第4話「初めて響いた奇跡の旋律」
レオニールが差し出した水は、まるで乾いた大地に染み込む恵みの雨のように、シオンの心と体を潤していった。極度の緊張と疲労から解放された安堵感に包まれ、彼の意識は少しばかり朦朧とする。
故郷の、光の届かない海底神殿。冷たい家族の視線。
それでも、そこは彼の生まれ育った唯一の場所だった。追放された今となっては、二度と戻れない。寂しさと懐かしさが、胸の奥から静かに込み上げてくる。
その感情が、彼の唇から無意識のうちにメロディを紡ぎ出した。
それは、かつて母親だけがこっそりと教えてくれた、古代の鎮魂歌。声を殺し、誰にも聞こえないように、ただハミングするだけの、小さな小さな旋律。
「…ん……んん……♪」
それは歌と呼ぶにはあまりに拙く、か細い音の連なりだった。
だが、その音色がシオンの唇から漏れ出た瞬間、彼ははっと我に返った。
(しまった…!歌ってしまった…!)
この歌声は「嵐を呼ぶ」呪われた力。この優しい人間の前で、災いを起こしてしまうかもしれない。
シオンは慌てて両手で自分の口を覆い、恐怖に目を見開いた。空は曇り始めるだろうか。風が吹き荒れるだろうか。
しかし、シオンが予想したような変化は何も起こらなかった。海は穏やかなまま、朝の光をキラキラと反射している。
恐る恐る目の前の青年の顔をうかがうと、シオンは信じられない光景を目にした。
レオニールが、泣いていた。
その整った顔立ちから、一筋、また一筋と、静かに涙がこぼれ落ちていたのだ。驚きと困惑、そして今まで感じたことのない深い感動に、彼の瞳は大きく見開かれている。
レオニールにとって、世界は不快な雑音で満たされていた。人の声は、彼の心を苛むだけの苦痛だった。
しかし、今、彼の耳に届いたのは、生まれて初めて聞く「美しい音」だった。
それは雑音ではなかった。ガラスが砕ける音でも、金属が擦れる音でもない。
澄み切った泉の水のように清らかで、夜空に瞬く星のように優しく、彼の荒みきった心の一番深い場所に、そっと染み渡っていく美しい旋律だった。
頭の痛みがない。不快感もない。
ただ、心地よい音の波が、長年呪いに蝕まれてきた魂を優しく洗い流していく。生まれて初めての感覚だった。静寂以外の安らぎが、この世に存在したのだ。
「あ……」
レオニールは、無意識に声を発しかけた。だが、今はそれすら惜しい。自分の声という雑音で、この奇跡の旋律をかき消したくなかった。彼はただ、目の前の美しい人魚を見つめ、涙を流し続けた。
シオンは、レオニールの涙の理由がわからず、ただ戸惑うばかりだった。
(どうして…泣いているの…?僕の歌は、嵐を呼ぶんじゃ…なかったの?)
一方は、自分の歌声が災いを呼ばなかったことに安堵し、
一方は、生まれて初めて美しい音に出会えたことに感動する。
言葉のないまま、二人の視線が交差する。
静かな浜辺で、二つの孤独な魂が初めて触れ合った瞬間だった。それは、やがて二人の運命を、そして世界を大きく変えることになる、奇跡の始まりの音だった。
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