エリョーマ
公爵家に帰ると、門の前には一つの馬車があった。訪問客だろうか。ちょうど夕食の時間なので、ナスターシャの部屋に行くと、そこには彼女ともう一人、喪服を着た四十代くらいのふくよかな女性がいた。
「あ、アンドリューシャ。この方はね」
「リザヴェータ プロフォーリエヴナです」
女性は立ち上がって裾を上げた。
「・・・・あなたが・・!」
私は目を見開いた。
「ふふ、お話は聞きましたよ。あなたがこの子の友達ね」
女性の柔和な笑顔。若い頃はきっと綺麗だったのだろうなと思わせる整ったパーツが並んでいた。
「・・・・はい」
私は彼女と向かい合って座った。二人は並んで長椅子に座っていた。
「・・・・どうしてここに・・・・?」
「遺産整理を済ませて、戻ってきたんです。あのままあちらに居てもいいけれど・・エリョーマは普段はモスクワにいるし、一人は寂しいんですもの・・・・」
リザヴェータはしゅんとした顔で笑った。
「でも・・帰ってきたら、こんなに可愛い子が私の部屋にいたものだから・・。つい話し込んでしまって・・」
「伯母さま恥ずかしいわ」
ナスターシャは照れるように笑った。すっかり仲良くなっている。
「あなたのことはずっと気にかけていたわ。スイスに行ったって聞いた時もすごく心配したの・・。でも元気に戻ってきてくれてよかった・・・・」
彼女はナスターシャの髪を指ですくった。
「伯母さまが祈ってくれたおかげだわ」
ナスターシャは甘えるように笑いかけた。
「まあこの子ったら」
二人は抱き合った。ノックの音が聞こえた。
「遅くなって済まないね・・て、姉さん・・!」
ミハイル プロフォーリエヴィチは目を見開いた。
「久しぶりね、ミーシャ」
リザヴェータは穏やかに笑いかけた。
「どうしたんだい、突然帰ってきて。何かあったのかい?」
彼はすぐさま姉の元へ近づいて、声をかけた。
「いやね、そんなに驚いて。なんでもないわ。ちょっと寂しくなったから戻ってきただけよ」
心配する弟の不安を拭うように笑って答えた。
「旦那さんが亡くなったんだってね・・・・」
ミハイル プロフォーリエヴィチが労わるように、静かに話しかけた。
「ええ・・・・胃潰瘍でね・・・・でも最後は穏やかだったわ。私たち二人で見送ったの。葬式も済ませてね。遺産も・・・・」
そう言っているうちに彼女は涙をぽろぽろと流した。
「エリョーマは平気なようだけど・・・・私はだめみたい・・・・ずっとあの人のことを考えて・・・・」
ハンカチを握りしめて、両手で顔を覆った。
「伯母さま・・・・」
ナスターシャは寄り添うように背中をさすった。
「本当に、仲良しだったんだね・・・・姉さん」
「ええ・・・・ええ・・・・」
彼女は何度も頷いていた。しばらくして、ミハイル プロフォーリエヴィチが口を開いた。
「これからここで夕食を取るんだけど、姉さんもどうかな」
元気づけるように提案した。
「いいの・・・・? ぜひ・・!」
四人の食事は穏やかなものだった。リザヴェータが夫との出会いついて話して、ナスターシャと私は興味津々に聞いていた。
「それでねえ、あの人ったら、”蝶よりも、花よりも、丁重に優しく包み込んであげたい”って言ったのよ」
「まあ素敵!」
ナスターシャはときめいたように言った。
「それでね、この人にならきっと・・私の全てを預けてもいいわって思ったの」
リザヴェータは思い出に浸りながらひとつひとつ言葉を紡いでいた。
食事が終わって、ミハイル プロフォーリエヴィチが話しかけた。
「部屋はどうするんだい?」
彼女は頬に手を当てて天井を見た。
「う〜ん、どうしましょう。フョードルに相談しようかしら」
「それなら、私と一緒はどう? 伯母さま!」
ナスターシャは彼女の肩に肩をつけて提案した。
