第10話 目が覚めて
◆
——「お父様? その方はどなたですか?」
長い黒髪と真っ白な肌が印象的な少女が、俺の隣に立っている人に話しかけている。その娘の視線は、俺への戸惑いを隠せないようだった。隣に立つ男性は、長い髪を三つ編みにして左肩に垂らしている。その綺麗な横顔を見上げると……。
◇
「えっ?」
目を覚ますと、綾人は自分の部屋にいた。大学で倒れた後、あのまま眠ってしまっていたらしい。そして、夢を見た。それは彼がこれまで見ていた収容所のものとは違って、どこかのお屋敷での出来事のようだった。
そのあまりの現実感の強さに驚く。まるで、今目の前であの少女が話しているようだった。
夢というにはあまりにも現実味があり、あの処刑される夢の時と同じように、やたらと五感に訴えるものが多かった。少女の視線に困っている自分の心情に、僅かながら命の危機が感じられたことも、この動揺の理由の一つだった。
「処刑とか命の危機とか、もう勘弁してくれ」
夢を見る前には、現実とは思えない出来事に見舞われ、夢の中はやたらに現実味がある。綾人は体を起こしてベッドに座り、頭を抱えた。ヘッドボードに背を預けて首を擡げると、コンと乾いた音が鳴る。
恐ろしさに身構えたからか、高熱が出た時のようにぼーっとしていて、体という容れ物だけを残し、精神がずるずると下へと滑り落ちていくような倦怠感に見舞われている。体が鉛のように重いというのは、こういうことなのだろうかと、その言葉の妙に変に納得していた。
成長期に、体の変化についていけず、毎朝なかなかベッドから出られなかった頃に似ている。あの毎朝母親から怒られていた日々は、これまでの人生で、唯一親を嫌いになりそうな時期だった。あの怠さの中で響く怒鳴り声は一生忘れないだろう。
しかし、それも成長が落ち着くとともに減り、今ではまるで無かったことのようになっている。
「でももう成長期じゃないしなあ。疲れもあるだろうけど、風邪引いたかな。すっげえ怠い」
今日のこれはなんだろうかと、綾人は考えてみる。体調不良といえばそうだ。ただ、これまでに経験したことがないような怠さと共に、心地良さもあるように思う。ふわふわと浮ついているようで、ズシリと体が沈み込むような、なんとも言えない不思議な感じがしていた。
「……トイレ」
めんどくさいなあと思いつつも、流石に漏らすわけにはいかない。ヨイショと声を出して立ち上がった。誰も居ないつもりで独り言ちた綾人の耳に、突然柔らかな低音の雅な笑い声が飛び込んできた。
「年寄りのようだな、綾人」
聞こえてきた方を見ると、ドアに背をもたれて
「
「え? あ、それ、僕の服なんですね」
言われてみると、彼は確かに綾人の部屋着を着ていた。それは見慣れた服であるはずなのに、言われるまで全く分からないほど、いつものものとは印象が違って見える。一番ゆったりしたシルエットであるはずのTシャツも、彼が着ると全く余裕がなく、苦しそうに見えた。
綾人は、決して小柄な方ではない。華奢ではあるものの、身長は平均とそう変わらないし、骨格もそれなりにしっかりしている。違いがあるとすれば、筋肉量だろう。それだけはどうしようも無かった。
そう考えるとおかしくなり、綾人は
「……何を笑っている? お前、俺をバカにしてるだろう」
「ええ? いいえ、してませんよ。あの、その、ふっ、服が体にぴったりくっついていると、なんだかちょっと可愛らしく見えてしまって……。いえ、あの、違います! そんなにピチピチだと、気持ち悪くないですか? 俺ちょっと父に頼んで服を借りて来ます。その方がサイズが大きいので、着やすいと思いますし……」
そう言って、父のところへ行こうと部屋を出ようとした。しかし、立ち上がりはしたものの、足に力がうまく入らない。すぐによろけてしまうのだ。二歩目まではどうにかなったが、三歩目は踏み出すことも出来ずに、そのままその場に膝から崩れ落ちてしまった。
「あれっ?」
ドアに体を預けていた
「無理をしてくれるな。俺の気を多めに受けたばかりなんだ。最初は拒否反応で高熱が出るし、意識も飛ぶ。お前、おそらく分かっていないと思うが、あれからもう三日は経っているんだぞ」
「……え? 三日経ってる?」
綾人は、驚きのあまり素っ頓狂な声を出した。そして、机の上にあるスマホを見つけると、ディスプレイに表示されている日付を見て確認する。本当に、あれから丸二日が過ぎていた。カレンダーもSNSも、間違いなく二日経った事を示している。
つまり、今はあれから三日目の夜にあたる。ずっと眠っていたのだろうか。それでも、まだ体は回復しきれていないようだ。かなり負担がかかるようなことをされたのだということが、それでよく分かる。力を得るためには、それほどの負荷が必要なのだろう。
「あの、俺は三日間ずっと眠っていたんでしょうか? 学校は休んでるんですよね……。あ、そうだ。親にはなんて言ってあるんですか? 三日も眠ってたのなら、変に思わないんでしょうか」
