5-5
余韻を感じる前に美波の手はスタックタイマーに触れる。
計測は二分十秒で止まり、美波としては平均的な記録だ。問題は五十二枚記憶できているか否か、である。
リコール開始までの残り二分ほど、美波は脳内でゆっくりと記憶を遡っていく。
串団子に砂、給湯器にハサミ、段ボール箱に櫛、靴に炭、コックにスーツ、棚から水筒、箸と白鳩、タクシーと白桃、呼吸器とグミ……
一か所目から順繰りにイメージを思い出していく。
大丈夫、思い出せる。
美波は無意識に眉間に皺を寄せながらも、心の内では不足を感じていなかった。
一四か所目まで想起したところで記憶時間の五分が終わる。
没入していた意識を浮上させると、静かな室内と有紗の真顔が視界に戻ってきた。
「記憶時間は終わりです。回答用のトランプを持ってください」
義務的に告げる有紗だが、今の美波にも過度な親しさは必要ないと感じていた。
喋るだけで記憶が飛んでしまいそうな繊細な感覚で、何も言わずに頷いて回答用のトランプを手に持った。
五分という制限時間はあるが、焦らず石橋を叩いて渡るぐらい慎重に一か所目から記憶を復元していく。
教室の引き戸、串団子と砂。
一か所目が蘇ると、数珠つなぎのように隣接する二か所目のイメージが湧いてくる。
黒板横の掲示板、給湯器とハサミ。
段ボール箱と櫛。靴と炭。コックとスーツ……
順調に十三か所目まで振り返り、イメージ通りにトランプを並べていく。
十四か所目まで来ると先ほど思い出す余裕がなかったせいか、イメージはぼんやりと曖昧さを増していた。
だが、じっと十四か所目の駐輪場を覗ける窓を眺めていると次第にイメージの輪郭が鮮明になっていく。
細長い何か、そうだあれはストローだ。
ストローが蘇ると連関してタンバリンが吸収される映像が動いた。
よっしゃ、思い出せる。
美波は心の中で快哉を叫んだ。だがすぐに気を引き締め直して脳内の校舎内を進んだ。
脱脂粉乳とハム。スクーターとスキーヤー。タイヤと白球。スムージーと卓球台。
十四か所目だけが難所だったように、すらすらと校舎内を進むごとにイメージが浮かび上がってくる。
クナイと花。スキューバダイバーと杭。スコップとタコ。おみくじとタトゥー。灰皿と刷毛。埴輪とデカいクッキー。
あと二か所。
スパゲッティと寿司。
最後、二十六か所目!
ダージリンとおはじき。
完走!
五十二枚思い出せた歓喜が美波の顔に頬が紅潮するような笑みとなって表れた。
彼女の満足げな笑顔に傍で見ていた有紗は驚きで目を見開いた。しかし美波の内心を理解できると共感の笑みに変わる。
「手応えありそうですね」
「おう。ばっちり」
小声で話しかけた有紗に、美波は満面の笑みを送った。
「念のために確認しなくていいんですか?」
「問題ねぇ。自信あるぜ」
「そうですか。あなたがそう言うなら私は構いません」
回答時間はまだ二分ほど残っていた。それでも美波は泰然と座り、二度とトランプを手に取ることはなかった。
やがて回答時間が終了し、有紗が片方のトランプを掴む。
「答え合わせの時間です。今からの変更はできませんよ」
「脅されても怖くねぇぜ。なんでかわかんねーけど、一枚も間違ってる気がしねぇ」
「絵柄違いのミスをしていなければいいですけどね」
有紗の絵柄違いのミスとは、♢や♡などを見間違えたまま回答用のトランプを並べてしまうことを言う。
トランプとイメージの結びつきが強いほど、目視でしか確認しないためミスをしやすい。
それでも美波の確信は揺るがず、有紗の方もこれ以上口を挟む気にはなれず手にしたトランプの山上に目を移した。
「それでは答え合わせを始めましょうか。答え合わせの方法は練習でやった通りです。トランプを持ってください」
美波は言われた通りに記憶用のトランプを手に取り、山上を摘まむ。
「では一枚目」
有紗の合図で二人同時に山上を捲った。
一枚目は♢5、一致した。
「二枚目、三枚目、四枚目……」
序盤は数えながら捲っていた有紗だが、連続で一致していくと段々と捲る速度が上がっていく。
「……二十六枚目……」
息を吐くように五十二枚の半分に当たる二十六枚目を数えた。
これも一致して、ここまでミスは一枚もない。
有紗は無言で答え合わせを続け、美波の方も不安の一切見えない顔で有紗のテンポに合わせて捲っていく。
「……五十二枚目」
最後の一枚を捲った瞬間、美波の顔に喜色が宿った。
瞳孔を最大限に開き、目の前のトランプを見つめている。そして自信たっぷりに有紗へ不敵な笑みを向ける。
「見たか?」
「見ましたよ。よかったですね」
