第20話

 海が好きだった。僕が泳げる側の人間だったからだ。

 小さな頃から、なんでもそれなりにできた。みんなより早く走れるし、ある程度絵も描けた。勉強は、自信がないと言えば嘘になる。小学校なら、百点が当たり前だった。

 バタフライを除けば、なんでも泳げた。すいすいと平泳ぎをする僕を見て、「すごい」と誰かが指をさす。それが聞きたくて、わざと頭を上げて泳いでいた。

 夏が待ち遠しかった。はやる気持ちのまま、人生五度目の夏を迎えた。

 ちょっと前、隣に家族が引っ越してきたのだと、母さんから聞いていた。子供は僕と同い年らしい。その子にも泳ぎを見てほしくて、海に誘うことにした。

 背伸びをしながら、隣の家のインターホンを押した。出てきたのは、お母さんらしき若い女性だ。僕が用件を話すと、一旦家の中に引き返していく。少しして「せっかくのお誘いなのよ」と呆れるような声が聞こえてきた。

 再び玄関にやってきた女性は、申し訳なさそうな顔をしながら、謝罪の言葉を並べた。話を聞くに、泳げないから行きたくないのだという。

 仕方がない。一人で向かうとしよう。

 ドアを閉めて踵を返す。すぐに、きい、とドアの開くような音がしたが、振り向きはしなかった。早く海に行きたかったのだ。

 下を見ながら、とぼとぼと歩く。僕の小さな影は、進行方向にぐんと伸びている。僕の足元には、影がもう一つ伸びている。僕が進むと、その影もついてくる。面白くなってきたが、それだけだ。正体を確かめようとは思わなかった。

 海に着く。堤防に上って、砂浜に飛び降りる。服を脱ぎ、鞄に詰めて、予め履いてきた海パン一丁になった。堤防に鞄を置く。顔の近くで、白い足がぶらんぶらんと揺れている。気にも留めずに、振り返って、海に向かって駆け出した。

