閑話 ノエルの独白

 ☆☆☆


 私はお嬢様が嫌いだった。

 高圧的で私たちを同じ人間だとすら思っていない、あの蔑んだ目が嫌いだった。

 あの声を聴くたびに体が竦む。

 動作の一つ一つに意識が持っていかれる。

 顔を見るたびに心が強張った。


 お嬢さまといるのは私にとって真っ暗で息の出来ない深海にいるのと同じだった。

 苦しかった。

 心が苦しかった。

 どれだけ長く睡眠を取っていても。

 食事をしっかりとっていても。

 太陽の光を浴びている時でさえ、疲れが取れることは無かった。


 ……そんな苦痛から解放されるために私は一つの過ちを犯した。

 最初はそれを過ちだとは思わなかった。

 いや、分かっていたはずなのに態と都合の悪い事実からは目を逸らした。


 そして、目を逸らして過った道を信じて歩いて行った結果、私はいつの間にか死地に立っていた。

 路地裏に迷い込んでしまったときと同じ。

 ちゃんと前を向いて歩いていなかったから、自身の足で危険な場所まで歩いてきてしまったのだ。


 間違って、間違って、いよいよ後が無くなったとき私の前にはお嬢様が立っていた。

 だけど、その時はまだ、お嬢様を慕ってなんていなかった。

 私を助けてくれた、というのは理解できた。

 助けに来てくれたというのも、『もしかしたらそうなんじゃ無いか?』とは思った。

 だけど、ありがとう、という気持ちよりも『何故?』という気持ちの方が先行した。

 いや、本当のことを言うと『ありがとう』なんて素直な気持ちを抱く事なんて出来なかった。


 私は案山子のようにただただ、呆然とお嬢様と男の戦いを見ていることしか出来なかった。

 だけど、男とお嬢様の戦いを見て、二人の会話を聞いて、お嬢様が怯えていることを知った。

 怖いのに私を守るために戦っているのだと気づいた。


 それでも、私はお嬢様に『ありがとう』なんて言葉を吐くつもりは全くなかった。

 そのくらいには私はお嬢様のことが嫌いだった。一度助けられた程度で今まで抱いていた気持ちを、恨みを、全て水に流せるほど割り切ることは、私には出来なかった

 感謝なんて微塵もない。『運が良かった』と思った程だ。


 でも、それと同時に私はなんて惨めなんだろうとも思った。自分よりもずっと小さい子に守られて、しかも、相手は私が毒を盛って殺しかけた相手だ。


 自分よりも小さい子に毒を盛り、苦しめ、そのくせ自分はその女の子に助けられて安堵している。


 あまりにも情けない。

 このまま、無事に全部終わっても、きっと私は一生この惨めな気持ちを抱えたまま生きていくのだと思った。

 だから、無力だと分かっていても、危険だと分かっていても、抗わずにはいられなかった。


 ……だからそう、私は別にお嬢様を助けようなんて考えてはいなかった。これは私の名誉を守るための戦いだったからだ。

 なのに、


「ノエル!貴方何をしているの!?逃げるのは……逃げるのは貴方の方でしょう!!」


 お嬢様にそう言われた瞬間、初めて名前を呼ばれた瞬間、胸がギュッと締め付けられるのを感じた。

 気持ち悪い訳でもないのに、口から何かが零れてきそうな不思議な感覚があった。


 その後は男に痛めつけられ、それを見たお嬢様が覚悟を決めて私を助けて、男をやっつけて終わった。

 カッコいいところなんて見せることが出来ずに、唯々お嬢様に助けられる惨めな使用人のまま終わった。


 そして、全てが終わり、冷静に客観的にものが見れるようになって漸く私は自分がどれだけ大それた事を……間違ったことをしていたのかに気づけた。


 私はもう助からないだろう。

 縛り首か、市中引き回しか、奴隷落ち………………それも、奴隷落ちの場合鉱山に送られて一生そこで働かされるか、娼館に買われて一生、それこそ使い物にならなくなるまで…使い潰されるまで男を喜ばせるために従事させられるかもしれない。