興奮気味の美波とは反対に有紗は淡泊な賛辞を送った。
芳しい反応をしない有紗に、美波は怪訝な目を送る。
「もうちょっと驚いてくれてもいいだろ」
「驚きませんよ。東さんが成功しないなんて私は思ってませんでしたから」
有紗の発言に美波の方が意外そうに目をぱちくりと瞬かせた。
「あたしの失敗を願ってそうなのに。ざまあ、って言いたいんじゃないのか?」
「正直あなたのことは好きではありませんけど、練習の時に成功できたなら本番でもあり得ますから。それに東さんの後は私の番ですから、あまり感情を昂らせるわけにもいきませんしね」
表情を一つも動かさずに正当な理由を述べた。
美波は理解しがたい顔で有紗を見てから諦めたようにトランプの回収を始める。
「なんでそんな風に思えるのかわかんねぇけど、とりあえず席退くわ」
「ありがとうございます」
有紗は軽く礼を言うと、自身のハンドバッグからトランプ二組とスタックタイマーを取り出して長机に置いた。
美波が席から離れてから同じ席に静かに腰掛けた。
その後、有紗の四回目の計測は一分三秒で五十二枚覚えて、四回連続での記録成立となった。
それでも有紗の表情に喜びが浮かぶことはなかった。
有紗は表には出さないが自身の記録に満足できていなかった。
ここまで四回計測をして、全て五十二枚全て覚えて安定した記録を残せている。だが有紗が最も狙いたいのは一分を切ることだった。
四回成功させようが目指すべき一分以内を達成できていなければ、彼女の心は満たされないのだ。
四回目の記録を用紙に記入している美波の手先を眺めながら、有紗の脳裏には前回の記録会の光景が蘇ってきた。
記録用紙の五回目計測の欄に書き込まれる数字。
一分五秒、枚数五十二。
今、美波の手によって記入されているのは、
一分三秒、枚数五十二枚。
変わり映えしないな、私。
前回の記録会からは三か月の歳月が経っている。
なのに、成長らしい成長が自分自身でも数字としても感じられない。
「おーい。ボケっとしてんな」
思考の外から美波の声が耳朶を打った。
いつの間にか用紙だけを見ていた視線を美波の顔へと上げる。
美波は億劫そうな目で有紗を見下ろしていた。
「永井さんに四回目の記録を報告しなきゃいけなねぇんだろ。疲れた顔で考え事してんな」
「……そうですね。報告に行きましょう」
大会の流れを思い出した有紗は、記録用紙を掴んで椅子から立ち上がった。
ネガティブにならないようにしないと。
胸の中で自身に言い聞かせて忌避すべき結果を想像しないように努めた。
一方その頃、涼介も自身の葛藤と戦っていた。
涼介ほどの実力になると余裕があるように周りからは思われがちだが、涼介本人は一度も余裕など感じたことがない。
むしろ周りから記録更新を期待されるからこそ、誰よりもプレッシャーを抱えていた。
僕はそんな大層な人間じゃないよ。
相方として組んだ人からの期待を含んだ目を正視できず涼介は手元のトランプに意識を向けた。
涼介は日本では記録保持者だが、世界には涼介よりも速い記録でトランプを記憶する猛者がたくさん存在する。
日本のメモリースポーツ界を担うプレイヤーとして自分の記録がどれほど重要なのか自覚しているつもりだ。
それでも期待に応えらないかもしれない、という不安が常につき纏っている。
「山上くん。やっぱり速いですね」
記録を用紙に記入し終えた相方が感服の目で涼介を見る。
涼介は複雑な気持ちで微苦笑した。
「まあ、こんなものだよ」
「自分も山上くんみたいな記録出してみたいね。当然、物凄い練習量も必要なんだろうけどね」
涼介の相方は得心したように一人で頷いた。
僕はそんな目標にされるほどの人間じゃないよ。
心の中で否定しながらも涼介は微苦笑を引っ込めない。
日本一の立場を誰かが代わってくれるなら、喜んで一位の称号は明け渡すよ。
ただメモリースポーツが好きで広めたいだけの涼介には、自分の記録だけが注目されることが重荷に感じた。
一位だと世間に対する見栄えがいいだけで、僕でなければならない理由は何もない。
世間が求めているのは記憶力日本一であり僕ではない。
アイデンティティに対して疑問が湧いてくると、段々と暗い気持ちになってくる。
「四回目の記録、報告してきますね」
相方の声で沈みそうな心がかろうじて浮上してきた。
「あ、お願いします」
報告を相方に頼むと四回目の計測に使ったトランプを片付けた。
次こそ、記録更新できるかな。
五回目の計測に淡い期待をして涼介は席を離れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます