第2話『歪む鏡像と閉ざされた森』

 館での生活が一週間を過ぎた頃、私は新たな恐怖に直面することになった。

 二階の廊下の突き当たりに、埃をかぶった大きな姿見が置かれていた。

 金色の豪奢な縁取りが施された、かつては一級品だったであろう鏡。

 掃除が行き届いていないのか、表面は薄汚れている。

 何気なくその前を通り過ぎた時、視界の端に「何か」が映り込んだ気がした。


 振り返って鏡を覗き込むが、そこに映っているのはやつれた顔の私だけだ。

 気のせいか。

 しかし、その日から姿見の前を通るたびに、奇妙なことが起こるようになった。

 一瞬だけ、私の背後に長い黒髪をだらりと垂らした女が立っているのが見える。瞬きをすると、もういない。

 鏡の中の私が、私ではない表情をすることもある。

 私が無表情で立っているのに、鏡の中の私は口元を醜く吊り上げて嗤っているのだ。


 心臓が早鐘を打ち、冷たい汗が背中を伝う。

 そして、決定的な出来事が起きた。

 その日も、私は恐る恐る姿見を覗き込んだ。鏡の中の私は、いつもと同じ疲れ切った顔をしている。

 ほっと息をついた、その時だった。

 鏡の中の私の唇が、ゆっくりと動いた。声は聞こえない。

 けれど、その形ははっきりと読み取れた。


『に・げ・ら・れ・な・い』


 私は短い悲鳴を上げて、その場から逃げ出した。

 もう限界だった。幻覚なんかじゃない。

 この館には邪悪な何かがいる。私を狂わせようとする、悪意が存在する。

 私は館からの脱出を決意した。

 最低限の食料と水を鞄に詰め、誰にも気づかれないよう、早朝に裏口からこっそりと抜け出した。


 館の周囲は、深く暗い森に囲まれている。一番近い村まで、歩いて半日ほどの距離のはずだ。

 私は森の中に続く細い道を進んだ。

 だが、どれだけ歩いても森を抜けられない。

 おかしい。方角は合っているはずなのに。

 焦りが募る。日は傾き始め、森はさらにその不気味さを増していく。

 木々の隙間から誰かに見られているような視線を感じる。風の音が、あの囁き声に聞こえてくる。


 半狂乱で走り続けた末、私の目の前に現れたのは見覚えのある建物だった。

 蔦に覆われた石造りの壁、割れた窓ガラス。

 ――私が逃げ出してきた、あの館だった。

 どうして。どうやって戻ってきてしまったのだろう?

 まるで、強力な磁石に引き寄せられる鉄のように、私はこの館から離れられないのだ。


 絶望に打ちひしがれ、その場に崩れ落ちる。

 館の玄関扉が、ぎぃ、と音を立てて開いた。中から現れたのは、虚ろな目をした執事だった。


「エリアーナ様。お散歩でございましたか? もうすぐ夕食の時間でございます」


 彼の声には何の感情もなかった。私が必死の思いで逃げ出したことなど、まるで気づいていないかのように。

 私は悟った。

 この館そのものが一つの巨大な檻なのだと。

 そして私はその中で、じわじわと正気を削り取られていくのを待つだけの、哀れな囚人なのだ。

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