毛虫を吐く女

吾妻栄子

毛虫を吐く女

「本当に会いに行くのか?」

 すみれの香水の匂いが仄かに漂う馬車の中、焦げ茶色の髪に灰色の瞳を持つ王子は妃の手を握る。

 輝く絹糸めいた金の髪にアクアマリンさながら透き通った空色の瞳、陶器じみた白く滑らかな肌、薔薇の花びらさながら紅くふくよかな唇。

 衣裳は王侯貴族としては控えめだが、この妃は正に本人の体が珍重な宝物で出来ているかに見えた。

「ええ」

 答えた妃の紅い唇から真珠が一粒転がり落ちる。

「仲違いしたとはいえ家族ですから」

 今度は血のように鮮やかなルビーが二粒零れ落ちた。

「せめて私の吐く宝石を当面の暮らしに充てさせてやりたいのです」

 掌に新たに吐いた二個のダイヤモンドを見詰める。


*****

 泉を頂く紅葉の山の麓の程近くで車は止まった。

 馬車から降りた王子夫妻は秋の湿った草木の香りの漂う中を歩き出す。

 黄金に色づいた木立の傍に立つ粗末な家を認めた妃の碧い双眸に懐かしさとやりきれなさの影が交互に現れた。

“毛虫を吐く女の家”

 家の壁には大きく黒炭で殴り書きされたまま風雪を経た文句が浮かび上がる。

 目にした妃の滑らかな面にひび割れるような痛みが走った。

 それでも歩みを進めていくと、粗末な木の扉には白墨の流麗な文字で綴られている。

“読み書きできる方には筆談で そうでない方には身振り手振りで応じます”

 妃は従者に振り向いて告げる。

「紙とペンを」

 その唇からまた真珠が二粒転がり落ちた。


*****

 金髪の妃は絹の手袋をした小さな手で木の扉を叩いた。

「母さん、ファンション」

 最初の呼び掛けで大粒のダイヤモンド、次なる呼び掛けでルビーが飛び散る。

「私よ、カトリーヌです」

 真珠じみた歯並びの間からパラパラと真珠が零れ落ちた。

――ギイイッ……。

 粗末な木の扉が軋みながらゆっくりと開く。

 金髪の妃の碧い瞳には懐かしげな光、そして背後の王子や侍従たちの目には驚きが走った。

「そなたの姉も美しいのだな」

 王子は最初の驚きからどこか納得するような面持ちに変わりながら続ける。

「毛虫を吐くと聞いてさぞや醜い女だろうと」

 その言葉を耳にした家の主たる女は苦い笑いを浮かべた。

 身に付けている服こそ質素だが、結い上げた豊かな射干玉ぬばたまの黒髪は秋の陽射しに照り映え、エメラルドじみた深緑の瞳は澄み、小さく閉じられた珊瑚さんご色の唇は陶器じみている。

 のみならず、向かい合う妃と似通った腰高で手脚の長い体つきをしており、傍目にも血の繋がりが浮かび上がるようであった。

「母も黒髪に深緑の目の美しい人でしたから」

 迎え出た姉しかいない家の気配に何かを察したように妃は語る。

 妹の薔薇色の唇からまたもダイヤモンドが転がり落ちる様を姉は痛ましい面持ちで見詰めた。

 「金髪に青い目の私は家族を捨てて出て行った父に似ていると言われ疎まれていたのです」

 声は密やかだったが、ドレスの足元には大粒のルビーが二つまた一緒に落ちて、地面にぶつかると、分かれて転がっていく。

 それをしおに従者が羊皮紙と羽ペンを差し出した。

“それからいかにお過ごしでしたか?”

