第10話「海からの冷たい使者」

 シオンの歌声が城下の人々を救ったというニュースは、瞬く間に国中に広まった。銀髪の美しい少年は「聖なる歌い手」と呼ばれ、人々から賞賛と感謝の的となる。しかし、その力は、招かれざる客をも呼び寄せてしまった。


 ある嵐の夜、離宮に一人の来訪者があった。

 ずぶ濡れのままレオニールの前に現れたのは、シオンとよく似た顔立ちを持つ、威厳のある人魚の青年だった。だが、その瞳の色はシオンのサファイアとは違う、冷たい光を宿したアクアマリン。彼こそ、シオンを追放した兄だった。


「我が弟、シオンはどこにいる」


 兄は、人間の言葉を流暢に話した。その声は低く、有無を言わせぬ響きを持っている。

 レオニールは、目の前の男がシオンの血縁者であることを直感し、強い警戒心を抱いた。この男は、シオンを捨てた張本人だ。


 レオニールは声を出さず、ただ冷徹な視線で兄を睨みつける。その無言の圧力に対し、兄は眉一つ動かさなかった。


「貴殿が、この国の人間の王子か。弟が世話になったようだな。礼を言う。だが、シオンは海へ返してもらう。あれは地上にいてはならぬ存在だ」


 兄は、シオンの「破邪の歌声」が地上で使われたことを、海の神殿の結界を通して感知したのだ。彼は、その力が人間の手に渡り、悪用されることを何よりも恐れていた。特に、戦争の道具として使われることなど、あってはならないと考えていた。


「あれの歌声は、災いを呼ぶ。海の平穏のため、そして地上の平和のためにも、シオンは我らの元で管理せねばならないのだ」


 兄の言葉は、レオニールの心を逆撫でした。

 災いを呼ぶ?この男は、シオンの持つ力の本当の意味を何もわかっていない。彼の歌声は、人々を救う祝福の力だ。そして何より、自分にとっては、世界で唯一の光なのだ。


 ちょうどその時、兄の存在を察したシオンが部屋に駆け込んできた。

「兄上…!?」


 久しぶりに見る兄の姿に、シオンの顔から血の気が引いた。追放された時の、あの冷たい瞳が脳裏に蘇る。


「シオン。やはりここにいたか。さあ、我々と共に海へ帰るぞ。お前のような子供に、その力の重みは背負いきれん」


 兄は、シオンに手を差し伸べる。しかし、シオンはその手を取ることができなかった。彼の心は、もはやレオニールのそばにあったからだ。


 兄は、シオンとレオニールの間に流れる深い絆を感じ取り、苦々しく顔を歪めた。

「人間の王子よ。賢明な判断を期待する。我らは、シオンを取り戻すためならば、手段は選ばん。この国の海が、永遠に荒れ狂うことになってもな」


 それは、静かな脅迫だった。一国の王子であるレオニールにとって、自国の沿岸の平和を脅かされるのは看過できない事態だ。シオン一人と、国の安寧。常識で考えれば、選択は明らかだった。


 冷たい雨が窓を叩く。海からの追手は、二人の間に重い選択を突きつけた。レオニールは、固く拳を握りしめ、目の前の人魚の王子を射殺さんばかりの視線で睨みつけていた。

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