第10話 目が覚めて


——「お父様? その方はどなたですか?」


 長い黒髪と真っ白な肌が印象的な少女が、俺の隣に立っている人に話しかけている。その娘の視線は、俺への戸惑いを隠せないようだった。隣に立つ男性は、長い髪を三つ編みにして左肩に垂らしている。その綺麗な横顔を見上げると……。



「えっ?」


 目を覚ますと、綾人は自分の部屋にいた。大学で倒れた後、あのまま眠ってしまっていたらしい。そして、夢を見た。それは彼がこれまで見ていた収容所のものとは違って、どこかのお屋敷での出来事のようだった。

 そのあまりの現実感の強さに驚く。まるで、今目の前であの少女が話しているようだった。


 夢というにはあまりにも現実味があり、あの処刑される夢の時と同じように、やたらと五感に訴えるものが多かった。少女の視線に困っている自分の心情に、僅かながら命の危機が感じられたことも、この動揺の理由の一つだった。


「処刑とか命の危機とか、もう勘弁してくれ」

 

 夢を見る前には、現実とは思えない出来事に見舞われ、夢の中はやたらに現実味がある。綾人は体を起こしてベッドに座り、頭を抱えた。ヘッドボードに背を預けて首を擡げると、コンと乾いた音が鳴る。


 恐ろしさに身構えたからか、高熱が出た時のようにぼーっとしていて、体という容れ物だけを残し、精神がずるずると下へと滑り落ちていくような倦怠感に見舞われている。体が鉛のように重いというのは、こういうことなのだろうかと、その言葉の妙に変に納得していた。


 成長期に、体の変化についていけず、毎朝なかなかベッドから出られなかった頃に似ている。あの毎朝母親から怒られていた日々は、これまでの人生で、唯一親を嫌いになりそうな時期だった。あの怠さの中で響く怒鳴り声は一生忘れないだろう。

 しかし、それも成長が落ち着くとともに減り、今ではまるで無かったことのようになっている。


「でももう成長期じゃないしなあ。疲れもあるだろうけど、風邪引いたかな。すっげえ怠い」


 今日のこれはなんだろうかと、綾人は考えてみる。体調不良といえばそうだ。ただ、これまでに経験したことがないような怠さと共に、心地良さもあるように思う。ふわふわと浮ついているようで、ズシリと体が沈み込むような、なんとも言えない不思議な感じがしていた。


「……トイレ」


 めんどくさいなあと思いつつも、流石に漏らすわけにはいかない。ヨイショと声を出して立ち上がった。誰も居ないつもりで独り言ちた綾人の耳に、突然柔らかな低音の雅な笑い声が飛び込んできた。


「年寄りのようだな、綾人」


 聞こえてきた方を見ると、ドアに背をもたれて貴人たかひとが立っていた。右目にあざがなく、瞳がルビーのように赤い。それは穂村ではなく、貴人たかひとであることを示している。


貴人たかととして泊まらせてもらう事にした。だからお前の服を借りたぞ」


「え? あ、それ、僕の服なんですね」


 言われてみると、彼は確かに綾人の部屋着を着ていた。それは見慣れた服であるはずなのに、言われるまで全く分からないほど、いつものものとは印象が違って見える。一番ゆったりしたシルエットであるはずのTシャツも、彼が着ると全く余裕がなく、苦しそうに見えた。


 綾人は、決して小柄な方ではない。華奢ではあるものの、身長は平均とそう変わらないし、骨格もそれなりにしっかりしている。違いがあるとすれば、筋肉量だろう。それだけはどうしようも無かった。


 貴人たかひとの姿を見ていると、穂村と綾人の体格差を見せつけられているようで、少し傷つく。しかし、あまりに着丈の足りていない様子が、成長期の子供を見ているようで、可愛らしく見えないこともない。


 そう考えるとおかしくなり、綾人は貴人たかひとを目の前にして思わず吹き出してしまった。笑われた方はそれを見咎めると、不服そうな顔をする。不満を露わにして、綾人のそばへ詰め寄って来た。


「……何を笑っている? お前、俺をバカにしてるだろう」


「ええ? いいえ、してませんよ。あの、その、ふっ、服が体にぴったりくっついていると、なんだかちょっと可愛らしく見えてしまって……。いえ、あの、違います! そんなにピチピチだと、気持ち悪くないですか? 俺ちょっと父に頼んで服を借りて来ます。その方がサイズが大きいので、着やすいと思いますし……」


 そう言って、父のところへ行こうと部屋を出ようとした。しかし、立ち上がりはしたものの、足に力がうまく入らない。すぐによろけてしまうのだ。二歩目まではどうにかなったが、三歩目は踏み出すことも出来ずに、そのままその場に膝から崩れ落ちてしまった。