 絹の手袋をした妹は流麗な字で紙に綴ると、姉に羽ペンを差し出す。

 やや荒れた手をした姉はペンを受け取ると、妹に似ていてもう少し太く堅固な筆跡で書き始めた。

“母はあれからすぐ泉に身を投げて死んでしまった”

 羽ペンで羊皮紙に綴る姉と妹の間に凍った空気が流れる。

“あなたが出て行って、口を開けば毛虫を吐くようになった私に絶望したのだと思う”

 無言のまま珊瑚色の唇が噛み締められた。

“私が亡骸に取りすがって泣き叫んでいる間にも口からは次々毛虫が落ちてきて、皆が気味悪がって逃げた”

“石を投げつける人も”

 羽ペンで書き進める姉の方は淡々とした面持ちだが、相対する妹とその背後の人々の顔には痛ましいものが走った。

“それからは誰にも会わず、家に閉じこもっていた”

“このまま飢えて死んでもいいと”

“私はもう喋る度に毛虫を吐く、化け物も同然の女”

 紙に綴る姉も眺める妹も表情の消えた面持ちになる。

 そうすると、向かい合う二人の女の面影には青ざめた彫刻じみた端正さが浮かび上がっていっそう似てくるのであった。

“誰も助けてはくれない”

 妹妃は沈鬱な面持ちのまま地面に落ちた宝石を拾い集めている従者にふと空色の目を走らせる。

 一方、姉は質朴な装いの背筋をすっと伸ばして堅固な文字で続けた。

“でも、ある時、自分の吐いた毛虫の一匹が蛹になり、美しい蝶に変わって窓の外に飛んでいくのを見た”

 ひらり、とどこからか飛んできた黄揚羽きあげはが質朴な家の窓枠に止まる。

“生まれた時はおぞましい毛虫でも輝く蝶に生まれ変われるのだと”

 人々が見詰める中、蝶はまた陽射しに鮮やかな黄と黒の模様のはねを透かして羽ばたいていった。

“それからは懸命に畑を耕し、糸を紡ぎ、機を織るようになった”

“言葉を発さなくても出来る仕事を”

“綴り方も学んだら報酬の良い仕事が増えました”

「フエエエン」

 不意に黄金色の木立の方から赤子の泣き声が響いてくる。

 人々が振り向くと、質素な服の背に赤ん坊を負った若い農夫がとび色の目にどこか驚きと畏れを浮かべて立っていた。

 妃は懐かし気に夫王子に紹介する。

「『おしのシャルロ』ですわ」

 ダイヤモンドを吐き出す妃の言葉に農夫は被っていた帽子を取ると瞳と同じ鳶色の髪の頭を下げて一礼した。

「私たちが子供の頃からずっと近所に住んでいました」

 今度はルビーを唇から落とした妃とその向こうに立つ飾り気の無い装いの女に物言わぬ男は穏やかな眼差しを向ける。

 姉は農夫に向かって優しく頷くと、羊皮紙に綴った。

“初めて家の外に出たその日、籠を抱えた彼がやっぱり木立の前に立っていて林檎りんごをくれた”

“彼とは身振りで話せる”

“去年、息子のエメが生まれました”

 妹妃に羽ペンを預けると、女は泣いている赤子を背負った夫に近付く。

 夫は赤子を背にくくりつける紐を解いた。

「マンマ」

 母の胸に抱かれた赤子は小さな口から乳臭い匂いと共に声を発した。

「マンマ」

 母親は深緑の瞳を細めて子の桜桃さくらんぼじみた小さな唇を撫ぜると、妹妃からまた受け取った羽ペンで紙に綴った。

“この子は普通に話せます” 

“宝石も出さない代わりに毛虫も吐かない”

“それが今は救いです”

 綺羅を纏い絹の手袋を嵌めた妹を姉はどこか憐れむ風に微笑んで見やった。


*****

「我々が心配するまでもなかったようだな」

 走り出した馬車の中、王子は灰色の瞳を細めると隣の妃の肩を労う風に抱いた。「あの夫のように生まれつき口の利けない者もいるのだから」

 妃はどこか強いられた風に微笑んで頷く。

「我らには如何いかなる子が生まれるだろうか」

 呟く夫をよそに妃は薔薇色の唇を固く閉じて色とりどりの蝶が舞い飛ぶ野原を眺めていた。

 陽の傾き始めた道を馬車は白亜の城を目指して戻っていく。

(了)

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毛虫を吐く女 吾妻栄子 @gaoqiao412

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