 夏だ。僕が好きな夏だ。ひとたび泳げば、みんなが見てくれる。褒めてくれる人がいる。海辺に位置するこの町で、泳げるというのは立派な能力なのだ。

 全力で泳いでいたら、すぐに疲れてしまった。休憩するために海から上がる。波打ち際に立てば、水がくるぶしを撫でて気持ちいい。太陽と向かい合って、腰に手を当てる。

 そうだ、そのときだ。堤防の上に、少女が座っているのを見たのだ。

 僕には不思議だった。その少女は水着なんか着ていないし、濡れている様子もない。堤防に足を打ちつけるだけで、退屈そうだ。

 どうして泳がないんだろう。泳ぐって、とても楽しいのに。

 無邪気で未熟な僕には、泳がないんじゃなくて泳げないんだ、という発想がなかった。泳げないのに海に来るなんて考えられなかったからだ。

 案の定、少女に理由を問うと、軽蔑の眼差しを向けられたのだった。

「心配しないで。どうせ、分かってくれないでしょ」

 休校期間中、陽葵にそのときのことを聞いた。第一印象は最悪だったらしい。「後のアレ」がなければ、二度と関わりたくなかったという。

 要するに、僕たちはマイナスの関係から始まったってことだ。それが今では、一緒にゲームを作るほどの仲になるのだから、人生何が起こるか分かったものじゃない。

 陽葵と初めて会ってから、一週間後だろうか。陽葵の母親が家を訪ねてきた。隣人同士ということで、僕の母さんと親睦を深めたいのだとか。

 たいそう驚いたものだ。陽葵の母親の横には、僕を睨んだあの少女――陽葵が立っていたのだから。

 母親同士がリビングで談笑するとのことで、僕たちは部屋で遊ぶことになった。「二人で仲良くね」と扉が閉まった瞬間に、気まずさが荒波のように押し寄せてきた。

 とりあえず、何か遊べるものがないか探し回った。とにかく機嫌を取ろうとしたのだ。だけど、当時はまだパソコンなんか持っていないし、絵本も漫画もなかった。

 また睨まれてしまったらどうしよう。泣かれちゃったらどうしよう。もう必死だった。

「泳げないの」

 突然、陽葵がぽつりと呟いた。

 あまりに急なことで、返答に窮する。動きを止めたまま、彼女に顔を向けるしかない。

「私、泳げない」

 正座したまま、陽葵が拳を震わせた。

 そうだ、そのときに、泳がないと泳げないの違いに気付いた。同時に、自分の過ちを悟ったのだ。

「ごめんなさい」僕が頭を下げる。「泳がないのって言って。わざとじゃなかった」

 陽葵の言う「後のアレ」とは、この出来事だったらしい。どうやら陽葵は、僕にからかわれたのだと勘違いしていたようだった。

 そういえば、僕たちが初めて会った日、陽葵は僕の後をつけていたそうだ。友達になりたかったのだとか。だけど気付いてもらえなかった。それが僕への悪印象に拍車をかけたみたいだ。

 結構可愛いところあるよなって思う。もちろん幼馴染として。

 仲直りの指切りをしたら、気まずさの波はすっと凪いだ。二人でドタドタと走り回り、何気ないことでも腹を抱えて笑った。もう立派な友達だった。

 ひとしきりはしゃいで、冷静になる。ふいに思い出したのは、宿題の存在だ。

 僕たちの幼稚園では、夏休みの間、絵日記を書くことになっていた。とはいっても、簡単な絵を描いて、一文か二文で「楽しかった」と記せばいい。

 僕たちは顔を見合わせて、人生初の悪巧みを計画した。今日のうちに、絵日記を全部終わらせてやろうとしたのだ。

 クローゼットから、折り畳みの円型テーブルを持ち出す。陽葵と向かい合って、それぞれの絵日記を置いた。ここでようやく「あきのひまり」という名前を知った。

 当の陽葵は、嬉々とした表情を浮かべている。「ねえ、ねえ。お話ならね、考えてるの」

「ほんと?」あまりにも楽しそうな顔だ。僕まで頬が緩む。「どんなお話なのさ?」

 陽葵が語り出したのは、僕には到底思いつかないほど、幻想に満ちた話だった。今でも鮮明に思い出せる。

 堤防に座っている陽葵は、海で泳ぐことが怖い。でも、友達の啓太はすいすいと泳いでいる。羨ましいと思っていたとき、海に虹の橋が架かったのだ。その橋は、入道雲の向こうまで続いている。

 二人で橋を渡り、雲を突き抜ける。すると神様が現れた。その神様は、こんなことを告げるのだ。

 泳げるようにしてやろう。ただし、足が尻尾になって、歩けなくなる。

 尻尾を手に入れた陽葵は、今度は陸が恋しくなる。啓太は陽葵のために、毎日海で泳ぎ続ける。大体こういった内容だったはずだ。

 この話の凄いところは、僕視点と陽葵視点の、二通りの語り手がいることだ。五歳の僕にはあまりにも斬新だった。そんな手段があったなんて、と感心したものだ。映画監督の父親に教わって、様々な視点から物語を進められるようになったのだろう。

