富豪令嬢探偵
大神杏平
第1話 富豪令嬢探偵、誕生
第1章
「すべてをお金で解決できるなんて、退屈な人生だと思わない?」
神戸鈴香は、制服のスカートを整えて、校舎屋上のテラスにある白いベンチに腰を下ろした。澄んだ空は高く、柔らかな日差しが肌に心地よく降り注いでいる。頬に当たるそよ風は新緑のみずみずしい香りを運び、心の奥に清々しさをもたらす。
そのテラスは、神戸家の寄付によって特別に設置された空間だ。花壇にはチューリップやパンジー、ツツジが整然と手入れされ、その前には真新しい白いベンチが等間隔に並んでいる。名門校の象徴として新聞や広報誌に何度も掲載されたこともあり、鈴香にとってここは心地よい誇らしさと、息苦しい退屈さが同居する場所だった。
周囲では、数人の生徒たちが思い思いに時間を過ごしている。花壇のそばでスマートフォンを構える女子たちは、まるで雑誌の一ページのように笑顔を作り、ベンチの向こうでは紙コップを手にした男子生徒たちが談笑している。
鈴香の手元のスマートフォンには、パリの有名ブランドが発表した新作バッグの画像が映っている。デパートの外商担当から送られてきたものだ。しかし、鈴香はすでに同じデザインのバッグを五つも持っていた。写真の中のバッグは確かに洗練されており、見る者の目を引く魅力があったが、胸はときめかなかった。
(また同じ。どれだけ手に入れても、もう驚きはない)
眼下に広がる街並みも、青く澄んだ空の下で輝く海原も、すべてが神戸家の財力の延長線上に見える。鈴香はそのすべてを、一歩引いた場所から見下ろしている自分に、ふとげんなりする。父の口癖が脳裏に蘇った。
「金で買えないものなどない」
幼いころは、この言葉にあこがれと安心感を覚えた。だが今では、胸の奥に小さな苛立ちが残っている。金で買えるものばかりに囲まれた生活に、鈴香はいつしか退屈を感じるようになっていた。
「旦那様は、世間一般の常識から逸脱した富豪でいらっしゃいますから」
穏やかな声が横から差し込む。メイド服姿の伊藤綾音が立っていた。鈴香の肩越しに手元のタブレットを傾け、常に情報の最前線に目を光らせている。光を反射する黒髪を後ろでまとめたその姿は、友人でありながら忠実な従者でもあることを物語っていた。
「そうじゃなくって、もっと……知恵を絞って困難を乗り越えるような、スリルのある人生がいいの!」
鈴香は空をにらむように言い放った。
綾音は無言で小さく首をかしげる。その仕草には、理解と呆れが入り混じっていた。鈴香の突拍子もない言葉をただ受け止めることが常であったが、稀に否定することもある。それが、二人の奇妙な主従関係だった。
「綾音こそ、いつまでもメイドなんかやってなくていいのよ。わたしからお母様にお願いしておくから」
もう何度目かになる申し出を綾音に伝えるが、答えはいつもと同じだった。
「いえ、結構です。お嬢様をお支えすることが、わたしの唯一の希望ですので」
「申し分なく有能なんだけど、すごく頑固なのよね……」
(裕福な家庭に有能なメイド……周りから見ればきっと、羨ましい限りなんでしょうけど……退屈を壊すきっかけが、どこかに転がっていないかしら……)
鈴香はそんな漠然とした思いを抱えたまま、その日の午後を迎えることになった。
授業中、鈴香は窓の外をぼんやりと眺めていた。教室のざわめきも、友人たちの軽口も、どこか遠くで響く音のように感じられる。ノートに文字が書き込まれる音や教科書がめくられる音も、鈴香の心には届かない。目の前の授業内容はすでに頭に入らず、ただ退屈さが身体を覆っていく。
ふと、窓の外で小さな鳥が木々の間を飛び回るのを見つけた。鈴香は思わずその軽やかな動きを目で追ったが、しばらくして鳥は視界から消えていった。そのとき、胸の奥に微かな高揚感が広がった。
(こうして何もせずにただ時間を消費するのは、やっぱり嫌……)
放課後の教室では、創立記念日ならではの浮き立った空気が漂っていた。窓際から差し込む夕陽が机を赤く染める中、いつもは部活や委員会活動に忙しい生徒たちも、あちこちで友人同士で笑い声を交わしていた。鈴香もまた、取り巻きの友人たちと軽口を叩きながら談笑しているのだが、その中で、つい不自然に目を動かしてしまう。何か、日常を揺るがす刺激がないかと――。
その輪の少し外れた所に、森永颯太の姿があった。彼は机に教科書を広げ、シャープペンシルを静かに動かしている。クラスで目立つ存在ではないが、冷静で、他人に流されない雰囲気を醸し出しているため、周りからは密かに一目置かれていた。
そして、鈴香にとって颯太はただのクラスメイトではない。颯太の父は、かつて鈴香の祖父の事業の影響で倒産した会社の社長だった。その償いのように、今は鈴香の父が颯太の生活を支援している。互いに言葉にこそ出さないが、颯太の感情を押し殺した目に浮かぶ陰りを見るたびに、鈴香の胸の奥は負い目にも似た痛みを覚えた。
鈴香は視線を颯太からそっと外し、隣に座る田村周平に向き直った。放課後の浮き立った空気の中、教室のあちこちで楽しげな声が聞こえてくる。
「田村くん、今日は何か面白いことあった?」
話題が豊富な周平へ鈴香が声をかけると、彼は待ってましたとばかりに目を輝かせた。社交的でおしゃべり好きな彼は、情報を入手するのがずいぶん早い。
「そういえばプリンの匂いがしてたな。俺は買わなかったけど、美術の片桐先生がパッケージをデザインしたんだって」
その言葉に鈴香は記憶を呼び戻した。今日の創立記念日限定で、学園の美術教師がデザインした特別なプリンが限定販売されていたのだ。全国的に有名な市内の洋菓子店とのコラボレーション企画で、その売上は、体調を崩して休んでいる美術教師のために寄付されるとも噂されていた。
鈴香の胸に、退屈を打ち破る小さな予感が芽生えた。
(何かが起きる。わたしの退屈はもうすぐ終わるはず。きっと……)
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