「嵐を呼ぶ」と一族を追放された人魚王子。でもその歌声は、他人の声が雑音に聞こえる呪いを持つ孤独な王子を癒す、世界で唯一の力だった
藤宮かすみ
第1話「嵐を呼ぶ人魚王子」
光が届かない。
どれほど手を伸ばしても、指の間をすり抜けていくのは冷たい海水ばかりだ。
ここは、シオンと名付けられた人魚の王子が、物心ついた時から過ごしている海底神殿の牢獄。神殿の最も深い場所に作られた、美しくも孤独な檻だった。
シオンには、生まれつき二つのものが与えられていた。
一つは、月の光を溶かして固めたような銀の髪と、見る者の心を奪うサファイアの瞳。
そしてもう一つは、「嵐を呼ぶ」と一族から忌み嫌われる、呪われた歌声だった。
ひとたび彼が歌えば、穏やかな海流は荒れ狂う──そう信じられていた。その呪われた力を恐れた父王と長老たちによって、シオンはこの神殿の最奥に幽閉されていた。
窓から見えるのは巨大な回廊の柱と、時折通り過ぎる番兵の影だけ。家族が訪れることは滅多になく、向けられる視線はいつも氷のように冷たかった。
「シオン、お前のせいで海の均衡が乱れる」
「なぜ、お前のような者が生まれてしまったのか」
兄たちの言葉が、鋭い氷の刃となって心を突き刺す。
彼はただ、美しい声で歌いたいだけだった。心のままに旋律を奏でたいだけなのに、その願いは決して許されない。
孤独だけが、彼の友人だった。壁に反響する自分の呼吸を聞きながら、シオンは唇を固く結ぶ。歌ってはいけない。歌えば、皆がさらに自分を恐れ、憎むだろう。その恐怖が、彼の喉をきつく締め付けていた。
そんなある日、神殿の重い扉が軋みながら開いた。そこに立っていたのは、冷たい瞳をした兄と、数人の屈強な兵士たちだ。
「シオン。お前を追放する」
兄の言葉は、一切の感情を排した無慈悲な宣告だった。
近頃、近海の魔力が増し、海の平穏が脅かされているらしい。その原因がシオンの存在そのものにあると、長老会議で決定されたのだという。
「そんな…兄上…!」
「黙れ。お前は我ら一族の災いだ。これ以上、お前の存在を許しておくわけにはいかない」
抵抗する間もなく、両腕は兵士に掴まれた。美しい尾鰭が虚しく床を打つ。
これまで彼を閉じ込めていた神殿は、もはや彼を守る檻ですらなかった。彼はただ、災いの元として捨てられるのだ。
神殿の外へと引きずり出され、シオンは生まれて初めて外海の潮流を感じた。
そこは「魔の海溝」と呼ばれる、邪悪な魔力が渦巻く危険な場所。一度飲み込まれれば、二度と浮き上がることはできないと言われている。
「達者でな、シオン。いや…もう二度と会うこともないだろう」
兄はそう言い捨てると、冷ややかに背を向けた。
兵士たちの手が離れ、シオンの体は抗いようもなく、暗く冷たい海流へと引きずり込まれていく。
意識が遠のく中、彼の脳裏に浮かんだのは、たった一つの純粋な願いだった。
(誰か…僕の歌を…聞いて…)
それは悲痛な叫びとなり、泡と共に暗い海の底へと消えていった。
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