第25話 欲望に支配されて

佐伯陽翔が、俺の足元で泣き崩れている。


彼の嗚咽は、リビングの無機質な空間に響き、俺が長年かけて築き上げた鋼鉄の防壁を容赦なく揺さぶった。


「ルシアン様……お前を残して、先に死んでごめん」


その謝罪を聞いた瞬間、俺の全身を電流のような衝撃が貫いた。


その言葉は、俺の最も深い部分に封印されていた、最後の瞬間の光景を呼び起こした。炎上するアルカディアの街、血に染まるエリシアのドレス、そして、俺の胸の中で微かに呟かれた最期の言葉。


(エリシア…)


佐伯陽翔という高校生の皮を被りながら、その魂は、俺の命を救うために身を挺した愛しい姫、エリシア・グランディールそのものだと、改めて突きつけられた。


そして、エリシアとの邂逅は、『俺の父王や家族も、裏切りに加担していた』という、最も根深いトラウマの根源まで暴き出した。


俺は、自分自身を欺き、愛を否定し、刹那的な快楽に溺れることで何とか生き永らえてきた。だが、今、エリシアの魂が現れ、その痛みを共有し、「貴方を一人にしたのは私だ」と泣きながら謝罪している。


愛を信じることの危険性、裏切りの痛み、そのすべてから逃れようと固く閉ざしていたルシアンの凍った心が、陽翔の熱い涙によって、今、ひび割れ、溶け始めている。


「なぜ、お前が謝る」


俺は声を絞り出した。それは、教師としての冷静な声でも、軽薄な男の声でもない。千年の孤独を抱えた、王子の声だった。


「お前は、俺を庇って死んだ。俺は、愛する者を守れなかった。その責任を負うべきは、この俺だ」


『愛を信じたら、愛しい者を失う』――それが、俺のトラウマの根源だ。


陽翔は涙で濡れた顔を上げ、訴えかける。


「そうじゃない! 貴方は、俺を愛してくれた純粋さゆえに、家族の裏切り、家臣の裏切りを見抜けなかった。そして、裏切り者の剣から、自分を守ろうとした俺まで守れなかった! それは、貴方の罪ではない……!」


その言葉は、俺の心の奥底に響く。ルシアンの魂が、陽翔の言葉を、千年間渇望していた救済として受け止めようとしている。


(ルシアン……お前は、この瞬間を待っていたのか)


俺は、佐伯陽翔と初めて会った日のことを思い出した。


担任の山崎の急な辞任により、代行として赴任したあの朝。クラスの扉を開け、挨拶を終え、流れるような動作で生徒名簿に目を落とした瞬間、心臓が爆発するような錯覚に陥った。


佐伯 陽翔。


その顔。その瞳。その存在。


(エリシア!)


心の奥底で、千年の眠りについていたルシアンが、歓喜の声を上げた。まるで、待ち続けた奇跡の再来だと。俺の心は一瞬、純粋な喜びで満たされた。


だが、喜びはすぐに凍り付いた。


(この俺が、エリシアに会わせる顔があるか?)


俺はこの現世で、どれほどの女性と戯れ、愛というものを弄び、自己嫌悪に陥ってきた?


俺は、エリシアへの愛を貫き、最後まで高潔であろうとしたルシアンとは、かけ離れた『愛を信じられないが故、数々の女性を誑かしてきた最低野郎』だ。愛しい姫に再会したというのに、俺は既に心が汚れきっていた。


