地底の星屑
夏目凪
地底の星屑
錆びたブランコのきいこ、きいこ、という音が世界の一端を作る。暗い夜の中の、住宅街にある小さな公園の、二つ並びのブランコが揺れる。私は右側に座って、左側の音に耳を澄ませていた。
左側からは重そうなぎいこ、ぎいこ、という音がする。感覚を研ぎ澄ませてみれば、暗い空気を纏った誰かが居ることが分かった。
その誰かは、もしかしたら知り合いかもしれないし、知らない人かもしれない。それを知りたいのなら、地面を見つめている顔をそちらに向けるだけ、九十度回転させるだけで良い。それでも、視界にいれるのはタブーに触れるようで躊躇ってしまうのは、その誰かの纏う空気が異様だったからだろう。隣りに居るだけで肌が泡立ち、嫌な予感に包まれる。けれどそれとは別に、不思議な、温かい空気感もあった。矛盾を纏った人間とでも言おうか。疑問と違和感を投げかけてくるような存在だった。
話しかけるべき、だろうか。私はかれこれ数十分はこうしていた。話しかけることも気まずい、立ち去ることも気まずい。つまり、私は気まずさに辺りを囲まれて身動きが取れなくなっていた。
少しだけ悩んで、理由も根拠もなく声を掛けてみることにした。ささくれ立った心の端の方の痛みが、自暴自棄な思考で包み込もうとしてくるから。正常も異常も、判断するための基準を手放してしまったように、目の前にある声を掛けるという選択肢に手を伸ばした。
「あの、はじめまして」
「はじめまして……、そうか。はじめまして」
隣に座っている人は何かを言い淀んで、それからはじめましてと言葉を返した。その声は高かったけれど、性別は分からなかった。イメージとしては機械音に近い。未来から持ってきた合成音声のような声だった。人らしいけれど、人としての機微が見えない。抑揚は確りと付けられているのに、生気を感じない。けれど、不思議とそこに恐怖は抱かなかった。
「どうしてこんな遅い時間に高校生が居るんだ。特に君は女の子だから、危ないだろう」
ふと、男性的だと思った。話し方か、内容か。何方にせよ、生まれてから培われてきた十数年分の勘がそう言っていた。その勘が宛になるかと聞かれれば定かではないが、心の中で男性だと仮定して話すことにした。
「高校生だから。高校生は壁にぶつかって海に行ったり、親と喧嘩して家を出たりするんだよ。青春ってそういうもんでしょ」
「じゃあ、君も親と喧嘩して?」
「いや、違うけど」
「違うんだ。それで?」
誰かは私の言葉を待つように聞き返した。文字にしてしまえば素っ気ない三文字も、真綿に包んだように温かく言った。それはまるで友達同士のような、どこにでもある家族のような空気を作り出していて気分が悪くなる。けれど、何となく話さなければいけない気がした。
話しかけたことも、今個人的なことを話そうとしていることも、外的な力が及んでいるような気がしてならない。普段であればもう少し高いはずの警戒心が、辺りの空気に溶け出しているような気がした。自分で自分の行動に疑問を持つほどに、今の私は変だった。
けれどその天文学的な、理解の届くはずのないことを考えたところで変化は起こらない。だから私はその何かに背を押されるように、今日の出来事を口にした。
「私の父親、と言いつつ会う前に死んだから会ったことないんだけど、そいつのせいで色々嫌なことが起こってて」
「そっか」
「私が生まれたすぐ後に死んだらしいんだけど、その時に人様に迷惑かけてて。ていうか、小さな子どもを轢き殺してるんだよね。死ぬときは一人で誰にも迷惑を掛けずに死んでほしいんだけど。そのせいで、どこに行ってもバレて逃げるの繰り返しでさ。ここに来たのも前に通ってた中学校でバレたからなんだよね。直前で受ける高校変えなきゃいけなくて凄い大変だった」
乾いた笑いが口の間から漏れる。いつもなら押さえられる自嘲が、不快感を顕にした表情とセットで吐き出された。外向きの棘が付いたベールに包まれているようで居心地が悪い。それは今日の昼から地続きに私の首を絞めていく最悪なことのせいかもしれない。当たり前に、バレて平穏が崩れる瞬間は、今まで積み上げてきたものを呆気なく修復不可能なまでに壊していくのだから。