「まあ、いいの? ナスターシャ」
「うん! 伯母さまと一緒は楽しい!」
二人で笑い合った。
「兄さんには会いに来るよね」
「ええ、兄さんの子供たちとも挨拶するわ。きっと久しぶりだから驚かれるわよ」
彼女は笑って答えた。
「話しておくよ」
そう言って彼は部屋を出ていった。
「エリョーマには会わないんですか・・?」
私が聞くと、彼女は頬に手を当てたまま小さく俯いた。
「会いたいけれど・・どこにいるのかわからないのよ」
「・・・・・・そうなんですか」
私は部屋に戻った。
次の日、ミハイル プロフォーリエヴィチは夕方に出かけるので私は午前中にエリョーマの下宿へ来た。
「おはようございますアンドリューシャ」
いつもの上品さで挨拶された。
「ああ、おはようございます・・」
私は早速昨日のことを伝えた。
「昨日、リザヴェータ プロフォーリエヴナが公爵家に戻ってきたんです」
私が一言話すと、彼は目を見開いた。
「・・・・母が!?」
「やっぱり知らなかったんですか・・・・」
「ええ、だって母は・・・・っ」
エリョーマは口をつぐんだ。
「何かあるんですか・・?」
あまりの驚きように、私は恐る恐る聞いた。
「言えませんが、母がここに一人で来られるはずはありません。これはおかしい」
エリョーマは珍しく焦った様子で唇に触れていた。
「直接会いに行きます」
エリョーマは急いで帽子を取って部屋を出た。私も慌ててついていった。
早足で公爵家へ向かった。門をくぐり、屋敷に入る。
「どこにいるんです?」
「あそこです」
私はナスターシャの部屋の方を指差した。彼は早足で向かった。ノックをする。出てきたのはアマーリエだった。
「アマーリエ、彼女は・・・・?」
私が慌てた様子で聞くと、彼女はきょとんとして答えた。
「リザヴェータさまは先程ご退出なされましたが・・・・」
エリョーマの顔が一気に青くなった。彼は廊下を駆け出した。私は部屋に入ってナスターシャに聞いた。
「伯母さまなら、家族に挨拶しに行くって言っていたけれど・・・・」
私は部屋を出てエリョーマを追いかけた。エリョーマは執務室へ向かっていた。ノックもしないで勢いよく扉を開ける。
「あら、エリョーマ」
リザヴェータが落ち着いた様子で振り返った。
「母さん・・・・っ」
エリョーマは息を切らして、安心したように膝に手をついた。
「ああ、エリョーマ。一ヶ月ぶりだなあ。驚いたよ。お前の母さんが突然帰ってきてね___」
家長が言い終わる前にエリョーマは彼女に駆け寄った。
「どうしたんだい母さん。来るなら連絡くらいしてくれよ」
口調は穏やかだったが、大きな不安がこもっていた。
「ごめんなさいね。突然寂しくなっちゃって」
彼女はへらへらとした様子で答えた。
「寂しくなったって・・・・」
呆気に取られていた。
「・・・・とにかく、屋敷から出ないでくれ・・。僕も時々会いに来るから・・・・」
彼は母の両肩に手を置いて、懇願するように言った。
二人でナスターシャの部屋に戻った。エリョーマはナスターシャに近づいて、手を取った。
「母から目を離さないでください・・・・。理由は言えないけれど・・・・お願いします」
ただならぬ気配を察して、ナスターシャはしっかりとした目で彼を見つめ返した。
「わかりました・・・・」
エリョーマは屋敷を出た。夕方になって、ミハイル プロフォーリエヴィチが出かけていったので着いていった。階段の下に潜む。いつもの挨拶から思い出話が続いた。
「トロフィーモフを覚えているね?」
彼が確認するように聞いた。
「・・・・ああ」
嫌なことを思い出したかのように答えた。
「あの男を殺してからね、ずっとあの男の幻影を見ていたんだ」