「あれっ?」


 ドアに体を預けていた貴人たかひとは、綾人が完全に倒れる前にその体を受け止めた。そして、そのまま彼をふわりと抱き上げると、横抱きにしてベッドへと連れ戻していく。


「無理をしてくれるな。俺の気を多めに受けたばかりなんだ。最初は拒否反応で高熱が出るし、意識も飛ぶ。お前、おそらく分かっていないと思うが、あれからもう三日は経っているんだぞ」


「……え? 三日経ってる?」


 綾人は、驚きのあまり素っ頓狂な声を出した。そして、机の上にあるスマホを見つけると、ディスプレイに表示されている日付を見て確認する。本当に、あれから丸二日が過ぎていた。カレンダーもSNSも、間違いなく二日経った事を示している。


 つまり、今はあれから三日目の夜にあたる。ずっと眠っていたのだろうか。それでも、まだ体は回復しきれていないようだ。かなり負担がかかるようなことをされたのだということが、それでよく分かる。力を得るためには、それほどの負荷が必要なのだろう。


「あの、俺は三日間ずっと眠っていたんでしょうか? 学校は休んでるんですよね……。あ、そうだ。親にはなんて言ってあるんですか? 三日も眠ってたのなら、変に思わないんでしょうか」


 貴人は横になっている綾人の隣に座る。そして、綾人の手を握った。


「三日間眠っていたな。俺の気を受けるという事は、浄化が進んだという事だ。悪いものが祓われる時は、その魂の持ち主も同じくらい疲弊するのだから、仕方がない。それと、学校や親との問題だが、そういうものはこうして解決する事が多い。今回もそうしてある」


 そういうと、貴人たかひとは綾人の頭を両手でそっと包み、自分の方へと引き寄せた。そして、その額と自分のそれをコツンと合わせる。そのまま目を閉じて動かなくなってしまった。


 優美な顔が、綾人のすぐ前で目を閉じている。あまりの美しさに、思わずの身を引き離れようとすると、察知した貴人の手にそれを阻まれた。再び引き寄せられた先には、綺麗な長いまつ毛がふさふさと揺れている。


貴人たかひと様? どうしまし……」


 その時、綾人は頭の中でブウンと音がしたように感じた。音響機器が拾ったハムノイズのような音を、頭の中に直接感じている。


「えっ? 今なんか……」


 音に戸惑っていると、倍速で再生される動画のようなものが、目の前に見えるようになった。近未来を表すステレオタイプのような、クリアモニターにフルカラーの映像が流れるような映像が見える。


 その映像の内容は、あの瀬川が倒れた日の映像だ。説明するためにはちょうどいい内容の映像が、何度も何度も繰り返される。

 それはものすごいスピードの映像だった。それが、何度も、何度も、何度も、何度も流れて行き、突然ふっと途切れた。それが終ると、貴人たかひとはゆっくり額を離し、綾人に向かってにっこりと微笑んだ。


「こうやって映像を繰り返し見せて、相手に状況を理解させる。今はお前にわかってもらうために、随分ゆっくりと流した。本来はこれの数百倍の速度で見せる。なんの説明もせずとも、相手はそれを理解して受け入れる。サブリミナルだな」


「サブリミナル……。せ、洗脳……ですか?」


「おい、人聞きの悪い事を言うな。しかし、完全否定は出来ないな」


 貴人たかひとはそう言うと、苦笑いをして見せる。多少の罪悪感が伴うようだ。

 綾人は驚いている。貴人たかひとが人間ではないと分かってはいたものの、こんなことが出来るとは、一度も考えたことが無かったのだろう。しかもこれは、ただ人の記憶を操作しただけではなく、彼らの思想すら操作したことにもなると思ったようだ。


 綾人の両親は、心霊の類を信じないタイプの人たちだ。それなのに、彼らがこの映像の内容を受け入れたということは、それを受け入れたということになる。綾人には、そのことが信じられなかったのだ。


「すごい! さすが神様って感じですね。父さんたち、オバケとか全然信じないんですよ。それなのに、これを信じたんですよね。ってことは、お化けも信じたって事でしょう? すごいなあ」


 綾人は、神様はこんなことまで出来るのかと驚いた。もしかして、これまでにもこんなふうに有無を言わさず、色んな人の思想は操作されて来たのだろうか。そう考えると、空恐ろしくなったりもする。


 そして、ふとある疑問が湧いた。人間がそんなに簡単にコレを受け入れることが出来るのであれば、もっと有効に活用出来る事があるんじゃ無いかと思ったのだ。


「あの、どうしてこのやり方で過去の俺を更生させることはしなかったんですか? これなら話が早そうなのに」


 すると、貴人たかひとは一瞬だが強い落胆を見せた。力が抜けるような大きなため息を吐いている。明らかに呆れていた。いや、それよりももう少し強い感情を含んでいるようだ。苛立っていると言った方が適当だろう。


 綾人は焦った。これは良くない発想だったのだろう。どうにかして取り繕った方がいいのだろうかと思案していると、そんな綾人を見て、貴人たかひとはクスリと笑った。小さく被りを振っている。


