第2話

子供たちの間に、絶望的な悲鳴が上がった。

「に、逃げろぉっ!」

誰かの叫び声をきっかけに、子供たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。木に隠れる者、来た道を引き返そうとする者。しかし、訓練された魔獣の動きは、子供たちのそれを遥かに上回っていた。


魔狼は、最も近くにいた子供に狙いを定める。それは、森の奥に咲く綺麗な花を見に行こうと、みんなを誘った少女だった。恐怖に足がもつれ、木の根に足を取られて派手に転んでしまう。

「いやっ!」

短い悲鳴。魔狼が、好機とばかりにその小さな背中へ飛びかかった。誰もが、次の瞬間に起こる惨劇を予感して、目を固くつぶった。


時間が、止まった。


ルナの脳裏に、父親の真剣な顔が浮かぶ。『隠すんだ、ルナ。それが、お前と、お母さんと、お父さん、家族みんなを守るためなんだ』。

優しい母の、心配そうな顔が浮かぶ。


でも——目の前で、さっきまで笑い合っていた友達が、殺される。


ほんの一瞬。けれど、ルナにとっては永遠にも感じられる葛藤。

彼女は、心の中でだけ、たった一言呟いた。


『ごめんなさい、お父さん』


次の瞬間、ルナの世界から音が消えた。


思考が追いつくよりも早く、彼女は地面を蹴っていた。足元の土が弾け、落ち葉が竜巻のように舞い上がる。他の子供たちの目には、黒い影が一本の線を引いたようにしか見えなかった。


少女に覆いかぶさろうとしていた魔狼の巨体が、真横からの凄まじい衝撃に「く」の字に折れ曲がり、無様に地面を転がる。

間一髪、少女を庇うように立ち塞がったルナ。しかし彼女は止まらない。追撃するように、地面を転がる魔狼の頭をその小さな足で強く踏みつけ、動きを止める。


そして、誰もが息をのむ光景が広がった。


ルナは、その小さな両手を魔狼の巨大な顎に突き入れると、躊躇いなく、左右へと引き裂いた。


ゴキャリ、と肉と骨が砕ける鈍い音が、静まり返った森に、やけに大きく響き渡った。



断末魔すら上げることなく絶命した魔狼を眼下に、ルナは静かに立っていた。返り血が彼女の白い頬を濡らし、普段は穏やかな瞳は、今は何も映していないかのように虚ろだった。


助けられた少女が、震えながら後ずさる。他の子供たちも、遠巻きに立ち尽くし、目の前の光景が信じられないといった表情で、ただただルナを見ていた。


静寂を破ったのは、助けられた少女の、か細い呟きだった。

「……ば、けもの……」


その一言が、呪いの言葉のように森に響き、凍り付いていた子供たちの時間を動かした。

「うわあああああっ!」

一人が泣き叫びながら逃げ出すと、他の子供たちも我に返ったように、一目散に村へと逃げていく。


ルナに背を向けて。まるで、本当の魔狼は彼女であったかのように。


森の中、一人取り残されたルナは、血に濡れた自分の小さな手を見下ろした。

友達を救った。正しいことをしたはずだった。なのに、どうして。

彼女の美しい瞳から、ぽろり、と一粒の涙がこぼれ落ちた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


【あとがき】

画面の下にある**【☆☆☆】**を押して、評価をいただけると、作者が泣いて喜びます。皆様からの評価が、物語を書くための何よりの燃料になります。

どうか、どうか、この物語に、皆様の星の光を、少しだけ分けてやってください…!


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る