おそらく初めて告白したのだろう。私にははっきり亡霊が見えるとは言っていなかったが・・・・。
「・・・・君にも罪悪感というものがあったんだね・・・・」
彼が呆れるように言った。
「罪悪感ねえ・・・・・あの兄妹を破滅させたって点では・・・・そうかもねえ・・・・」
ため息混じりにゆっくりと話した。
「トロフィーモワ嬢にまで手を出す必要はなかっただろう・・・・」
彼は呆れたまま続けた。
「ソーニャは誇り高い女性だった。酒場で私を見つけた瞬間、まっすぐ歩み寄ってきて平手打ちをしたんだ。・・いやあ、あの時の衝撃ときたら・・・・」
嘆息と共に話していた。なんだか恍惚とした声だった。
「・・・・そんなことで」
彼が気持ちが悪いものを見たように言った。
「そんなことで? まあ、そんなことだったよ。嘘みたいに、丁重に、誠実に扱ったよ。あの人にしか話せないことも話した・・幻覚のこともね・・・・。ねえ、男って残酷だと思わないかい? 小さく芽生えた愛情も全部過去のものにできてしまうんだから」
笑いながら飄々として答えた。
「・・・・・・」
彼はもう何も言えなかった。
「その歪みを、あの子は奇跡のように解決してみせたよ・・・・」
「・・・・・・」
黙った。
「全て背負わせてしまった・・・・」
悔やむように言った。
「・・・・やるんだな?」
彼が確認するように聞いた。
「ああ、一週間後に、あの森で」
私ははっとした。森・・・・! 範囲が広すぎる・・! しかし一週間後、彼らを見張っていればわかるかもしれない。私は二人が別れた後に、エリョーマの下宿へ向かった。
「一週間後・・・・森・・・・範囲が広すぎますね・・・・」
エリョーマは唇に指を添えていた。
「ええ、でも・・思い当たる場所があります」
「どこだ?」
私が言うと、ルドヴィカが砂糖を齧りながら興味深そうに聞いた。
「湖です。あそこはミハイル プロフォーリエヴィチしか知らなかった場所で、子供の頃から親しんでいたそうです」
「・・・・なるほど。候補としては有力ですね」
彼は俯いていた顔を私の方へ向けた。
「しかし・・当日は張り込みが必要だと思います・・」
私が言うと、彼は頷いた。
「ええ、そうですね。ミハイル プロフォーリエヴィチとクラソートキンそれぞれに必要です」
「僕は公爵家にいるので、ミハイル プロフォーリエヴィチを・・」
私が答えると、ルドヴィカが手を挙げた。
「じゃあ、俺はクラソートキンってやつを」
「一人でかい?」
エリョーマは眉を上げた。
「ああ、俺なら小回りが効くだろう? 万が一見つかっても、ただの子供だしな。顔も知られてないし」
「エリョーマは母のことがあるでしょう? 張り込みは僕達でやります」
私が話すと、彼は目を見開いて沈黙した。
「・・・・ありがとうございます」
エリョーマは目を閉じた。
夕食の時間が近くなって、ナスターシャの部屋の前に行くと、二人の話し声が聞こえた。
「伯母さま、どうしよう伯母さま。こんなのじゃ修道院に行けない・・・・」
ナスターシャのすすり泣く声が聞こえた。リザヴェータはそれを宥めるようにして話した。
「いいのよ。いいのよナスターシャ。あなたがその人を愛しても、神様を裏切ったことにはならないわ。自信を持って。あなたがあなたらしくいることが、神様を喜ばせることなんじゃない? お父さんを愛するときも、同じ気持ちだったんでしょう?」
優しく語りかけていた。
「そうだけど・・・・私・・その人になんて言えばいいかわからないの。ずっと一緒にいたいなんて言ったら・・困らせてしまうかも・・・・」
すんすんと小さく鼻をすする音が聞こえる。
「あら、そんなことないわよ。その人はずっとあなたのことを気遣ってくれていたんでしょう? きっとあなたの気持ちをしっかり受け止めてくれるわ・・」