心の内のルシアンは、その場で再び身を潜めた。「俺は、エリシアを愛する資格はない」と。


それからだ。陽翔を見るたびに、俺の心は引き裂かれるようになった。


この数か月、ずっとこの激しい衝突が続いていた。


「最低、クズ野郎!」と罵倒されたとき、ルシアンは「その通りだ。許されない」と嘆いた。


準備室で、陽翔の唇を塞いだあの夜。俺は佐伯の抵抗のなさに支配的な快感を得たが、ルシアンは「この身体が、愛しい姫を汚している」と、激しい自己嫌悪に陥っていた。


そして、陽翔の周囲に現れた桐生という男の存在。


美術館で佐伯たちと出会った日、俺は陽翔が働いているカフェに立ち寄った。それまでは心の整理がつかずに避けていたが、いつまでもそうしているわけにもいかない。

カウンターには、陽翔の姿がない。代わりに、店主がカウンターを拭いていた。


「佐伯くんは?」


「ああ、今日は休みなんだ。常連さんと美術館に行ったよ。最近たくさん働いてもらってたからね、たまには息抜きしてもらえればと思ってね」


その言葉を聞いた瞬間、心臓が掴まれたように苦しくなった。


美術展。二人きりで…?


理性のタガが外れた。俺は衝動的に美術館へと車を走らせた。知人の女性へ電話をかける。その行動は、冷静な教師、天城陵のものではない。千年前、エリシアを迎えに行く道中、宰相の足止めを振り切ってアルカディアへ馬を走らせた、ルシアン・グレイヴの焦燥だった。


美術館のロビー。案の定、二人は並んで、穏やかな顔で絵画を見つめ合っていた。桐生の整った横顔、そして彼の言葉に微笑む陽翔。


(あの男が、エリシアの心を慰めている……?)


強烈な嫉妬の炎が、内側から噴き上がった。それは、愛を信じない天城陵の感情ではない。「俺の愛しい姫を奪うな」と叫ぶ、ルシアンの独占欲だった。


その時、初めて俺は自覚した。


俺は、陽翔を傷つけ、支配することで、愛を否定してきたのではない。誰にも渡すまいという、ルシアンとしての執着と愛を、歪んだ形で守り続けていただけなのだ。


愛を信じない防壁。それは、愛を失うことへの恐怖であり、愛する者を再び見つけたことによる飢餓感だった。


そして今、俺の目の前で、陽翔は千年の謝罪を捧げ、俺のトラウマをすべて受け入れている。


俺の足元で、愛しい姫が泣いている。


「俺が、お前を残したせいで……貴方を、一人で裏切りの絶望の中で死なせてしまった……!」


もう、愛を否定する理由も、軽薄な仮面を被る理由もない。


俺はソファから立ち上がった。陽翔の元へ歩み寄り、その頬に手を添える。温かい涙の感触が、俺の指先に伝わってきた。


「エリシア」


俺は、天城陵の声を捨てた。千年前と同じ、純粋なルシアンの声で、愛しい姫の名前を呼んだ。


陽翔は顔を上げ、涙で滲んだ瞳で俺を見つめた。そこには、生徒としての戸惑いも、教師への軽蔑もない。ただ、愛しいルシアンを見つめるエリシアの眼差しがあった。


俺は、彼の顎をそっと持ち上げ、そのまま顔を寄せた。


「謝るのは、俺だ」


そして、陽翔の唇を、千年の渇望を込めて塞いだ。


それは、準備室での支配的なキスとは全く違う。裏切りの味も、罰の痛みもない。あるのは、純粋な愛と、千年の時を超えてようやく再会し、抱きしめることのできた安堵と救済だけだった。


陽翔の身体が、微かに震える。しかし、今度は拒絶ではない。彼の両腕が、ゆっくりと俺の首に回され、愛しい力を込めて抱きしめ返してきた。


「俺は、愛を信じられない最低な男だった。だが、お前が……この俺を、許してくれるのなら」


俺は唇を離し、額を陽翔の額に押し付けた。


「現世で罪を償う方法を、教えてくれ。エリシア」


陽翔の頬を、新たな涙が伝う。しかし、それは悲しみの涙ではなく、愛と安堵に満ちた涙だった。


「ルシアン様……」


俺は、彼を抱き上げ、寝室へと向かった。孤独な城の扉は、今、愛するエリシアによって開かれたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【BL】殿下、現世で罪を償ってください 海豚寿司 @sushiosushi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