第9話 自業自得

放課後の出来事から一夜明け、今日は土曜日。

学校は休みで、朝から夜まで、丸一日カフェのバイトをいれている。


「いらっしゃいませ!」


いつものように笑顔でお客様をお迎えし、コーヒーの香りに包まれ、お客様の笑顔に癒される。最高の一日の始まりだ。


しかし、意識の片隅で、俺は常にそわそわしていた。


(今日は来るのだろうか)


ドアベルが鳴るたびに、反射的に視線がそちらに向かう。

天城の存在が、俺の日常に定着してしまったかのような感覚だ。


「ごめんね、陽翔。もう上がりの時間だけど…絞め作業までお願いしてもいいかな?」


閉店間際、店長に声をかけられた。週末は混み合うため、残業はいつものことだ。


「大丈夫です。任せてください」


結局、閉店作業を終え、店を出たのは夜の十時を回っていた。身体は重いが、稼いだ金額を考えると、心は少し軽い。夜風が火照った顔に心地いい。


大通りから少し外れた、裏通りを歩いていた時だった。ビルの陰から、激しい怒声が聞こえてきた。


「最低!クソ野郎!!!あんたなんて地獄に落ちろ!!」


「おい、落ち着けって…」


聞き覚えのあるその声に、俺の足がピタリと止まる。


この声は…


ビルの壁に押し付けられるようにして立っている長身の男。

そして、その男を、黒いハイヒールにミニスカートを履いた一人の女性が、激しい勢いで睨みつけていた。女性の化粧は涙で崩れ、怒りで顔が歪んでいる。


女性は、持っていたブランドバッグを振り上げ、迷いなく天城の顔面にぶつけた。

バシン!と激しい音が夜の静寂に響き渡る。


「っ……!」


天城は顔を背けたが、抵抗はしなかった。


「あんたの言葉になんて騙されないから。嘘つき!最低!何が愛してるよ!あんたは誰のことも愛してなんかない!その場しのぎの薄っぺらい言葉しか使えない、かわいそうな奴!」


女性はそう叫ぶと、天城をもう一度、今度は胸元を強く突き飛ばし、泣きながら走り去っていった。


俺は、隠れることも忘れ、その場に立ち尽くしていた。


天城はよろめいた体を立て直すと、壁にもたれかかったまま、顔を覆うようにして俯いた。その姿は、学校で見せる教師の姿とも、資料室で見せた姿とも違う。


考えるより早く、俺の足は彼のもとへ向かっていた。


「天城、先生!」


俺の声に、彼は驚いたように顔を上げた。殴られた衝撃で、少し目が潤んでいるように見えた。


「佐伯……?なぜ君がここにいる」


「そんなことより、大丈夫ですか!?」


思わず手を伸ばしそうになるのをこらえた。前世のルシアンに、手を出す者などいなかった。王子の顔に傷をつけたなど、許されざる冒涜だ。


「大丈夫だよ。大したことない」


彼はすぐにいつもの軽薄な笑みを貼り付けようとしたが、上手くいかず、頬が引きつっていた。


「何があったんですか?!」


「ん? 彼女以外の女とも寝たことがバレた。」


「は?」


「ま、自業自得だね。」


自業自得。その通りだ。俺は怒りに震えた。


なぜこの人は最低な振る舞いを繰り返し、他人に傷つけられることを容認しているのか。


「自業自得……そうですよ!自業自得だ!」


カッと血が上り、自分でも驚くくらいの声量で天城に詰め寄る。


「こんなことして、何になるんですか! 他の女と寝て、誰かを裏切って、殴られて……それで、あなたは何か満たされるんですか? わざと傷つけられることを望んでるようにしか見えない!」


俺は両手を握りしめた。――ルシアンという存在が、こんなにもぞんざいに扱われているという事実に、心が痛んだ。


「ルシアン……」


思わず、前世の名前が口をつく。


「もっと、自分を大事にしてほしい。お前はこんな風に、自分の心と体をゴミみたいに扱う男じゃなかったはずだ!」


天城の軽薄な笑みが、完全に消えた。彼は、殴られた頬よりも、俺の言葉に衝撃を受けたかのように、瞳を見開いていた。


「佐伯……君はやっぱり…」


天城はその場から動かず、俺の瞳に映る自分の姿を、貪るように見つめていた。その瞳には、彼が夢で繰り返し見る、裏切りと憎悪の色は微塵もなかった。


俺は、一瞬の沈黙にも耐えられなくなり、彼の傍から離れた。


「……帰ります。お大事にしてください」


俺はそれだけ言い残し、早足でその場を去った。


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