私は部屋の前で立ち尽くした。急いで客間に戻った。
「危機だな」
「・・・・お前っ」
私は怒気を必死に抑えて言った。
「跪く覚悟もないうちに、時間が来てしまったみたいだよ」
彼が面白そうに私の顔を覗き込んだ。
「・・・・・・」
私は何も言えなかった。
「情けないねえ」
彼がため息をついた。
「・・・・・・」
「どうするんだい?」
「・・・・どうもしない」
私は呟くように答えた。
「へえ・・逃げるのか」
彼は嘲るように笑った。
「どうにもできないだろ。選ぶのは彼女なんだから」
「本当にそうかな? 今からでも奪えるだろ?」
口元は歪んでいた。
「そんなこと・・・・っ」
「自由になりたいんだろう? 君も」
突然の指摘に私は固まった。
「・・・・っ」
「無理して大学に行くのも、取材をしようと思ったのも、あの子を求めるのも、解放されたいからだろう? 」
私は我慢ができなくなった。
「そんなことのために彼女を・・・・っ」
長椅子から飛び上がった。
「自由とは、運命を受け入れることさ」
「・・・・っ」
言葉が重くぶつかってきた。
「ナースチャはずっと昔からそれができた。君は、神に跪くこともできないのかい? そんな人間があの子の隣に立てるのかい?」
「・・・・・・そうだ」
私は力無く椅子に座り込んだ。
「最初から見ている景色が違かったんだ・・・・。理解しようと思っていた。それ自体が自尊心だったんだ・・」
亡霊は脚を組んで肘杖をついた。
「破壊と再生・・・・」
男が呟いた。私は顔を上げた。
「君は破壊された。次は再生だ。どうやって生き返るのか、誰によって生まれ変わるのか、見せてもらおうか」
男の足元は透けていた。その瞬間ノックもなしに扉が開いた。
「アンドリューシャ・・・・っ」
彼女は慌てた様子で私を見つめた。
「ナスターシャ!?」
「おっと、見つかってしまったみたいだ」
男は消えなかった。焦る様子もないようだった。私は混乱していた。
「アンドリューシャ、大変・・・・!」
私に駆け寄って手を取り、頬を触る。
「ナスターシャ・・? どういうことですか」
「大丈夫だからね、大丈夫だから」
私に抱きついて背中をさすった。彼女の背後から亡霊が近づいてきた。
「そういうことだから、私も行かなければ。君とはもう会うことはないね。短い間だったが、楽しかったよ。じゃあ、永遠にさようなら」
そう言って、彼女に吸い込まれるようにして消えた。私は驚愕したまま固まっていた。その瞬間、ずるりと私を包んでいた腕が落ちた。
「・・・・ナスターシャ?」
目を閉じて動かなかった。
「ナスターシャ!? ナスターシャ!」
急いで呼吸を確認した。息はしているようだった。
「ミハイル プロフォーリエヴィチ! ミハイル プロフォーリエヴィチ!」
彼の元へ駆け込んだ。
「どうしたんですかそんなに急いで」
執務室のドアを叩くと、驚いた様子の彼が出てきた。
「ナスターシャが・・・・意識を・・・・」
彼は目を見開いた。
「アマーリエを呼んできてください。フョードル、医者を呼んでくれないかい? 急ぎで」
二人で、彼女が倒れた場所に向かった。倒れた彼女に跪いて、ミハイル プロフォーリエヴィチもすぐに呼吸を確認した。その後、額を押さえた。
「スイスにいた頃と同じです・・・・」
彼が娘を抱えて、部屋に戻ると、リザヴェータが不思議そうな顔をした。
「まあ、どうしたの?」
「再発しました・・・・」
戸惑いを滲ませて、ミハイル プロフォーリエヴィチが答えた。
「・・・・え」
彼女が近づいて、ナスターシャの顔をのぞいた。
「まあ・・・・なんてこと・・・・」
髪を撫でた。ぴくりとも動かなかった。しばらくして、医者がやってきた。