貴人は横になっている綾人の隣に座る。そして、綾人の手を握った。
「三日間眠っていたな。俺の気を受けるという事は、浄化が進んだという事だ。悪いものが祓われる時は、その魂の持ち主も同じくらい疲弊するのだから、仕方がない。それと、学校や親との問題だが、そういうものはこうして解決する事が多い。今回もそうしてある」
そういうと、
優美な顔が、綾人のすぐ前で目を閉じている。あまりの美しさに、思わずの身を引き離れようとすると、察知した貴人の手にそれを阻まれた。再び引き寄せられた先には、綺麗な長いまつ毛がふさふさと揺れている。
「
その時、綾人は頭の中でブウンと音がしたように感じた。音響機器が拾ったハムノイズのような音を、頭の中に直接感じている。
「えっ? 今なんか……」
音に戸惑っていると、倍速で再生される動画のようなものが、目の前に見えるようになった。近未来を表すステレオタイプのような、クリアモニターにフルカラーの映像が流れるような映像が見える。
その映像の内容は、あの瀬川が倒れた日の映像だ。説明するためにはちょうどいい内容の映像が、何度も何度も繰り返される。
それはものすごいスピードの映像だった。それが、何度も、何度も、何度も、何度も流れて行き、突然ふっと途切れた。それが終ると、
「こうやって映像を繰り返し見せて、相手に状況を理解させる。今はお前にわかってもらうために、随分ゆっくりと流した。本来はこれの数百倍の速度で見せる。なんの説明もせずとも、相手はそれを理解して受け入れる。サブリミナルだな」
「サブリミナル……。せ、洗脳……ですか?」
「おい、人聞きの悪い事を言うな。しかし、完全否定は出来ないな」
綾人は驚いている。
綾人の両親は、心霊の類を信じないタイプの人たちだ。それなのに、彼らがこの映像の内容を受け入れたということは、それを受け入れたということになる。綾人には、そのことが信じられなかったのだ。
「すごい! さすが神様って感じですね。父さんたち、オバケとか全然信じないんですよ。それなのに、これを信じたんですよね。ってことは、お化けも信じたって事でしょう? すごいなあ」
綾人は、神様はこんなことまで出来るのかと驚いた。もしかして、これまでにもこんなふうに有無を言わさず、色んな人の思想は操作されて来たのだろうか。そう考えると、空恐ろしくなったりもする。
そして、ふとある疑問が湧いた。人間がそんなに簡単にコレを受け入れることが出来るのであれば、もっと有効に活用出来る事があるんじゃ無いかと思ったのだ。
「あの、どうしてこのやり方で過去の俺を更生させることはしなかったんですか? これなら話が早そうなのに」
すると、
綾人は焦った。これは良くない発想だったのだろう。どうにかして取り繕った方がいいのだろうかと思案していると、そんな綾人を見て、
「ああ、すまない。お前は別に悪くない。ただ、人間は効率化が好きだなと改めて思っただけだ。そしてあまり気づかぬよな。効率化がかえって仇になることもある。成果を出すために効率を良くしようとして、成果が出せない道を選んでは意味がない。お前は魂の成長のために更生をするべきであって、それを理解せず、またそのための労をせずであれば、どれほど人を救おうとも、それは成果とは言えない。それを分からねばならぬぞ」
笑いながらも、
人間のそういう行いを見るたびに、呆れ、落胆し、見捨ててきたのかもしれない。過去の綾人も、そのうちの一人だったのだろう。やはり良く無い考えだったと反省し、言ってしまった事を後悔した。
「ごめんなさい。そうですね、他人任せな発言でした。言われてみればその通りです。そこは自分で頑張るべきところでしたね」
綾人がそういうと、
「殊勝なことじゃないか、綾人。えらいぞ。魂はちゃんと成長しているようだな」
そして、満足そうに微笑むと、ゆっくりと綾人の方へと顔を近づけていく。怯えたままの綾人の目を覗き込み、その内に捉えた。今度はとても機嫌の良さそうな笑みを見せている。
穂村の深淵の目とは違い、
焦燥感が消えて湧き起こった衝動に、綾人は甘えを見せた。
「今日は浄化をする必要は無いから、これは単なる俺の気まぐれだ」
そう言いながら、お互いの顔を近づけた。
綾人の唇に自分の唇を当てる。それは、まるでお互いに初めてするような、相手の気持ちを試すような、ひどく幼い口付けだ。
「ちょ、っと、待って……!」
飛び出した声が自分のものとは思えないくらいに艶があり、綾人は思わず
「ごめんなさい。びっくりして……。貴人様? 大丈夫ですか?」
思い切り突き飛ばされた
「綾人……。頼むから、あまり俺を煽らないでくれよ。さっきも言ったが、俺はお前に
「安心してください! そんな、こと、さ、させませんから! 抱くってなんですかっ! 俺はそんな事望んでませんからね!」
そう叫ぶと、布団の中に潜って出てこなくなってしまった。
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