第6章
保健室の入口。
夕暮れの柔らかな光がカーテンの隙間から差し込み、机や棚に複雑な陰影を落としていた。その中で、美術教師は一台のベッドに腰を掛け、深く俯いていた。顔色は悪く、額にはうっすらと冷や汗がにじんでいる。細い指先が膝の上でかすかに震えているのを、鈴香は見逃さなかった。
鈴香は一歩、二歩と彼に近づき、声を押し殺すように問いかける。
「……片桐省吾先生。あなたが――贋作師であることを、わたしたちは知っています」
その言葉は、保健室の静寂を破った。美術教師はハッと顔を上げ、驚愕に見開いた瞳で鈴香を見つめ返す。しかし、その目の光は一瞬で消え、やがて重く沈むように伏せられた。
「……いったい、何を言っているんですか。私は、ただの……ただの美術教師ですよ」
震えを帯びた声。だが、その否定には力がなかった。
鈴香は静かに首を振る。
「しらを切っても無駄です。美術室に入った泥棒は、先生が贋作を描くことを拒んだから――先生の作品を扱っていた『闇の美術商』――黒川信介が、先生が贋作者である証拠を奪おうとしたんですよね」
教師は一瞬言葉を失い、視線を泳がせながら拳を固く握りしめた。その頬がぴくりと引きつり、再び苦しげに顔を歪める。しかし、なおも毅然と声を張った。
「馬鹿な……! 根拠もなしに、そんなことを……!」
その瞬間、鈴香はわずかに微笑む。勝ち誇るというより、優しく包み込むような眼差しだった。
「ええ。もちろん、根拠はあります」
「ま、まさか、そんな……やめろ、もうやめてくれ……」
絞り出す声には苦悩と恐れが入り混じり、強がるように吊り上げた口元の上で、瞳だけが必死に助けを求めていた。
鈴香は視線だけで綾音に合図を送った。忠実なメイドはすぐにタブレットを取り出し、素早い操作で表示した画面を教師の前に差し出した。
「こちらをご覧ください」
そこには、
・片桐と『闇の美術商』――黒川の2ショット写真
・黒川が、高名な画家――御影周蔵の贋作を新作と偽って販売し逮捕されたが嫌疑不十分で釈放されたというニュース記事
・御影周蔵が利用していた画材のブランドを示す美術雑誌のページと、美術室にある画材のブランドが同じものであることを示すデータ
が、無機質に並んでいた。
美術教師は、唇を震わせながら画面を凝視する。顔から血の気が引いていき、手は膝の上で握りしめられ、白く変色するほど力がこもっていた。
「……そんなものは、証拠にはならない」
教師は、声を振り絞った。
「画材など、誰でも使える。黒川と写っている写真だって……あの男と私の関係を証明するものにはならない。私は、私は……贋作師などでは……!」
震える言葉の端々に必死の抵抗がにじむ。だが、鈴香は一歩も退かなかった。
「では、月岡さんはどうなるのです?」
「……え?」
教師はかすれた声を漏らした。
「あなたが特別に目をかけている教え子――月岡さんが通っている絵画教室、あれは黒川が経営するアトリエです。このままでは、黒川は月岡さんまで裏の世界に取り込みますよ」
美術教師の表情が凍りついたのを見て、 鈴香は言葉を畳みかけた。
「このまま黒川を放置すれば、月岡さんだけでなく、また多くの若き才能が食い物にされるでしょう……それでも、まだ目を背けますか?」
教師は唇を噛みしめ、目を伏せる。 否定の言葉を探しているようにも、自分自身を責めているようにも見えた。
重苦しい沈黙が美術室を満たした、そのとき――。
「先生!」
扉が開き、周平が女子生徒――月岡結愛を連れて入ってきた。驚いた美術教師が顔を上げると、月岡が真っ直ぐに彼を見つめた。
「……私は、先生が過去にどんな罪を犯したのであっても、先生から学んだ絵を描く喜びを忘れません。たとえ贋作師だったとしても……尊敬の心は変わりません」
涙をこらえながら言葉を紡ぐ結愛。
「だから……だからこそ、お願いします。裏の世界とは手を切ってください。誰かを欺くためじゃなく――人を幸せにするためのものであるはずです」
その純粋な訴えに、美術教師の肩が大きく揺れた。拳を握りしめると、嗚咽を押し殺すように顔を覆った。やがて、搾り出すような声が漏れる。