「昏迷状態のようです・・・・」
毛のない頭を撫でながら、髭もじゃの男が言った。イリーナの主治医である。
「・・・・元に戻るんですか?」
リザヴェータが恐る恐る聞いた。
「・・・・わかりません。このような症状は以前もあったんですか?」
「・・・・十五歳までありましたが・・今日まで元気だったんです・・・・」
ミハイル プロフォーリエヴィチが答えた。
「・・・・そうですか・・こんな聡明な子が・・」
医者は驚き呆れていた。
「・・・・再び奇跡が起きることを願いますが、このまま意識が戻らないようなら・・・・入院を考えた方がよいですな」
去り際の一言がずしんと心に重く落ちた。私のせいだ・・・・。
ミハイル プロフォーリエヴィチが兄の元へ行って、私たち四人が残った。
「お嬢さま・・・・っ! お嬢さま・・・・っ」
アマーリエが泣きじゃくっていた。当然である。孫のように愛していた人だ。リザヴェータはナスターシャの手や腕をさすっていた。
「・・・・・・」
私はそれを見つめていた。彼女がそれに気づいて笑いかけた。
「こうすれば、少しは苦しいのが和らぐでしょう・・・・ほら・・あなたも・・・・」
私は感極まりながら、眠っている彼女の手を取って包み込んだ。
次の日、朝食を済ませて、彼女の部屋に向かった。
「おはよう。記者さん」
リザヴェータが笑いかけた。
「おはようございます」
ナスターシャの眠るベッドへ歩き出した。傍の椅子に座った。
「ナスターシャ、今日はエリョーマのところに行きます。あなたのことを伝えに」
手を取ってさすった。
「この子みたいに接吻してあげたら?」
リザヴェータが笑いかけた。私はしばらくその手を包み込んで、手の甲に口をつけた。
「まあ・・・・」
私は部屋を出た。
「再発・・・・!?」
エリョーマが言葉を詰まらせた様子で言った。
「・・・・そうみたいです・・・・」
私は自分の膝に拳を置いていた。
「・・・・僕のせいなんです・・・・」
しばらくの沈黙の後、エリョーマは真剣な顔をして私を見つめた。
「・・・・一月前から・・ミハイル プロフォーリエヴィチと同じ悪霊が見えていたんです・・・・」
「・・・・悪霊・・・・ですか・・・・?」
彼が目を見開いた。
「彼が決闘で殺したセミョーン ステパノヴィチです・・・・。彼は・・ずっとあの男の幻影に悩まされていました・・。それをナスターシャが身代わりになって助けたんです・・・・僕に対しても・・同じように・・・・」
私は項垂れながら話した。
「・・・・・・」
エリョーマは黙って私を見つめていた。
「あなたは・・・・彼女を傷つけたと、思っているんですか・・・・?」
黙って頷いた。
「・・・・僕の話をしましょう」
顔を上げると、彼はまっすぐな目を私に向けて、話し出した。
「私の母は、父親のわからない子どもを身籠もっているんです」
私は息を詰まらせた。
「父が死んだのは一年以上前です・・・・それなのに、モスクワから帰ったら母は突然お腹を大きくして・・・・だから、あんな身重な体で、しかも一人で里帰りしてくるなんて、異常なんです」
ああ、あれは太っていたんじゃなくて・・・・。彼女の終始へらへらした様子を思い出した。確かにおかしい。
「あの母が父を裏切るはずがありません・・・・。母は貴族の血筋があるし・・今も綺麗です。父を亡くしてから、近寄ってくる人はいました。だから思い当たるとすれば・・・・私がモスクワにいて、手伝いが不在の間に・・・・」
エリョーマは目を伏せた。最悪の考えが浮かんだ。
「それでも、母はお腹の子は父の子だって譲らないんです・・・・何かあったかもしれないのに・・あんなふうに笑顔で・・・・」
彼は髪をくしゃと握り、歯噛みをした。