 それは…もう仕方の無いことだろう。

 それだけのことをやったのだ、後には引けない。

 だけど、せめて、家族だけは、家族に罰が行くのだけは避けなければいけない。


 そう…思っていたのだけど…


「ふんっ、勘違いしているようだから言ってあげるけど、貴方の悪意なんてこの私からすれば小蠅が目の前を飛んでいるに等しいことよ。

 気にするだけ無駄だから忘れなさい。」


 お嬢様はあっけらかんとそう言った。

 どういうつもりなのか分からなかった。お嬢様が一番の被害者である筈なのに、それを一切気にしている様子が無かった。


 それが、どうしようもなく、不気味だった。


 後で……それこそ、お嬢様の機嫌を損ねた際、この話題を掘り返されたら家族に被害が行くかもしれない。

 私はドゲザをして、どうにか、どうにか私に対する罰で許していただけないか、その話は既に終わったこととして処理できる状況にしていただけないか、そういう気持ちを込めて懇願する。


 お嬢様は暫しの間、考え込むと一度溜息を吐いて、仕方ないと言わんばかりに私に一つの提案を持ちかけてきた。


「はぁ、なら、貴方には今日から約6年間私の専属使用人として働いて貰うわ。

 当然、来年から通うことになる王立才華魔法学校にも付いてきて貰います。



 良い?私はいつ噛みついてくるかも分からない者をずっと隣に置くつもりは無いわ。



 この6年で私の信頼を勝ち取ってみなさい」


 それは、罰を与えるどころか、私に、罪人であるこの私に失った信頼を取り戻すための挽回の機会を与えるというものだった。

 お嬢様は思っていたよりも器の大きい人間だった。

 上に立つ人間とは自らの命を奪いかけた相手にも斯くも慈悲深いものなのかと戦慄した。


 今までのお嬢様の態度も唯々自らを律するように他人にも厳しくあたっていただけなのではないかと思った。


 私は…………私は…………何故だか、喉に小骨が刺さったような違和感を……泣いている私の心に、心の奥に溜まっている淀みに蓋をして、お嬢様の期待に応えることを誓った。


 だけど、私のその誓いは、必ず果たすと決めた誓いは次の瞬間には……それこそ効力を失った契約書の如く簡単に破られることとなった。




 お嬢様が………………頭を下げたのだ。


「その……私も、えっと、…………わ、悪かったわね!!

 少しは反省しているわ!!!!!」


 それも只、頭を下げたわけでは無い。

 私と……罪人である私と同じ場所まで降りてきて、同じように地に足をつけ、額が床に付くくらい深々と頭を下げた。


 目頭が熱くなった。


 貴族がドゲザをするという意味が分からない程、私も馬鹿では無い。

 ドゲザとは古くから罪人が王に……神に許しを乞うために行う懺悔だ。

 神の傍に立ち、民を導く貴族がやることでは無い。

 何故なら……それは天使が翼をもがれるのと同じように、神の傍に立つものの権利を、貴族の権利を捨て人として許しを乞うと、言外に告げていると捉えられるからだ。


 そして、当然だが、過ちを認めれば、貴族だけで無く民からも侮られる。信用も失う。

 場合によって貴族としては完全に終わってしまうかもしれない。


 今お嬢様が取った行動は弱味を見せることであり、何よりも神の意志では無く、人の意思で行った自らの過ちであると……自分が間違っていたと告げているのと同じだ。


 特に子供であり、特権階級としての教育を施されてきたお嬢様にとってそれは私の想像の及ばないほど勇気のいる行動であっただろう……。







 なんで?