今日だってそうだ。高校に入って久しぶりに得た平穏の崩れる音がした。
高校に入ってから今日まで、なんとかバレずに上手くやっていた。新しく友達を作り直す高校という性質上、比較的人と関わらない私にも友達というものが出来てぬるま湯に浸かるように束の間の平穏を楽しんでいた。
しかし、いつぶりかに得た友達の親に、父親のしたことがバレた。そして予想通り、家族に縁を切れと言われたらしい。何度も謝りながらその場を後にした友達の後ろ姿が脳裏に浮かぶ。それはバレてしまった以上、仕方がないことだった。
私もその気持ちが分からないわけではない。自分の大切な人が人殺しの娘と関わっていると知ったら引き離したくなるのが人の心というものだ。
けれど理解出来ることと納得できることは別物だし、それを自分ごととして受け入れるのは難しい問題だった。理解出来るからこそ、怒りが募ることも多々あった。今回は後者の理解が出来るからこそ、相手の浅慮な心に苛立ちが募った方だった。私は彼女が傍に居られない理由を理解しているのに、彼女は自分の言ったことで起こる影響が分からずに言葉を発せるその才能に、最早感心さえ覚えた。
「友達にバレちゃったんだ」
誰かは、少し空気を明るくするように努めて言った。けれどその気遣いを受け入れられるほど大人ではないし、そもそもその気遣いが今の私には煩わしかった。
「友達、だったのかな。もう分かんないや。私だけが友達だと思ってたのかもしれないし。私も友達だと思えてなかったのかもしれないし。自分の心の保証すら出来ないのに、友達を作るなんて馬鹿みたいになっちゃった」
涙の一滴すら零れることがない自分に嫌になる。心を預けることを辞めたのなら、やはり私は彼女のことを友達だと思えていなかったのかもしれない。ならば自業自得だろう。自分は大事に出来ないけれど相手には大事に思って欲しいなんて、傲慢以外の何者でもない。私は、傷付く内に自衛の為に他者を大事に出来なくなり、その上自己中心的になっていたようだった。
「友達はこの先も仲良くしようって思っていたかもしれないよ」
「そんなわけないよ。……そんなわけないから」
それしか言えなかった。確かに何人かの友達と取り留めのない、昨日のドラマの話とか、最近の流行りの曲の話なんかをすることは楽しかった。多分向こうも、同じようにその場を楽しんでいたはずだ。けれど、期待などしない方が生きていくには随分と楽だった。他人に期待するくらいなら、独りに心を許す方がマシだ。何度目かの引っ越しを終えた後から、ずっとそう思って生きてきた。
いつの間にか、ブランコの音は止んでいた。変わりに小さな虫の声がする。その方が、こんな気の滅入る話題には寄り添ってくれるような気がした。ブランコの音は幼くて少し悩みも可愛く感じてしまうから、例え一匹だけでも蟋蟀の声の方がマシな気がした。
「そっか、ねえ、ごめんね」
「何が?」
いきなりの謝罪に驚いて、この状況が何となく腑に落ちた。けれどそのことを認めたくはなくて、地面の模様を探してはその可能性を頭から追い出した。
「ううん。何でも。ただ言いたくなっただけ」
「何それ。漫画かアニメの見すぎじゃないの」
「そうかも。大人になっても好きだったし」
「たしかに。漫画とかアニメは私も大人になっても好きそう。絶対に漫画の初版とか収集してる未来が見えるもん」
少しだけ柔らかい雰囲気は、多分また霧散してしまうのに、いつも少しだけ嬉しく思うのは何故だろう。その度に心を癒やすから、また新しい傷に痛覚を刺激されるのに、それでも尚その柔らかさを求めてしまうのは何故だろう。
そんな答えの出ない問いを心の中で呟いてみた。心の埋まらない部分に爪を立てて自傷を繰り返す少女のように、血に塗れた心臓が拍動を繰り返す度に愛を探して馬鹿になる。そんな無意味な行動を辞められずにいるから、私は逃げてばかりなのだと、知らない幼子に言われているような気持ちになった。
「ねえ、子どもは好き?」
「随分と話題が変わったね」
誰かはころころと朗らかに笑う。母親も、そんな笑い方をするときがあったことを思い出した。今はしない。何度も引っ越しを繰り返し心を病んでいく内に、そもそも笑わなくなった。だから、とても懐かしく温かい気持ちをその笑い声は運んできた。たぶん春風に似ているのだ。秋の残暑の中で、一際輝くその笑い声は、何となく春の暖かさを思い起こさせた。
