第6話「祝福の歌声がもたらす変化」
シオンがレオニールの離宮で歌い始めてから、ひと月が経った頃。離宮の中では、不思議な変化が起こり始めていた。
最も顕著だったのは、離宮の庭だった。潮風に晒され、手入れをする者も少なかった中庭は、以前はどこか寂れた雰囲気が漂っていた。それが今では、まるで季節が逆行したかのように、色とりどりの花が咲き誇っているのだ。特に、長い間蕾のままだった純白の月下美人が、毎夜のように甘い香りを放ちながら見事な花を咲かせるようになったのは、侍従たちの間で大きな噂となっていた。
「王子が離宮に連れてこられた、あの銀髪の美しい方の影響だろうか…」
「毎日、部屋から心地よい音楽のようなものが聞こえてくる。あれはいったい…」
侍従たちは、謎の青年――シオンの存在に驚きながらも、何より主であるレオニールの変化に目を見張っていた。
以前のレオニールは、常に眉間に皺を寄せ、誰をも寄せ付けない氷のような空気をまとっていた。しかし今の彼はどうだろう。その表情は驚くほど穏やかになり、時には庭の花を眺めながら、微かに口元を緩ませることさえあるのだ。
雑音の世界で常に張り詰めていた神経が、シオンの歌声によって解きほぐされ、レオニールは本来の穏やかな気質を取り戻しつつあった。彼はシオンと過ごす時間を何よりも大切にし、公務以外のほとんどの時間を離宮で過ごすようになった。
そんなレオニールの変化を、シオンもまた喜びと共に感じていた。自分の歌声が、美しい花を咲かせ、愛する人の心を癒していく。それは、彼が今まで味わったことのない、誇らしくて温かい感覚だった。
レオニールは、シオンが陸の世界に馴染めるようにと、たくさんの書物や絵画を部屋に運び込んだ。そして、シオンに人間の文字と、その発音を一つ一つ丁寧に教え始める。レオニールは声を発せないので、文字を書き、それをシオンに見せ、シオンがその文字の持つ音を歌うように発声するのだ。
「『は・な』(花)」
レオニールが紙に書いた文字を、シオンが透き通るような声で紡ぐ。その声すら、レオニールにとっては美しい音楽だった。彼は満足げにうなずくと、次に『う・み』(海)と書く。二人の間には、そんな穏やかで愛おしい授業の時間が流れていった。
シオンは驚くべき速さで人間の言葉を吸収していった。それは、レオニールともっと話がしたい、彼のことをもっと知りたいという強い想いがあったからだ。
ある日、シオンは庭に咲く白い花を指差して、覚えたての言葉でレオニールに尋ねた。
「レオ…ニール。この、はな…きれい」
「レオ」と、初めて自分の名を呼ばれたレオニールは、心臓が大きく跳ねるのを感じた。シオンの声で呼ばれる自分の名前は、世界で最も美しい響きを持っている。彼は衝動的にシオンの手を取り、その手の甲にそっと口づけをした。
シオンの顔が、ぽっと赤く染まる。その初々しい反応に、レオニールは愛おしさが込み上げ、思わず笑みをこぼした。
二人の周りには、いつしか甘く穏やかな空気が満ちていた。だが、その幸せな日々に、遠くから不穏な影が静かに忍び寄っていることを、二人はまだ知らなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。