第10話 運命の日
俺の中に湧き上がった感情は、軽蔑でも怒りでもなく、純粋な痛みだった。
ルシアン・グレイヴ。俺と永遠の愛を誓った、その人。
その魂の欠片が、現世でぞんざいに扱われる姿が、どうしようもなく許せなかった。
(自分を大事にしてほしい)
そう乞うたのは、エリシアの魂か、それとも佐伯陽翔としての俺の感情か。もはや境界線などない。ただ、彼の傷つく姿を見ていられなかった。
家に着いたのは深夜だった。母さんはとっくに寝ている。自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込むと、身体の疲労と精神的な高揚感が同時に襲ってきた。あの青い瞳の、一瞬見せた混乱の表情が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
「ルシアン…」
そう呟き、俺は深い眠りに落ちた。
途端、意識は光を突き抜け、豪華な装飾が施された馬車の中に運ばれた。
その日は、婚礼の儀のため、ルシアン・グレイヴの統べるカストルム王国へと出立した。
馬車の車窓からは、故国のアルカディア王国の広大な平原が遠ざかっていくのが見える。護衛には、故国随一の精鋭騎士団が付き従っていた。第四王女である俺の婚礼に伴う警備のため、彼らを国境警備から外して引き連れたのだ。
(ああ、ルシアン…。早くあなたに会いたい)
心が躍る。祖国を離れる寂しさよりも、ルシアンとの未来への希望が勝っていた。
夕刻になり、あたりが暗くなってきたころ、護衛隊の騎士が慌ただしく声を上げた。
「ひ、姫様!!空が……! !!!」
騎士の慌てように、何事かと急いで小さな窓から外を見ると、西の空、すなわちアルカディア王国がある方向が、ありえないほど赤く染まっていた。黒い煙が立ち上り、まるで巨大な怪物が空を覆っているかのようだ。
「あれは……炎だ。アルカディア王国の方角からだ!」
騎士たちがざわめき、エリシアの心臓が激しく脈打つ。騎士たちに指示を出し、馬車は急遽、ルシアンの王国への道を引き返し、全力で故郷へと馬を走らせた。
(そんな…どうして?!何が起きているの?)
俺たちがアルカディア王国に到着した頃にはもう、城下町は地獄絵図だった。
燃え落ちた家屋、血を流して倒れる市民。王国の兵士が必死に応戦しているが、敵兵の勢いに圧倒されている。自国の鎧をまとった兵士が市民を殺しているところも目撃した。即ち、裏切者が内部にいたということ。
「ああ……嘘……!」
アルカディア王国は、精鋭の護衛を外に出したこの隙を突かれて、内部の裏切りによって攻め込まれたのだ。
あまりの惨状に、膝から崩れ落ちそうになったその時、背後から荒々しい馬の蹄の音が近づいてきた。
「エリシア!」
馬から飛び降りて駆け寄ってきたのは、ルシアン・グレイヴその人だった。土埃と汗にまみれ、彼の顔は血の気が失せ、激しい怒りと自責の念で歪んでいる。
「ルシアン様!なぜここに!?」
「してやられた…。宰相に城で足止めを食らっていた。ここ最近、場内の兵たちの様子がおかしくてな…。騎士団の宿舎に行ったら誰一人いやしない…。嫌な予感がして馬を走らせてきたが…」
ルシアンはそう言って、燃え盛る城下町を呆然と見渡した。彼の青い瞳は、悲劇の炎を映して揺らめいている。
「この婚姻で、両国の和平が結ばれるはずだった」
ルシアンは自責の念に耐えられないといった表情で、目の前の惨状から目を背けた。
「すべて私のせいだ…」
その言葉を聞いた瞬間、俺は理解した。
ルシアンは、臣下を信頼し、大切にしていた。有事の際に戦の第一線に立つルシアンは、兵士ひとりひとりにも向き合い、心を通わせ、士気を高めていた。それほど信頼していた者たちに裏切られるというのは、どれほどの悲しみか。
…ルシアンの心を壊すには、充分すぎる。
俺はルシアンに駆け寄り、その服を強く掴んだ。
「違います!ルシアン様のせいではありません!」
「エリシア…」
ルシアンはそう囁くと、俺を強く抱きしめた。その抱擁は、愛する者を失うことへの激しい恐怖と、自己への激しい嫌悪に満ちていた。
「俺が、敵対国の王女である君を愛してしまったことが、全ての過ちだ。長きにわたり、両国は争ってきた。婚姻一つで解決するほど安い因縁ではないと、わかっていたはずなのにな。うまいこと利用されたというわけだ…」
「そんな…私だって…」
そう。この婚姻は両国の和平のため、第四王女である末娘のエリシアが、カストルム王国へと嫁ぐ計画だったのだ。カストルム王国の民に歓迎されていないであろうことは明白であったが、自分だけが虐げられるのであればいいと思っていた。ルシアンさえ傍にいてくれれば耐えられると。
その時。
「きゃあああああ!!!」
「?!」
耳をつんざくような女性の悲鳴が聞こえ、振り向くと、幼い子供が崩れる母屋のそばで立ちすくんでいる光景が目に映った。
俺はとっさに走り出し、子供を突き飛ばす。
ドシャアアアアアン
母屋の崩れる轟音と共に、俺は飛び起きた。全身はびっしょりと汗をかき、心臓は激しい痛みを訴えている。
時計は朝の七時を指していた。夢から覚めても、燃え盛る城下町の匂いと、ルシアンの絶望に満ちた抱擁の感触が、身体に残っている。
(ルシアン……!誰よりも優しく、温かい愛情を持った人だった。あの出来事が、彼を変えてしまったんだ)
俺が、アルカディア王国に潜んでいた裏切者を見つけ出していれば。俺が、護衛を引き連れて行かなければ。この結婚を、断っていれば…
陽翔は、ベッドの上で強く拳を握りしめた。
「現世でも傷つく必要なんてないんだ。俺が、前世の呪縛から解放してやる」
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