「ああ、すまない。お前は別に悪くない。ただ、人間は効率化が好きだなと改めて思っただけだ。そしてあまり気づかぬよな。効率化がかえって仇になることもある。成果を出すために効率を良くしようとして、成果が出せない道を選んでは意味がない。お前は魂の成長のために更生をするべきであって、それを理解せず、またそのための労をせずであれば、どれほど人を救おうとも、それは成果とは言えない。それを分からねばならぬぞ」


 笑いながらも、貴人たかひとは吐き捨てるようにそう言った。その言葉には、彼の苦労の重さが含まれている。これまで何人も、そういう過ちをして来た人を見たのだろう。それは明らかに、侮蔑の笑いだった。


 人間のそういう行いを見るたびに、呆れ、落胆し、見捨ててきたのかもしれない。過去の綾人も、そのうちの一人だったのだろう。やはり良く無い考えだったと反省し、言ってしまった事を後悔した。


「ごめんなさい。そうですね、他人任せな発言でした。言われてみればその通りです。そこは自分で頑張るべきところでしたね」


 綾人がそういうと、貴人たかひとは目を見開き、「ほお」と呟いた。そして、目の前で悄気ている人間の顔をまじまじと見る。


「殊勝なことじゃないか、綾人。えらいぞ。魂はちゃんと成長しているようだな」


 そして、満足そうに微笑むと、ゆっくりと綾人の方へと顔を近づけていく。怯えたままの綾人の目を覗き込み、その内に捉えた。今度はとても機嫌の良さそうな笑みを見せている。


 穂村の深淵の目とは違い、貴人たかひとの目は力強くて鋭い。それでいて、その奥には深い愛情が見える。綾人は、その目に見つめられると、そわそわと居心地の悪さを感じるようになる。心が底からひっくり返されそうで、感情を制御できなくなり、それが怖くなってしまうのだ。


 貴人たかひとは右手で綾人の頬にそっと触れる。その手は優しく、温かかった。その温度を感じると、畏れから来ていた緊張が消える。そして、入れ替わるようにして、もっと触れていてほしいという気持ちが湧いてくるのを感じた。


 焦燥感が消えて湧き起こった衝動に、綾人は甘えを見せた。貴人たかひとはそれに応えるように、綾人の髪を撫でた。ゆっくり何度も撫でながら、その反応を見ている。しばらくそうしていた。そして、彼の上に影を作る。


「今日は浄化をする必要は無いから、これは単なる俺の気まぐれだ」


 そう言いながら、お互いの顔を近づけた。


 綾人の唇に自分の唇を当てる。それは、まるでお互いに初めてするような、相手の気持ちを試すような、ひどく幼い口付けだ。


 貴人たかひとはこれまでにも、何度も戯れに口付けをすることはあった。一度も遠慮など示したことの無かった彼が、今日は綾人の目に、恋心を持て余す少年のように映る。カジュアルなのものではなく、儀式的な行為でもなく、貴人たかひとの個人的な気持ちの入った口付けだということが、綾人へと伝わった。


 貴人たかひとが纏う空気に変化を感じ、綾人は顔を耳まで朱に染める。破けてしまうのではないかと思うくらいに、心臓が跳ねていた。顔にかかる貴人の吐息が、徐々に首筋へと移っていく。綾人は堪らずに「んっ」と声を漏らした。


「ちょ、っと、待って……!」


 飛び出した声が自分のものとは思えないくらいに艶があり、綾人は思わず貴人たかひとを突き飛ばしてしまった。口元を手で隠して恥ずかしそうにしている綾人の姿を見た貴人たかひとが、眉根を寄せて辛そうにしている。


「ごめんなさい。びっくりして……。貴人様? 大丈夫ですか?」


 思い切り突き飛ばされた貴人たかひとは、傷ついた子供のような顔をしてベッドの上に寝転がった。そして、ままならない想いを溜め込んでいる胸の内を吐露する。


「綾人……。頼むから、あまり俺を煽らないでくれよ。さっきも言ったが、俺はお前にぎょうをさせないといけない。その間は、お前に口付け以上のことをしてはならないんだ。俺がお前を抱いてしまうと、ぎょうにならないからな。全てをすっ飛ばして、天人になってしまう。それだとダメだなんだ。俺とお前の最後の望みを叶えるためには、我慢しなくてはならない……」


 貴人たかひとはそう言いながら、目の前の獲物を手に入れられない不満を露わにした。それを聞いて、綾人はその言葉の最後を待つまでもなく、枕を彼に思い切り投げつけた。その姿は、顔どころか首筋まで真っ赤になっている。よほど耐えかねたのか、震えながら涙目になっていた。


「安心してください! そんな、こと、さ、させませんから! 抱くってなんですかっ! 俺はそんな事望んでませんからね!」


 そう叫ぶと、布団の中に潜って出てこなくなってしまった。


 貴人たかひとは額に手を当てて長く息を吐き出すと、「しまった……」と小さく呟くと、頭を抱えて天を仰いだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る