「若者は飽きっぽいの。それで、子どもは好き?」
「何方でもないかな。それでも敢えて決めるなら嫌いかも」
そうして一拍置いて、言葉を続けた。
「でも、自分の娘は好きだよ。それだけは言える」
言い切れるほど好きらしい。それほどに強い好きはいっそ羨ましいとさえ思う。
「私も断言できるくらい大切な何かが欲しいよ」
吐き捨てた言葉には思いの外重い感情が乗って、視界が滲むことを堪える代わりに口を真一文字に結んだ。顔が歪んで、何処からか弱い感情が抜け落ちてしまわないように。他人に弱みを悟られないように。
そんな私に、誰かは明るく振る舞った。ずっと、誰かは場が暗くなりすぎないように態とらしい明るさを纏っていた。
「友達を作れば良いじゃない」
「そんな簡単に友達が出来るんならこんなに苦労してないんだって」
普段は言葉を選んでいるのに、今は頭に浮かんだ言葉が引っ掛かることもなく出てきていた。久しぶりに神経を過剰に尖らせずに話せていて、隣に座る人の正体を答え合わせしたくなったけれど、やはり顔を向ける気にはならなくて地面を見つめていた。
「話してみれば案外分かってくれたりするんじゃないか。若者は勘違いをするのも早いが、自分の考えを改めるのも早いだろう」
「やらないよ。考えを変えるなんて手間だし、そんなことしてる内に噂なんて学校中に広まってるし。一人なら何とかなっても数の力は偉大だから」
確かに、父親の起こした事故は私には関係がないし、そもそもあれは事故であって父親が完全に悪いわけではない。こんなことを言えば世間から弾かれるから絶対に言わないけれど、子どもから目を離しスマホばかりをイジっていた両親にも、何を思い立ったのか見通しの悪い場所からいきなり車道に飛び出した四歳の子どもにも、私は過失を思ってしまう。
自分たちだって子どもを放置していたくせに、両親は車に撥ねられて死んだと分かった瞬間にただ私たち母子を責め続けた。自分たちの行動を顧みることもせず、ただ金を払えと喚き散らした。
だからあの夫妻に新たにできた子どもが炎天下の中車に置いていかれて熱中症で死んだ時にはほれ見たことかと思った。結局はハズレくじを引いたのが父親だっただけで、父親が回避していたとしても他人がそのハズレくじを引かされていたのだ。だからやはり、私には父親だけが悪いとは思えなかったし、他人を説得したい理由も十分にあった。
けれど、たとえ私一人が何かを変えたいと言ったとて、同調圧力は常に数の多い方から影響を及ぼし続ける。実力差の開いたオセロのように、ひっくり返した先からまた戻される。一生盤面は白が大多数のまま。そうしてそのまま全て終わってしまう。現実はもっと露骨で、たった一人の本人を残して後は全てが敵に回る。ならば初めから、試みるだけ無駄だろうとも思う。
ふと会話が止まって、公園内の音に耳を澄ませれば途切れ途切れの蟋蟀の声が聞こえる。多分、二匹分。仲が良いんだか悪いんだか。私から見ればそうだけれど、もしかすると彼らからしたら命を賭けるべき争いなのかもしれない。男と男の、とかいうやつ。私には分からない。結局、当事者から離れてしまえば取るに足らないことに思えるのだ。それはきっと、私の抱える悩みの全ても。
公園の外から足音が聞こえる。そちらに視線を向けるために、ブランコに座ってから漸く顔を上げた。遠くの暗闇に溶けたシルエット。塾の鞄に付いた僅かに光るストラップは私の知っている物だった。
「莉央……」
私の父親に気付いた子だ。多分、今日の朝までは友達だった子。今はただクラスが同じなだけの他人。そう、他人だ。だから声を掛ける義理なんてないし、直ぐに視線を逸らしたとしても問題はない。けれど、彼女の姿から目が離せない。やはり私には心を殺すなんて合ってない。どれだけ傷を負っても、誰かを必要としてしまうのだ。
「あ、優里ちゃん」
あちらが気付き、気まずそうに声を掛けてきた。学校では一日中無視していたというのに、人の目がなくなった途端に態度が変わるとは本当にあからさまである。彼女は立ち止まり、私の方に来るべきか思案しているようであった。