「僕は母を守れませんでした・・・・。だから・・傷ついた心だけでも治してやりたいんです。今はこうしてひた隠しにしているけれど、いつか壊れてしまうかもしれない・・・・」
だから、あれほどまでにナスターシャに心のことを・・・・。
「ナスターシャも同じです。ああいう健気で美しい人たちは、真っ先に傷つけられるんです。それなのに、母も彼女も優しさを失わない・・。僕は、そんな人たちが犠牲になるのは・・見ていられないんです・・」
彼が前に言わなかった秘密を思い出した。
「だからあなたは・・・・」
彼は額から手を離して頷いた。
「はい・・・・僕は・・医者にならなければいけません。あなたが記者をしているのも、同じ理由なのではありませんか・・・・?」
「・・・・・・」
私は、新聞社に勤めて最初に書いた記事を思い出した。五歳の娘を教育で殺めた両親の裁判についてのレポートだ。私も、最初は純粋な気持ちだった。それなのに・・・・。
「今のあなたにもきっとその気持ちは残っているはずです・・・・」
出かける前に彼女に接吻したことを思い出した。あの時、なんとも思わずに、自然と行動していた。あれと同じ気持ちで・・・・彼女は・・・・。
「彼女は・・あなたが相手だからこそ、その魂を捧げようと思ったのかもしれませんね」
私ははっとした。目の前の彼は穏やかに微笑んだ。
「・・・・跪く覚悟はできましたか?」
「・・・・もちろんです」
私はしっかりとした声で答えた。
「僕も公爵家へ着いて行きます。彼女の様子を見たいですからね」
二人で公爵家へ戻った。ナスターシャの部屋に入ると、彼女以外誰もいなかった。彼女が眠るベッドへ向かう。すると向こうから呻き声が聞こえてきた。二人で恐る恐るベッドの影を覗くと、そこには倒れたリザヴェータがいた。
「母さん!?」
エリョーマが駆け寄って跪いた。しばらく様子を見た後。
「破水です! 産婆を呼んできてください!」
私は急いで人を呼びに走った。フョードルに産婆を呼びに行かせ、アマーリエとマーシャを呼び、家長にも伝えた。
マーシャが桶に入ったぬるま湯を持ってきた。アマーリエはタオルをたくさん持ってきた。長椅子にタオルを敷き詰めて、苦しむ彼女をそこに運ぶ。
「あなた! あなたごめんなさい!」
彼女は泣きながらうわ言を言っていた。
「ごめんなさい・・・・ごめんなさい・・・・!」
「母さん、しっかり! ちゃんと息吐いて。母さんは何も悪くないんだ。僕が信じてる。ずっと信じてるから」
エリョーマが冷静に励ました。それからもずっと謝罪の言葉を口にしたまま苦しんでいた。産婆はやってこなかった。扉が開かれる。フョードルが出てきた。
「皆、他の人の出産に出ていってしまっています・・・・!」
「・・・・くっ」
エリョーマが歯軋りした。
「仕方ありません・・っ。僕がやります。みなさん手伝ってください! アンドリューシャ、君もですよ・・・・っ」
目を見つめられて頷いた。
「ああ、どうしましょう! 神様を殺してしまった! ああ!」
汗だくになりながら叫んでいた。
「大丈夫だよ母さん。僕がちゃんと受け止めるから。だから怖がらないで。母さんは神様に愛されてる。僕もずっとそばにいるから」
切れ切れになった呻き声が響いた。私は彼女の手を握っていた。痛いくらいに強く握り返された。数時間ほど経った。もう日が暮れようとしていた。
「うぅうぅぅぅうぅっ!!」
「頭が見えてきた。母さん、大丈夫だよ。大丈夫だから」
エリョーマが励ます。
「はっーーーはっーーーー」
「その調子だよ。息整えて」
呼吸と呻き声が交互に続いてしばらく経った。
「肩まで出たよ。母さん! もう直ぐだよ。踏ん張って」
数回の呻き声の後に甲高い鳴き声が響いた。
