第5話「離宮で紡ぐ優しい時間」
レオニールは、言葉を発することなく、弱っているシオンにそっと手を差し伸べた。その眼差しは、先程までの静かなものとは違い、明らかに強い意志を宿している。「私と来るんだ」と、その瞳が雄弁に語っていた。
シオンは一瞬躊躇したが、レオニールの涙の理由が分からずとも、彼に悪意がないことは確かだと感じていた。それに、このまま浜辺にいても衰弱するか、他の人間に見つかるのがオチだろう。
シオンは、震える手でレオニールの手に自分の手を重ねた。
レオニールは、屈強な腕でシオンの体を軽々と抱き上げる。人魚の体に触れるのは初めてだったが、その体温の低さと、尾鰭の美しさに息を呑んだ。彼はシオンを腕に抱いたまま、ゆっくりと離宮へと歩き出す。
レオニールの離宮は、静寂そのものだった。人の気配はほとんどなく、聞こえるのは潮風が庭の木々を揺らす音と、遠い波の音だけ。
シオンは大きな寝台に優しく横たえられ、侍従たちが運んできた食事と清潔な水を与えられた。レオニールは侍従たちに手短に指示を出すとすぐに人払いをし、部屋には二人きりになった。
言葉が通じない。シオンは人魚族の言葉しか話せず、レオニールはそもそも言葉を発することが苦痛だった。だが、不思議と不便は感じなかった。二人の間には、言葉以上のコミュニケーションが存在していた。
レオニールは、シオンの前に座り、ジェスチャーで「歌ってほしい」とねだる。自分の耳を指差し、そして恍惚とした表情で空を仰いだ。その必死な様子に、シオンは恐る恐る、再びあの鎮魂歌を口ずさんだ。
すると、レオニールの顔が途端に安らぎに満ちた表情に変わる。彼は目を閉じ、まるで極上の音楽に聴き入るかのように、うっとりとその旋律に身を委ねた。
その姿を見て、シオンは確信した。
(この人には…僕の歌が、ちゃんと届いているんだ…)
忌み嫌われ、災いの元だと蔑まれてきた自分の歌声が、今、目の前の誰かを癒している。
その事実は、シオンの心に温かい光を灯した。生まれて初めて感じる、誰かの役に立っているという喜び。それは、彼がずっと渇望してきたものだった。
その日から、歌は二人の間の「言葉」になった。
シオンは毎日レオニールのために歌い、レオニールはその歌声を何よりも大切な宝物のように聴き入った。彼はシオンのために美しい衣服を用意し、海の幸をふんだんに使った食事を整え、何一つ不自由のないようにと甲斐甲斐しく世話を焼いた。
レオニールの深い優しさに触れるうち、シオンの警戒心は少しずつ解けていった。レオニールもまた、シオンの歌声に癒されることで、氷のように閉ざされていた心に温かい感情が芽生え始めているのを感じる。いつも無表情だった彼の顔に、微かだが柔らかな笑みが浮かぶようになった。
ある夜、月明かりが部屋に差し込む中、シオンが歌い終えると、レオニールはそっと彼の銀の髪に触れた。そして、まるで壊れ物に触れるかのように、優しくその髪を撫でる。
その手つきはあまりにも優しく、慈しみに満ちていて、シオンの胸はきゅっと締め付けられるように高鳴った。
孤独だった二つの魂が、静かな離宮で寄り添い、優しい時間を紡いでいく。
それはまだ、恋と呼ぶには早い、穏やかで温かい感情の始まりだった。
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