彼女は微妙な顔をしていた。そんな顔をするくらいなら声なんて掛けなければ良いのに。彼女は変なところで正直なのか、中途半端な態度をよくとっていた。今日私を無視しているときだって、時々ちらりとこちらを向いては話しかけるのを諦め前を向いていた。そんなに後ろの席を気にすれば目立つのに、彼女は先生が板書をする度に後ろを向いた。それが滑稽で愚かで、残酷な所業に思えた。
彼女の姿を足元から頭の天辺まで見る。綺麗な私服に身を包まれて、幸せな家庭の雰囲気に包まれている。本当に残酷な存在だと思った。彼女は存在だけで他人を不幸にすることの出来る人間だった。それも無意識でやるため、本人の自尊心は傷付くこともない。
ふと彼女の後ろに目を向ける。
それは一瞬だった。それを察知した瞬間に私は彼女の名前を叫びながら走り出していた。
「危ない!」
それに驚いた彼女は周囲を見回して危険をその目に映すと飛び上がった。間一髪で彼女の後ろに大型バイクが倒れ込む。あれに巻き込まれていれば骨折はくだらなかっただろう。
私は余りのことにその場に立ち竦んでしまった。一拍遅れて襲ってきた恐怖が足元から昇ってくる。
「怪我は大丈夫?」
私がそう聞けば彼女は怯えた表情で頷いた。無理もないだろう。あんな、命の危機を感じるような瞬間は多くはない。
「あり、がとう。凄い危なかった」
声も身体も震えていて、荒くなった息に肩が上下している。また、目の焦点は定まらずに虚空を眺めていた。
「や、ばい。死ぬかと、思った」
途切れてはまた紡がれる言葉が、彼女の恐怖心を明瞭に表している。彼女は公園の中、私の傍に寄って小さく蹲った。
「本当に優里ちゃんのお陰だよ。ありがとう」
彼女は強がった笑みで私を見上げた。まだ死の恐怖に震える身体を抱き込め、大丈夫だと自分に言い聞かせるように強くあろうとしている。
私はしゃがんで、彼女と目線を合わせた。そして震えた手を握った。
「別に。友達だし」
「うん。そうだよね。ごめんね。学校ではあんなこと言っちゃって」
彼女は本当に申し訳無さそうに謝った。これならば私の話も聞いてくれて、ちゃんとした友達になれるかもしれない。さっき話した通り、オセロの盤のようにすぐに大多数に戻ってしまうのではなく、オセロの角で一生裏返されない友達になれるのかもしれない。
そんな期待が私の心に募った。本心からの彼女の謝罪を、私も本心から受け入れようと思った。他人に預けることを辞めた心を、少しだけ分けてみようと思った。
「あの……」
「ごめんね。私も貴方のことは本当に友達だと思ってるの。でもお母さんに言われちゃったし、周りの人に見られると困っちゃうから。勿論、誰にも言わないよ。言いふらすようなことはしない。でも、学校では今まで通り仲良くとは出来ないかも。本当にごめんね」
ああ、そうだ。期待なんてするだけ無駄だと、どうして一瞬忘れてしまったのだろうか。結局彼女も私が怖いのだ。いくら助けられようと、初めに植え付けられた怖いという意識が彼女から完全に消えることはないのだ。
言い訳を並べ立てる浅ましい様子は見ていられない。今の自分がただ無視をするよりみっともない姿を晒していると彼女は気付いていないのだろう。それがどうにも滑稽で悲しかった。
「大丈夫だよ。謝らないで」
私は冷めた目で彼女を見下しながらそう言った。
けれど、彼女は安堵したように笑った。目を細めて口角を上げて、本当に嬉しそうな笑みだった。
「ありがとうね」
彼女は許されたと思っているのだ。この会話のどこに許される要素があったのか逆に聞きたいくらいだ。自分で誰かを傷つけたくせに、良心を守るためだけに薄っぺらい謝罪をし、自分の罪悪感を癒やすためだけに頭に浮かぶ他人の理由を並べあげていく。こんなのを友達だと思っていたのなら、私も見る目がない。彼女とクラスで何を話して楽しかったのか、もう思い出せなかった。
「バイバイ。また学校でね」
「バイバイ」
まだ、私に向かって振られた手が震えてはいるものの彼女は笑顔で去っていった。今日の朝からずっと心の柔らかいところに引っかかっていたものが取れて、清々しい気持ちになれたのだろう。その取れたものを無意識にでも私に押し付けることで。