 当時の僕はというと、単純に胸を躍らせていた。陽葵の話が気に入ったのだ。

 今考えると、絵日記を書くのだから現実的な話じゃないといけない。だけど、書くなら陽葵の話しかないだろうと、当時の僕は本気で思ったわけだ。

 ワクワクを隠し切れないまま、僕はクレヨンを握った。冒頭の部分は、堤防に座っている陽葵と、泳ぐ僕だ。

 一心不乱に絵を描いていると、陽葵が身を乗り出してきた。

「すごいっ」彼女が声を弾ませる。「こういうの、考えてた!」

「ありがとう」自然と笑みがこぼれる。「嬉しい」

「その絵、大好き」

 高校生の今になって思う。小さな頃の方が、芸術的な絵や美しい文章が生み出せたんじゃないかって。僕たちだって、あんなに素直で純粋だったんだから。

「ねえ」五歳の僕が喋る。「陽葵ちゃんのも見せて」

 すると、陽葵は机に覆い被さって、絵日記を隠してしまう。

「恥ずかしい」

 俯きながら、陽葵がそう呟く。今では想像できない。創作物を隠そうとする陽葵の姿なんて。

「大丈夫」

 あの頃の僕は、今よりずっと能動的だった。万能感に満ち溢れて、やること全てに自信を持っていた。専門用語で、幼児的万能感と呼ぶらしい。大人になるにつれて消えるのだとか。

 中二の夏を過ぎて、自信が打ち砕かれて、万能感なんかなくなったと思っていた。身の程を弁えているつもりだった。それなのに、最近になって顔を出してくる。

 人智を超えた魔法の力。酔いしれて、自惚れる。全てが最高に思える、神様みたいな超能力。

 創作の楽しみって、幼児的万能感じゃないのか。幼児退行のそれじゃないのか。

 よしてくれよ。僕たちは、もう、高校生なのに。

「自信持って」

 聞こえてきたのは、五歳の僕の声だ。

「陽葵ちゃんのお話、大好きだよ」

 純粋で真っ直ぐな、僕自身の本音。今の僕は、そんなことが言えるだろうか。

 なんだか急に、幼児的万能感などと考えた自分が馬鹿馬鹿しくなる。海のように澄んだ気持ちがこもった創作物を、どうして幼稚だと蔑むことができようか。

 酔いしれていい。自惚れてなんぼだ。子供でも幼稚でも関係ない。そこに自分自身の居場所があるなら、なんだって作ればいい。

 物語も、絵も、音楽も、そしてゲームも。

 僕たちは居場所を奪われた高校生だ。居場所くらい、自分自身で作ってやるんだ。

 沈黙が訪れる。意識は、僕の部屋に移る。

 憑依するように、五歳の僕の視点になる。

 しばらく経ってから、陽葵が、ゆっくりと体を起こす。震える手で、絵日記を差し出す。ところが、絵は一切描かれていない。その代わりに、文章が並んでいる。

 目を見張った。衝撃を受けた。「楽しかった」しか頭にない僕にとっては、初めて見るタイプの文章だったのだ。

 ――ざあざあと、うみがないている。かみさまのおひげが、ひょっこりとかおをだす。みつめているのは、ふじゆうなわたし。

 絵日記を持ち上げた。何度も読み上げた。手を震わせて、「すごい」と呟いた。僕が泳ぐときに聞こえてくる「すごい」より、何倍も感情がこもっていた。

「ほんとに、すごい」

 新鮮だったのだ。絵本も小説も知らずに、外で遊んでばかりの僕には、絶対に書けない文章だと思った。敵わないと感じたのは、人生で初めてだった。

「そう、かなあ」

 陽葵は、物憂げに顔を逸らす。どうしてこうも湿っぽいのか、単純に気になった。

「私より、もっと、いっぱいいるよ。絵本を書く人とか、もっと、もっとすごいの書くよ」

「陽葵ちゃんも、すごいよ」僕が身を乗り出す。

「でも、一番じゃないし」

 うるさい。関係ない。

 他に上手な人がいようが、そういう人が沢山いようが、知らない。これを書いたのは陽葵だ。陽葵の文章が「すごい」のだ。周りの評価なんか、どうでもいい。

 刺さったのだ。この僕に刺さったのだ。だから褒める。褒めたいから褒める。

 僕は僕の感性を信じる。僕が素晴らしいと思ったから素晴らしいんだ。

「陽葵ちゃんが一番」

 大丈夫。自信持って。

「僕だけのナンバーワン!」

 この僕が認めたんだから。

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