 ずっと、ずっと言えなかった。辛くても、言えなかった思いがあった。

 心の中で淀みとして溜まっていた感情があった。

 言ってしまえば神への反逆、罪人として裁かれる。


 私だけで無く、家族も巻き込んで。

 だから、言えなかった、言えなかったのに…………何で貴方がそれを肯定するんですか?

 私の淀みを飲み下そうとするんですか?


 いつの間にか蓋をした淀みと一緒に押し込んでいた独りぼっちの私が顔を出していた。

 淀みの奥に隠れていた感情が溢れ出して止まらなかった。

 拭っても、拭っても止まらなくて……それを見たお嬢様も何故だか泣いていて何が何だか分からなくなってしまった。

 悪い感情ではないと、思う。だけど、それを言葉としてどう表して良いか分からなくて……整理が追いつかなくて、心に感情が溜まって、どうすれば良いのか分からなくなってしまった。

 気持ちの制御が出来なくなっていた。


 お嬢様が私の頬に触れる。

 そして、お嬢様のお気に入りの、決して誰にも……使用人はおろか、奥様にもご当主様にも触らせたことの無い手鏡を渡してくる。


 その気持ちが少し、嬉しくて、気恥ずかしかった。自分で自分が分からなかった。


 だから、少し茶化して場を濁して、私の心を、独りぼっちだった私を隠してしまった。

 笑顔を浮かべる私を隠してしまった。


 だけど、お嬢様は私の照れ隠し半分本心半分の言葉にむくれ、そっぽを向いてしまう。

 いつもなら見られないお嬢様のそんな顔に私は……隠していたはずの独りぼっち頃の私が顔を出して『綺麗だな』と言った。


 ……お嬢様は黙っていれば可愛い人形などでは決して無かった。


 泣いた顔が、むくれた顔が、きょとんと首を傾げる姿が、感情的でコロコロ変わるその表情が百花繚乱の花畑のように美しい人だった。

 だから、お嬢様が私を「綺麗」と言ったとき、私は自然と


「お嬢様はもっとお綺麗ですよ?」


 そう返していた。

 本心でそう思っていた。

 だけど、お嬢様はどうやら、今の自分の顔に不満があるようで、私に対し「嘘つき」「変態」と言ってくる。


 不服ですと顔に貼り付けながら、そんな風に怒る姿があまりにも可愛くて溢れてくる感情を抑えられなくて思わずお嬢様のことを抱きしめてしまう。

 すると、お嬢様も徐々に緊張がほぐれて笑顔を浮かべて抱きしめ返してくれた。

 それがまた、少し、ほんの少し嬉しくて、頭も撫でてしまう。独りぼっちだった私は『少しじゃ無いでしょ?』と言っている気がした。

 気持ちよさそうに頬を緩める姿が可愛かった。

 離したくないと思ってしまう。

 不敬だと分かっているのに、止めることが出来なかった。

 これで、不敬罪で死ぬのなら、『それもいっか』と思ってしまった自分がいた。


 お嬢様は人形では無い。泣いた顔が、むくれた顔が、きょとんと首を傾げる姿が、そして向日葵のように笑う姿が世界で一番可愛い女の子だった。


 この日のことを私は一生忘れないと思う。

 この後の人生、どんな苦難があろうとも、悪魔が私の魂を弄ぼうとも、死神が地獄へと私を送ったとしても、それでも、決して、決して忘れることはない大切な記憶となった。


 写真のように鮮明に思い出せる輝かしい思い出


 その日その瞬間、私は雲の隙間から差し込む夕焼けですら、只の背景へと成り下がる程美しい、人形では無く、生きた少女の泣き笑いを見たのだ。


 太陽よりも温かい心を溶かす少女の温もりを感じたのだ。


 私はこの日、死後も守り続けることになった一つの誓いを立てた。

 少女の傍にあり続け、その身を如何なるものからも守護するという誓いを……いや、そんなカッコいいものでは無かった。ただ、何があろうと変わらないお嬢様の帰るべき居場所になろうと、そう誓ったのだ。

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