越しに聞こえた。

 俺の声だ。でも、少しだけ掠れている。疲れ切ったような、それでいて――何かに追い詰められたような声。


 「開けろ。頼む」


 俺は、後ずさった。

 背中が、壁にぶつかる。


 「お前を殺さないと――」


 「俺」が、言った。


 「――俺が、消える」


 心臓が、破裂しそうだった。

 何を言っている?

 消える?

 殺す?


 俺は、震える手でスマホを操作した。110番。警察。そうだ、警察を呼ぼう。

 でも、指が動かない。

 画面を見つめたまま、俺は固まっていた。


 なぜなら――外にいる「俺」が、覗き穴の向こうから、こちらを見ていたからだ。

 目が、合った。

 「俺」の目は、虚ろだった。でも同時に、何かを――**強烈に求めている**目でもあった。


 「開けろ」


 また、声。

 今度は、低く、静かに。


 「開けないと――お前が、明日、こうなる」


 俺は、息を呑んだ。


 「俺」は、自分の顔を指差した。血まみれの顔を。傷だらけの腕を。


 「これが――お前の、明日だ」


 違う。

 そんなわけがない。

 だって、俺は今、ここにいる。部屋の中にいる。無傷で。


 「今のお前は、昨日の俺だ」


 「俺」が、言った。


 「そして明日――お前は、俺になる」


 意味が分からない。

 でも、なぜか――**わかる気がした**。


 「開けろ。お前を殺す。そうしないと、俺が消える」


 ドアが、揺れた。

 「俺」が、ドアノブを回している。

 鍵は、かけてある。でも、ドアノブがカタカタと音を立てる。


 「開けろ――ッ!」


 叫び声。

 それは、完全に俺の声だった。


 俺は、床に座り込んだ。

 スマホを握りしめたまま。

 電話は、かけられなかった。


 ――ドン、ドン、ドン!


 ドアを叩く音が、激しくなる。

 蹴っているのか? 体当たりしているのか?

 ドアが、軋む音がする。


 「開けろ! 開けろ! 開けろッ!」


 叫び声が、廊下に響く。

 でも――誰も来ない。

 隣の部屋も、上の階も、何の反応もない。


 まるで、俺と「俺」以外、誰もいないみたいに。


 俺は、両手で耳を塞いだ。

 目を閉じた。

 これは夢だ。

 夢に決まっている。

 明日、目が覚めたら、全部忘れている。

 そうだ。そうに決まっている。


 ――ドン!


 最後の一撃。

 そして――静寂。


 俺は、恐る恐る目を開けた。

 耳を塞いでいた手を、ゆっくりと下ろす。


 何も聞こえない。

 ドアを叩く音も、叫び声も。


 俺は、立ち上がった。

 足が震えている。

 それでも、ドアに近づく。


 覗き穴から、外を見た。


 ――誰もいなかった。


 廊下には、誰も。

 蛍光灯の白い光だけが、冷たく床を照らしている。


 俺は、ドアに額を押し当てた。

 冷たい。

 現実だ。

 これは、現実だ。


 でも――何が起きたんだ?


---


 朝6時。

 俺は、一睡もできなかった。

 ベッドに戻ることもできず、ずっとドアの前に座っていた。スマホを握りしめたまま。


 アラームが鳴る。

 いつもの、無機質な電子音。


 俺は、立ち上がった。

 仕事に行かなきゃ。

 いつも通りに。


 シャワーを浴びた。

 冷たい水を顔に浴びせ、鏡を見る。

 そこには、いつもの俺がいた。

 傷ひとつない。血も、ない。


 昨夜のことは――何だったんだ?


 幻覚?

 夢遊病?

 それとも――


 俺は、首を振った。

 考えても仕方ない。

 仕事に行こう。


---


 アパートを出て、駅へ向かう。

 いつもの道。いつもの朝。

 コンビニの前を通り過ぎ、横断歩道を渡る。


 でも――胸の奥の棘は、まだ刺さったままだった。


 信号待ちをしている時、ふと視線を感じた。

 誰かが、こちらを見ている。


 俺は、顔を上げた。


 そして――**固まった**。


 横断歩道の向こう側に、**俺が立っていた**。


 いや、違う。

 昨夜の「俺」だ。


 **グレーのパーカーを着た、傷だらけの、血まみれの――俺**。


 でも、今は違う。

 傷は、ない。

 血も、ない。

 ただ――服装が同じだった。

 昨夜、覗き穴越しに見たのと、全く同じグレーのパーカー。


 「俺」は、こちらを見ていた。

 じっと。

 動かずに。


 信号が、青に変わった。

 人々が、横断歩道を渡り始める。


 俺は、動けなかった。

 足が、地面に張り付いたみたいに。


 「俺」が、歩き出した。

 こちらに向かって。

 人混みの中を、まっすぐに。


 近づいてくる。

 5メートル。

 3メートル。

 1メートル。


 ――すれ違った。


 その瞬間、「俺」が――**微笑んだ**。


 ほんの少しだけ、口角を上げて。

 まるで、何かを知っているかのように。


 俺は、振り返った。

 でも、「俺」の姿は、もう人混みに消えていた。


---


 会社に着いても、仕事が手につかなかった。

 パソコンの画面を見つめているが、何も頭に入ってこない。


 あれは、何だったんだ?

 昨夜の「俺」と、今朝の「俺」は――同じ人間なのか?


 いや、そもそも――あれは本当に俺なのか?


 双子?

 ドッペルゲンガー?