「……私は……御影先生の贋作を黒川に渡していました。――私は間違いなく贋作師です」
教師は深く息を吐き、目の前の空間を虚ろに見つめた。
「黒川は、私に再び贋作を描かせるために……そして、そのために私を脅す材料として、贋作師である証拠を手に入れようとした。それが――今回の事件の真相です」
告白の言葉は、美術室に重く響いた。まるで何年も背負っていた重荷を手放すように、声には疲労と後悔がにじんでいた。
「私は売れない画家で、画材購入のための借金もあり、ずっと実家で暮らしていました。それが親の会社がつぶれてしまって……私は一夜にして路頭に迷いました。画材はともかく住む場所もなく、画家を諦めるしかなかったんです。そんな私に手を差し伸べたのが――黒川でした。衣食住を提供し、借金を肩代わりする代わりに、贋作を描けと。私は……画家としての魂を売り渡すしかなかった……」
吐き出すような言葉の端々に、悔恨と自責の念が重なっていた。美術教師の目から、堪えきれない涙が零れ落ちる。
「じゃあ……神戸さんの推理を拒んだのも、贋作師だった過去を隠すため、だったんですね」
颯太の静かな問いかけに、教師は力なくうなずいた。
鈴香の目には、颯太が、美術教師を幼い頃の自分の父に――会社が倒産し、苦悩の表情で家族を守ろうとした父の背中に重ねているように見えた。胸の奥が締め付けられるように痛む。
「……そうです。生徒たちに尊敬される教師でありたい。その一心で、私は過去を必死に隠してきました。しかし、君たちに知られてしまった……もう終わりだと思った……」
その言葉は、鈴香の心を深く打った。彼の後悔と恐怖、そのすべてが痛いほど伝わってきた。
「先生……」
鈴香は、涙をこらえ一歩前に進む。そして、まっすぐに教師の目を見据えて告げた。
「先生の過去は、わたしたちだけの秘密にします。誰にも話しません。先生は、わたしたちに美術を教えてくれる大切な人です。過去の過ちよりも、今こうして教師であることの方が、ずっと大切なんです」
その真っ直ぐな言葉に、教師の目から再び涙が溢れ出した。
「……ありがとう……本当に、ありがとう……」
そのとき――窓の外で轟音が響いた。鈴香が目を向けると、ヘリコプターが低空で旋回し、煌びやかなスーツ姿の男が姿を現した。風がカーテンを大きく揺らし、書類が舞い上がる。
「私の可愛い娘の探偵活動に、金の力が必要だそうじゃないか!」
神戸グループ会長にして、鈴香の父である。彼は朗らかに笑い声を放ち、威厳を持って娘と隣り合った。
「先生の借金は、この私がすべて払ってやろう! 美術教師として、画家として、もう一度やり直すが良い!」
突然の見知らぬ男の派手な登場に、美術教師の身体がこわばり、顔色も一気に悪くなったように見える。
鈴香はその男に向けて声を張り上げた。
「うるさいわね! わたしの推理の邪魔をしないで!」
しかし颯太は冷静だった。鈴香の腕を軽く引き、耳元で囁く。
「落ち着け。これは囮だ。周りを見てみろ」
鈴香が視線を巡らせると、そこには母が静かに立っていた。母は周囲に悟られぬよう静かに語りかける。
「お父様があんなに派手に借金肩代わりを申し出てしまえば、片桐先生はとても受けてくれないでしょう。なので、先生の作品をオークションに出品し、その売却益を借金返済に充ててもらいなさい。もちろん、神戸家が落札します。美術室の盗難事件は理事会に根回しし、生徒の悪戯として処理されるようにします」
母の落ち着いた言葉に、鈴香は大きくうなずいた。
事件は解決した。鈴香は、母もやはり神戸家の一員であることを、確かに理解した。
やがてオークションの日。
出品された絵は、磨いた技術を尽くして片桐が本心から描いた一点だった。その筆致の純粋さと、色彩の力強さは参加者の心を掴み、神戸家が応札せずとも相応の額で落札された。
その結果を知った彼は、鈴香たちに深々と頭を下げ、声を震わせながら感謝の意を示した。
「本当に……ありがとうございます。過去はすべて受け入れた上でしっかりとやり直します」
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