彼女はあと数日もすれば傷つけた人間と会うことなど一生ないということを知る。過去が露見したことを母が知れば、私のことなど気にもせずまた引っ越しを決める。そこで新たな生活を送ることになるのだから。
ある意味では穏やかな気持ちでブランコに戻れば、もうそこに人はいなかった。この公園の出入り口は一つだがそこは私と彼女が塞いでいた。だから文字通り消えたのだろう。どうやってというのは無粋な話だ。そもそも、その存在自体が初めからファンタジーに包まれていたのだから。
「何コレ」
先程まで誰かが座っていたはずのところには桃色の小瓶が置いてあった。瓶の六分目ほどまで入っていて、その中には小さな橙色の造花が咲いている。
冷たいブランコの席から小瓶を取り上げて中をよく見てみると、桃色の粒の中に星の砂が沈んでいた。まさか私は数分間ずっと星の砂と話していたと言うのだろうか。いや、そんなことはあるまい。隣に居た気配は、確実に人のものだった。そもそも私はちゃんと話していた人間を知っていた。そう、本当は知っていたのだ。
男性にしては少し高い声も、平均より少しだけ小さな身体も、次に次にと話したくなって次第に空気が和んでいくところも。全て母親から聞いた特徴と合致していた。
さっき話していたのは私の父親なのだろう。認めたくなかっただけで私の心の解け方も、会話の途中でいきなり謝ったことも、父親であれば簡単に説明がつく。
手元の星の砂の入った桃色の小瓶を揺らした。それは記憶の彼方で、母親が父親から昔送られたものだと嬉しそうに持つ影と重なった。
父親のことはどうも嫌いだ。今まで掛けられた苦労を考えてみれば嫌いになることも致し方ないと思う。その一方で、闇に飲まれてしまうほど強い感情を持っている訳では無い。初めは強かった憎しみも、慣れと時間の経過で風化していった。
そういうものなのだ。人は憎しみであろうと愛であろうと、激情を抱き続けるには弱い生き物なのだ。どれほど愛し合っていた恋人も何れ気持ちは冷めるし、強く憎んだ者を漸く殺した先で無力感に襲われることだってある。だから今の私には、何とも思っていないという言葉が似合うような気がした。
だから、父親の思い出を擽るような何かがあったとて、特別に思うことなどないはずなのだ。私の中にある父親への感情は、年々擦り減っていく一方なのだから。けれど、手元の小瓶には心が灯っているような気がした。それはけして綺麗とは言い難いけれど、淡く地の底から見守っているとでも言うような星が小瓶の中で光っていたからだろう。地に伏していた星屑たちが精一杯輝いている様は、空の星に見下されるより幾分かは心に優しかった。
この小瓶を持ち帰って、母親に見せようと思った。もしかしたら捨ててこいと怒られるかもしれないし、逆に泣き出してしまうかもしれない。年々情緒不安定を極めていく母親の反応はなかなか予測が難しい。けれど、喜んでくれると良いと思った。碌でもない親だけど、やはり、私にはあの母親しか同じ経験をした人はいなかったから。
「一応ありがとうね。お父さん」
小瓶に付いた紐に人差し指を通してくるくる回す。特段意味のない行動だが、それだけで心の暗い部分が少しだけ晴れるような気がした。一緒にいるだけで心が軽くなるような人だったのだ。今でも母親の口から時折その言葉が漏れる。未だに人の心の大事な部分を明け渡さない程に好い人だったのかと思う。それでも、たった一つのことで全てを失うのだ。この世は、余りにも理不尽すぎる。理不尽で恐ろしい。
けれど、地に堕ちてしまった我が家の星はそれでも輝こうとしているのだから、私たちも前を向かなければいけない。他人に期待なんてしないけれど、この理不尽な世の中を生きていくべきなのだと誰かに言われている気がした。
また、無意識の内に地面を向いていた視線を上げた。そして、小瓶をポケットに仕舞って公園を出る。
公園には低めの蟋蟀の鳴き声が一つ、ツーっと響いていた。
地底の星屑 夏目凪 @natsumenagi
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