「母さん生まれたよ。元気な女の子だ・・・・。僕の妹だよ・・。頑張ったね。本当に頑張った・・・・っ」
エリョーマは赤子を取り上げて、ぬるま湯で洗った。もう夜だった。
「は・・・・は・・・・よかった・・・・よかったあ・・・・」
リザヴェータは力なく笑った、その頬には安心したように涙が流れていた。私は膝の力が抜けた。エリョーマが赤子の臍の緒を切り落とし、タオルで包んで見せた。灰色の瞳だった。家長に無事お産が終わったことを伝えようと、部屋を出ると。人だかりができていた。
「・・・・ニコライ ニコラエヴィチ・・・・皆さん・・・・」
「すまない。邪魔してはいけないとは思っていたが・・皆心配していたから・・・・」
ワルワーラやセルゲイが頷く。
「・・・・母子ともに無事ですよ・・・・元気な女の子です」
私が報告すると、安堵と喜びの声が響き渡った。
次の日、やっと産婆がやってきて、産後のリザヴェータの世話をした。彼女は別の部屋に一人移された。エリョーマは彼女の世話をするために屋敷に留まるようになった。
「これからどうするんですか」
私は裏庭で彼と話していた。
「・・・・公爵家に戻ろうかなと思っています。母はきっとこれからもここに留まっていた方が安全です。私がモスクワにいる間も家族の目がありますし、遺産整理も済んでいますし・・」
彼は唇を触って考え込むように話した。
「きっと、一人でここに来たのも・・、本能的に危険を感じたのでしょう・・・・」
彼は目を細めていた。
「・・・・妹の名前は決まっていないんですか」
「ええ・・まだ・・・・母も落ち着いていないですし」
しばしの沈黙が流れた。リザヴェータは齢四十を超えての出産による大きなストレスや、ここに逃げてくるまでの長い緊張状態によってひどく混乱しているようだった。
「・・・・あなたが決めてみては?」
彼が私の方を見た。
「僕がですか・・?」
彼はまた考え込むように下を向いた。
「・・・・アヴドーチャはどうでしょう・・・・」
「”神の祝福”ですか。いいですね」
「母が落ち着いたら伝えようと思います」
彼はこっちを見て口角を上げた。
ナスターシャの部屋に来て、ベッドのそばの椅子に座った。
「ナスターシャ・・・・昨日は本当に大変でした・・・・。今はみんな彼女と赤ちゃんに夢中になっています・・。いつも一人で寂しくないですか・・・・? アマーリエも赤ちゃんの世話に駆り出されているし・・・・」
手をさすりながら話しかけた。扉を開く音が聞こえた。革靴の音がゆっくりと響いて、ベッドの向かい側に座ったのはミハイル プロフォーリエヴィチだった。彼が娘の頬を撫でた。
「こうしてみると、最初からそういうものだったみたいだね・・・・」
私は彼女の頬を撫でる手を目で追っていた。
「・・・・・・」
彼は穏やかな目で娘を見つめていた。手を取って、包み込んだ。
「・・・・私は・・・・自由が欲しかったんだ・・・・。でも、自由の本当の意味に気づいた時には・・・・何もかもが遅かった・・・・」
彼の目は静かだった。
「・・・・この子は、自分の力で、自分の居場所を作ってしまった。お祖母さまとも仲良くなってしまって・・・・。この子はきっと、誰が親でも、正しく育ったでしょうね・・・・」
彼女の手相をなぞるように、手の中を親指で撫でた。
「この子に必要なのは・・・・私ではなかったのでしょう・・・・。私がいる限り・・この子は悪霊から逃れられない。私が逃げる限り・・・・この子は私の償いを背負ってしまう・・・・」
私は不安になりながら彼の顔を見た。
「・・・・もう、逃げる理由はありません」
しばらく彼女の手を握ったのち、部屋を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます