第2夜 勝手口の喧騒
◇◇◇◇◇
白んできた空模様が東の果てからうっすらと朝焼けに染まる頃。路地裏にふたつの足音が響いていた。
辺りはまだ、しん……と静まり返っている。
ひんやりと立ちこめる霧がかすかに視界を遮る。吸い込んだ空気は湿っぽく、それでいてどこか清々しい。
草履にこすれた細かい砂利の音にまぎれて、時おり日の出を告げる虫たちの鳴き声が鼓膜を揺らした。
鈴を揺らしたようなその音色は、早朝のさわやかさをいっそう際立たせる。
「う~、さむっ……」
「くくっ、今朝は冷えるな」
「風呂、沸いてるといいなぁ」
「そうだな」
高い位置でひとつに結った
冷え込む朝の空気に比例して、今日はいい天気になりそうだ。
朝独特のひんやりとした風が、せまい路地裏に吹き抜ける。
この町の人たちの朝は早い。表通りからはすでに、軒先を掃く竹箒の音が聞こえ始めていた。
「おなかもすいたし、早く帰ろう」
「そうだな」
人目を避けるようにして、入り組んだ細い路地を足早に抜ける。
二人が足を止めたのは、市中郊外―
ここに世話になってもうどのくらい経つだろうか。宿を切り盛りする女将をはじめ、身の回りの世話を焼いてくれる仲居の面々とはずいぶんと打ち解けた仲になったものだ。
佑介は、慣れた様子で勝手口の引き戸に手をかける。
「
「ちょ!? この格好のときは『巴』って呼ぶなって、何度言えばわかるんだ、あんたは!」
戸を開けるや否や飛び出してきたのは、無造作に毛先を跳ねさせた
無遠慮に腰にまとわりつく男―
毎度お馴染みの光景に、隣に立つ朱里は苦笑いである。
「お! 朱里も一緒か! ご苦労だったな!」
「ただいま戻りました」
山科佑介―本名、山科巴は、
訳あって男物の着物を身にまとい男のように振る舞ってはいるが、彼女は正真正銘『女』である。
しかしこのご時世。立場上、男のふりをしているほうがなにかと都合がいい。
にもかかわらず、恭介は何度言っても本名で彼女を呼ぶのである。
「とりあえず、あんたはさっさと離れてください」
「なんだ! そんなに邪険にせんでもいいだろ!?」
「うるさい! いいから、はーなーれーろー!」
「だが断る!」
「まったく! なにやってるんですか、あなたたちは! 近所迷惑になるでしょう!?」
「いたっ!?」
一向に佑介から離れようとしない恭介の後頭部に、鈍い痛みが走った。
小気味よい音は、屋内から発せられた怒号とともに路地に反響する。
恭介の腕がゆるんだ瞬間を見計らって、佑介はそそくさと朱里の背に隠れる。
そして頭を押さえてうずくまる恭介の向こう、拳骨という名の制裁を加えた人物を
「おかえりなさい。長岡くん、佑介くん」
切りそろえられた
「創二郎! お前の声も十分でかいだろ!」
「だまらっしゃい! 恭介も恭介です! あなたには自覚が足りないんですよ! いいですか!? そもそもあなたは!」
「いや、八木さん……?」
突如始まった創二郎の公開説教に、彼のうしろに控えていた
できればそういうことは、部屋に戻ってからにしていただきたい。
創二郎の説教に負けじと恭介もいちいち彼に反論しているが、そのたびに言葉が二倍にも三倍にもなって返ってきていた。
「おふたりとも、朝なんでもうちょっと静かに」
「……聞こえてないな」
「だな」
「……はぁ~」
朱里の言葉に、進之助はがっくりと肩を落とした。
深々と吐き出したため息に、二人とも気がついてくれないだろうか。
うなだれる進之助は背すじを伸ばすと、口を真一文字に引き結んで腹に力を入れた。
肺いっぱいに大きく息を吸い込んで、一瞬呼吸を止める。
「あのぉー! 八木さぁーん?」
「なんです? あなたも静かになさい、船井くん」
先ほどよりも通る声で呼びかければ、創二郎は恭介の襟首を掴んだまま振り向いた。
ようやっと話を聞いてもらえそうである。
「とりあえず、中に入りませんか?」
進之助は苦笑いで開け放したままの戸口を指さす。
周囲に目をやれば、騒ぎを聞きつけた宿の者やら通行人やらが、何事かと店内や表通りから路地を覗き込んでいた。
図らずも注目の的である。これは非常に居たたまれない。
「コホンッ、ほら、あなたたちも早く入りなさい。ほら! ほらほら!」
その場を取り繕うように咳払いをひとつして、創二郎はみなを宿の中へと追いたてた。
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