第3話 貴公子の一瞬

 アーサーは自分自身との約束を、ほぼ四十八時間は守った。マルコム卿のカフスボタンは単なる趣味だ。エミリーの指輪は故郷への愛着だ。自分は、ロンドン大学で魔導考古学を専攻した、ごく普通の(少なくともMI6の中では)新米分析官だ。


「そう、それでいい。」彼は朝、ネクタイを締めながら鏡の自分に言い聞かせた。「何事もない普通の一日になる。」


 その決意は、オフィスのエレベーターでエドワード・"エディ"・ウィンチェスターに遭遇するまで続いた。


「おはよう、アーサー!そのネクタイ、なかなか...実用的だね!」

 エディは爽やかな笑顔で肩をポンと叩いた。彼は今日も、完璧に仕立てられたスーツを着こなし、悪意の欠片もない純粋な好奇心に目を輝かせていた。


「おはよう、エディ。」アーサーは少し力なく返した。「君に言われると、余計に安物に思えるな。」


「何てこと言うんだ!」エディは傷ついたふりをして胸に手を当てた。「僕は君の実直なセンスを高く評価しているんだぞ?」


 アーサーは思わず笑ってしまった。エディのこの陽気さは、彼の緊張を解す数少ないものの一つだった。


 その日午後、アーサーはまたしても行き詰まっていた。特定の魔導符号の解釈に悩んでいた。符号自体は標準的なものだったが、その使用頻度と文脈がどうにも引っかかった。


「あー、もう!頭が変になりそうだ!」

 彼はうんざりしてデスクに突っ伏した。


「おや?我が局の誇る魔導考古学者が、いにしえの謎に頭を悩ませているのか?」

 エディがコーヒーカップを手に、アーサーのデスクにやってきた。


「ああ、ちょっとした...符号の解釈でね。」アーサーは頭を上げ、ため息をついた。「どうも、どこかで見たような、見たことのないような...。まあ、きっと僕の思い過ごしだよ。最近、何でもかんでも深読みしすぎてさ。」


「深読み?」エディは興味深そうに椅子に腰かけた。「例えば?」


 アーサーは少し躊躇った。しかし、エディは信頼できる同僚だ。彼は音量を落とした。


「例えばさ...先週、地下の第三分析室が『メンテナンス』で使えなくなった日に、なぜか特定の周波数の魔導通信にノイズが入っていたとか、あのあたりの換気ダクトから、たまに甘いような変な香りがしてくるとか...。ばかげてるのは分かってる。僕の頭がおかしくなったんだろう。」


 アーサーが「地下の第三分析室」と「甘い香り」と言った瞬間、エディの顔から笑顔が消えた。

 ほんの一瞬、0.5秒ほどだろうか。その短い時間に、エディの表情が、それまでのにこやかさから、何の感情もない、硬質な仮面のように変わった。あまりにも短い変化で、アーサーは自分が錯覚したのではないかと思いかけた。


 そして、次の瞬間、エディの顔には以前と変わらない友好的な微笑みが戻っていた。


「ははは!」エディは軽く笑い声をあげた。「アーサー、君は本当に細かいところまでよく見ているんだな!換気ダクトの香り?それは...ちょっと飛躍しすぎじゃないか?」


 彼の笑い声はいつも通りに聞こえた。しかし、アーサーは、ほんのわずかだが、その声のトーンに刚才の一瞬の硬直の名残を感じたような気がした。


「ええ、そう言われるとそうだな。」アーサーは照れくさそうに頭をかいた。「やっぱり取り越し苦労みたいだ。」


「そうだろうね。」エディは立ち上がり、コーヒーカップを手にした。「でも、まあ、そんなに気にするな。新入りはみんな、多少は神経質になるものだよ。すぐに慣れるさ。」


 彼は軽く手を振り、何事もなかったように自分のデスクの方へ歩いて行った。しかし、その歩幅はいつもより少しだけ速いように見えた。


 デスクに戻ったエディは、それまで以上に明るく振る舞い、誰に対しても気さくに声をかけ続けていた。


 アーサーはエディの背中を見送り、自分自身に問いかけた。あの一瞬の表情の変化は、本当にあったのだろうか?それとも、自分自身の疑心暗鬼が生み出した幻だったのだろうか?


 彼はデスクの引き出しを開け、新しいノートを取り出した。ノートのページを開き、今日の日付を記入した。そして、ためらいながら、こう書いた。


 エディ・ウィンチェスター - 「地下の第三分析室」と「甘い香り」に反応?一瞬表情が固まった?(錯覚?)


 彼はその文をじっと見つめ、続けて括弧書きで追加した。


(たぶん、錯覚だ。彼は単に驚いただけかもしれない。僕のバカげた推理に。)


 しかし、ノートを閉じても、彼の心の中にわずかな疑念が残った。エディは、自分が想像もしていない何か重要な秘密に関わっているのではないか?


 彼はもう、自分が思い過ごしだと言い聞かせることはできなかった。あの一瞬のエディの無表情は、たとえ錯覚であったとしても、あまりにも生々しかった。


 彼は、ほんの小さな疑問から始まった道が、いつの間にか、より深く、より暗い森へと続いていることに気づいた。そして今、その道の脇に、新たな、そしてより危険な看板が立っていた。


 エドワード・"エディ"・ウィンチェスター -- 注意深く観察せよ。


 彼は知らなかった。この観察が、やがて彼を、想像すらしていなかった巨大な罠の中心へと導くことになるとは。

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