 それとも――


 「大丈夫?」


 隣の席の同僚、リサが声をかけてきた。


 「え? ああ、大丈夫」


 俺は、慌てて答えた。


 「顔色悪いよ。昨日、ちゃんと寝た?」


 「うん……まあ」


 嘘だ。一睡もしていない。


 リサは、心配そうに俺を見ていたが、やがて自分の仕事に戻った。


 俺は、再びパソコンの画面を見つめた。

 でも、映っているのは――スプレッドシートではなく、**あの微笑み**だった。


 昨夜、「俺」は言った。

 「明日、お前は俺になる」


 そして今朝、「俺」は――**俺が着る予定だった服を着ていた**。


 いや、違う。

 「着る予定だった」じゃない。


 俺は、ハッとした。


 今朝、シャワーを浴びた後――何を着ようか迷った。

 黒いシャツか、グレーのパーカーか。

 結局、黒いシャツを選んだ。


 でも――**もし、グレーのパーカーを選んでいたら**?


 もし、グレーのパーカーを着て、駅に向かっていたら?


 俺は――**あの「俺」と、全く同じ姿だった**。


 ゾッとした。

 背筋に、冷たいものが走る。


 まさか――


 「今のお前は、昨日の俺だ」


 昨夜の声が、脳内に蘇る。


 「そして明日――お前は、俺になる」


 俺は、立ち上がった。


 「ちょっと、トイレ」


 誰にともなく言って、席を離れた。


 トイレに駆け込み、個室に入る。

 鍵をかけ、便座に座り込んだ。


 スマホを取り出す。

 手が震えている。


 ブラウザを開き、検索する。


 「自分と同じ人間」

 「ドッペルゲンガー」

 「未来の自分」


 何を調べればいいのかも、わからない。

 出てくるのは、オカルトサイトか、都市伝説のまとめばかり。


 意味がない。


 俺は、スマホを握りしめたまま、目を閉じた。


 深呼吸。

 落ち着け。

 落ち着くんだ。


 ――でも。


 頭の中で、声がする。


 「明日、お前は俺になる」


 もし、それが本当なら。

 もし――明日、俺が「あの姿」になるなら。


 明日の夜、俺は――**今日の俺を、殺しに行くのか**?


 俺は、唇を噛んだ。

 血の味がした。


---


 その日は、早退した。

 体調不良、と嘘をついて。


 アパートに戻ると、すぐに鍵をかけた。

 チェーンロックもかけた。

 それでも、不安だった。


 窓を確認する。

 ベランダに、誰もいない。


 部屋の中を見渡す。

 クローゼット、ベッドの下、浴室。

 誰もいない。


 俺は、ソファに座り込んだ。


 大丈夫だ。

 ここは、安全だ。

 誰も入ってこれない。


 でも――本当に?


 昨夜、「俺」は、ドアの外にいた。

 鍵がかかっていても、チェーンロックがあっても、入ってこようとした。


 もし――**次は、入ってくるかもしれない**。


 俺は、スマホを取り出した。

 110番。

 でも、何を言えばいい?


 「自分と同じ人間が、自分を殺しに来ます」


 そんなこと言ったら、頭がおかしいと思われる。


 俺は、スマホを床に置いた。


 考えろ。

 冷静に。


 もし、「あれ」が本当に未来の俺なら。

 もし、明日、俺が「あれ」になるなら。


 ――俺は、何をすればいい?


 逃げる?

 でも、どこに?


 戦う?

 でも、相手は――俺だ。


 俺は、頭を抱えた。


 わからない。

 何もわからない。


 ただ――ひとつだけ、わかることがある。


 **明日の夜、また「俺」が来る**。


 そして――**今度は、殺される**。


---


 夜10時。

 俺は、ベッドに横になっていた。

 でも、眠れるわけがなかった。


 部屋の明かりは、全部つけたままだ。

 ドアも、何度も確認した。


 スマホの画面を見る。

 時刻表示:22:34


 あと――3時間半。


 深夜2時になったら、また「俺」が来る。


 俺は、枕元にナイフを置いた。

 キッチンから持ってきた、果物ナイフ。

 刃渡り、10センチくらい。


 もし、ドアが壊されたら。

 もし、「俺」が入ってきたら。


 ――刺す。


 でも、相手は俺だ。

 俺が、俺を刺す。


 それって――**自殺と同じじゃないのか**?


 俺は、目を閉じた。


 頼む。

 これが、夢でありますように。


 明日、目が覚めたら――いつもの朝でありますように。


---


 ――コン、コン。


 俺は、目を開けた。


 スマホを見る。

 時刻表示:02:13


 **また、同じ時間**。


 ドアを叩く音が、聞こえる。


 俺は、ベッドから降りた。

 ナイフを握りしめて。


 ドアに近づく。

 覗き穴から、外を見る。


 ――**いた**。


 昨夜と同じ。

 グレーのパーカー。

 傷だらけ。

 血まみれ。


 でも、今夜は――**何かが違う**。


 「俺」の目が、こちらを見ていた。

 覗き穴越しに、まっすぐと。


 そして――**笑った**。


 「今夜は――開けてくれるよな?」


 声が、聞こえた。


 「だって――お前、もう、わかってるだろ?」


 俺の手が、震えた。


 「明日――お前が、ここに立つんだ」


 「俺」が、言った。


 「明日の夜――お前が、今日の自分を殺しに来るんだ」


 違う。

 そんなわけがない。


 「開けろ」


 静かな声。


 「開けて――そして、死んでくれ」


 「そうすれば――明日のお前は、存在できる」


 俺は、後ずさった。


 「開けないなら――」


 「俺」が、ドアに手を置いた。


 「――壊すぞ」


 ――ドン!


 ドアが、揺れた。


 俺は、ナイフを握りしめた。


 **来い**。


 来るなら――**刺す**。


 ――ドン! ドン! ドン!


 ドアが、軋む。

 ヒビが、入ったような音がした。


 そして――


 **バキッ**


 ドアが、壊れた。


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